2011年5月29日日曜日

雨降り坊主ー夢野久作

 ある時、太郎の父はお天気が続いて田んぼの水が乾上がっているため、稲が枯れないかどうか心配で毎日毎日空ばかりを見ていました。そんな父の姿を心配した太郎は、彼の為にテルテル坊主をつくることにしました。さて、太郎のテルテル坊主は無事雨を降らすことができるのでしょうか。
この作品では、〈テルテル坊主をあくまで物質として扱う大人と、心が宿っている生き物のように扱う子供の価値観の違い〉が描かれています。
結果的に、太郎がテルテルをつくったその晩、稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。ですが、残念ながら彼のてるてる坊主はその雨のために何処かへ流されてしまいました。
さて、ここで注目すべきは、その後の太郎と父とのテルテル坊主の扱いの違いにあります。まず太郎の方は「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」、「お酒をかけてやると約束していたのに」と、雨を降らせてくれたのはテルテル坊主であると信じており、そのテルテル坊主にご褒美を与えようとしています。彼は子供ながらのみずみずしい感性から、テルテル坊主を心をもった生き物のように扱っているのです。
一方父の方は、「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」という台詞からも理解できるように、彼の場合、テルテル坊主へのご褒美のお酒はあくまでついでのようなものであり、本心は太郎に対して何かしてあげたいと考えています。彼にとってはテルテル坊主はあくまで物質でしかありません。しかし、ただの物質というわけではなく、そのには太郎の気持ちが宿っていることを理解しています。だからこそ彼は、予めテルテル坊主にお酒を与える約束を太郎にしていたのです。

2011年5月26日木曜日

皮膚と心ー太宰治

 「あの人」と今年の三月に結婚した「私」は、ある時自分の乳房の下に小豆粒程度の吹出物を発見します。元々自分自身の外見に全く自信が持てず、吹出物を何よりも嫌っていた彼女は、そこから更に自信を失い、遂には自身を「プロテチウト」と罵るようになっていきます。さて、では何故彼女はそこまで吹出物を嫌い、自信を失っていったのでしょうか。
この作品では、〈自身の劣等感こそが長所に繋がっていたものの、その劣等感を失った途端、その長所も失ってしまったある女性〉が描かれています。
まず、下記の一文はこの作品の一般性を表したものとなっています。

私が今まで、おたふく、おたふくと言って、すべてに自信が無い態を装っていたが、けれども、やはり自分の皮膚だけを、それだけは、こっそり、いとおしみ、それが唯一のプライドだったのだということを、いま知らされ、私の自負していた謙譲だの、つつましさだの、忍従だのも、案外あてにならない贋物で、内実は私も知覚、感触の一喜一憂だけで、めくらのように生きていたあわれな女だったのだと気附いて、知覚、感触が、どんなに鋭敏だっても、それは動物的なものなのだ、ちっとも叡智と関係ない。

つまり、彼女はこれまで自分自身の外見に全く自信が持てない一方、むしろその外見への劣等感こそが、謙譲、つつましさ等の長所に繋がっていると考えていました。またこの繋がりというのは、彼女が外見に「全く」自信が持てないというところが起点となっています。ところが、今回彼女は吹出物を患ったことで、自分が内心自身の肌に自信を持っていたいたことを知ることになりました。そうすると、彼女がこれまで持っていた外見への劣等感が一部否定されたことにより、そこからの長所への繋がりも否定されたことになります。そして、唯一の自慢であった肌も吹出物が出来てしまった今、彼女は誇れるものをすべて失った心持ちがしたことでしょう。だからこそ彼女は、そこから堕落していくしかなかったのです。

2011年5月23日月曜日

眉山ー太宰治

 帝都座の裏の若松屋という、著者がひいきにしている飲み屋があり、その家には自称小説好きの通称眉山という女中がいました。彼女はその無知で図々しい性格のため、著者を含めた彼の友人たちに嫌われていました。ですが、そんな彼女の印象が一瞬で変わってしまう出来事が起こってしまいます。一体それはどういう出来事だったのでしょうか。
この作品では、〈今まで傍にいた人物が突然この世から去ると分かった途端、その人物に対する印象を変える、あるお客〉が描かれています。
まず著者は、それから暫くして体の体調を悪くしてしまい。十日程その飲み屋に行けなくなります。そして体の調子が戻ると、彼は飲み友達の橋田氏を誘って再び眉山の飲み屋を訪れようとします。ですが、彼はその時橋田氏の口から思いもよらぬ事実を耳にします。なんと眉山は腎臓結核で手の施しようもなく、静岡の父のもとに帰っているというではありませんか。そして更に驚くことにそれを聞いた著者は、「そうですか。……いい子でしたがね。」と今までの眉山に対する印象をがらりと変えたような発言をしています。一体これはどういうことでしょうか。
一旦物語を離れて、私たちの日常生活に照らし合わせて考えてみましょう。例えば、私たちの身の回りの家族や友人との関係の中にも、こうった感情の揺らぎは起こっているはずです。嫌いな友人が転校してしまう時、或いは自分の苦手な家族に死が迫っているとき、私たちもやはりこの著者とおなじような印象を少なからずもつでしょう。では、私たちはどうしてこのような印象をもつのでしょうか。それは、彼らが私たちの生活に強く根付いていればいる程、そういった感情は強く出ます。つまり私たちは、何も彼らがいなくなることのそれよりも、自身の生活の変化に対して、ある種の寂しさのようなものを感じているのです。そして、この寂しさからこの著者も私たちも、今まで幾ら疎ましく思っていた相手に対しても、「あいつはいい人だった」と印象をころりと変えているのです。このように、私たちがもつこういった印象は、他人を通して自身の生活の変化に対し感じたものなのです。

2011年5月14日土曜日

燕と王子ー有島武郎

 ある時、一匹の燕は葦と仲良くなり、仲間が帰ってもなかなか帰ろうとはしませんでした。やがて冬が間近になってくると、葦は燕に対して、「それはいけません、あなたはまだ霜というやつを見ないんですか。(中略)私は今年はこのままで黄色く枯れてしまいますけれども、来年あなたの来る時分にはまたわかくなってきれいになってあなたとお友だちになりましょう。あなたが今年死ぬと来年は私一人っきりでさびしゅうございますから」と別れを告げることにします。燕は葦の言葉に納得して、南を向いて心細い旅をすることになりました。
その後燕は旅の途中で、心優しく立派な王子の像と出会います。この王子は燕に対して、不幸な人々のために自分の体の金を剥ぎとって、それを彼らに持っていくように事あるごとに命じます。燕も王子の志に感じ入り、毎回彼に従います。ですが、他人のために自分の金を使っているため、王子の体は次第に見窄らしくなっていきます。一体彼は何故そこまでして、他人に尽くすのでしょうか。
この作品では、〈他人の喜びが自分の喜びであると考えている、王子の像〉が描かれています。
まず、王子の行動原理は「王子も燕もはるかにこれを見て、今日も一ついい事をしたと清い心をもって夜のねむりにつきました。」の一文からも理解できるように、他人の喜びこそが自分の喜びだと考えているところにあります。ですが、この王子の考えは自分の心を満たすために他人に尽くす、所謂自己満足的な考えとは一線を画しています。それは次の一文をみても分かるはずです。「泣くほど自分のものをおしんでそれを人にほどこしたとてなんの役にたつものぞ。心から喜んでほどこしをしてこそ神様のお心にもかなうのだ。」つまり彼は、自分の喜びが先にくるのではなく、他人の喜びが先でないといけないということをここで主張しています。そして私たちは、王子のあくまで他人の喜びのために行動し、そこに自分の喜びを見いだしている姿に感動を覚えることでしょう。

2011年5月12日木曜日

眉山ー太宰治(未完)

 今回の作品では自分で問を立てているにも拘らず、自分で答えられていない為、未完とさせて頂きました。不完全な評論です。ただ修練故、あえて未完成ながらアップをします。



帝都座の裏の若松屋という、著者がひいきにしている飲み屋があり、その家には自称小説好きの通称眉山という女中がいました。彼女はその無知で図々しい性格のため、著者を含めた彼の友人たちに嫌われていました。ですが、そんな彼女の印象が一瞬で変わってしまう出来事が起こってしまいます。一体それはどういう出来事だったのでしょうか。
この作品では、〈今まで傍にいた人物が突然この世から去ると分かった途端、その人物に対する印象を変える、あるお客〉が描かれています。
まず著者は、それから暫くして体の体調を悪くしてしまい。十日程その飲み屋に行けなくなります。そして体の調子が戻ると、彼は飲み友達の橋田氏を誘って再び眉山の飲み屋を訪れようとします。ですが、彼はその時橋田氏の口から思いもよらぬ事実を耳にします。なんと眉山は腎臓結核で手の施しようもなく、静岡の父のもとに帰っているというではありませんか。そして更に驚くことにそれを聞いた著者は、「そうですか。……いい子でしたがね。」と今までの眉山に対する印象をがらりと変えたような発言をしています。一体これはどういうことでしょうか。
一旦物語を離れて、私たちの日常生活に照らし合わせて考えてみましょう。例えば、私たちの身の回りの家族や友人との関係の中にも、こうった感情の揺らぎは起こっているはずです。嫌いな友人が転校してしまう時、或いは自分の苦手な家族に死が迫っているとき、私たちもやはりこの著者とおなじような印象を少なからずもつのではないでしょうか。そしてそこには様々な感情、例えば、自分の環境が変わる寂しさ、相手の立場になって考えた時に起こる同情など、そういったことが渦巻くはずです。

2011年5月11日水曜日

美少女ー太宰治

 著者とその家内は、その年の六月の暑熱に心身共にやられていたため、甲府市のすぐ近くに、湯村という温泉部落に向かうことにしました。そこの温泉の中で、著者は清潔に皮膚が張り切っていて、女王のような美少女に出会います。そして彼は美少女の美しさに感動し「あの少女は、よかった。いいものを見た、」とこっそり胸の秘密の箱の中に隠して置きました。
七月、暑熱は極点に達するも、著者は温泉に行くお金を工面出来ない為、髪を切ってそれを凌ぐため、散髪屋へと足を運びます。そこで彼は再び例の美少女と出会うことになるのです。
この作品では、〈他人と知り合いを大きく区別している、ある著者〉が描かれています。
この作品の中の著者の論理性を紐解くには、美少女とその他の他人とを比較しなければなりません。彼は他人に対しては基本的に、「私は、どうも駄目である。仲間になれない。」、「『うんと、うしろを短く刈り上げて下さい。』口の重い私には、それだけ言うのも精一ぱいであった。」と、接触をひどく嫌っています。ですが、一方美少女に対しては「私は不覚にも、鏡の中で少女に笑いかけてしまった。」と、明らかに一線を画しています。これは一体どういう事でしょうか。
著者がこのような行動をとった重要な要素としては、美少女が彼を覚えていること、又彼自身が彼女を少なからず知っていることが挙げらます。そして上記の要素が合わさった時、彼は彼女を知り合いだと感じ、笑いかけているのです。つまり著者は他人と話すことを嫌う為、温泉や散髪屋での会話に戦々恐々し、美少女に関しては知り合いだと感じているからこそ、自分から接していこうとしています。彼にとって他人と知り合いには、それだけ大きな隔たりがあるのです。

2011年5月6日金曜日

うた時計ー新美南吉

 二月のある日、野中のさびしい道を、十二、三の少年と、皮のかばんをかかえた三十四、五の男の人とが、同じ方へ歩いていました。やがて二人は自然と会話をはじめます。その会話をしている中で、少年は男のポケットに注目し、自分の手を入れたいと言ってきました。男は快く了承し、少年は彼のポケットに手を入れます。すると少年はそこで、男のポケットに何か入っていることに気がつきます。彼のポケットに入っていたのはうた時計でした。少年はそのうた時計に興味を抱き、やがてそれは彼がよく遊びにいく薬屋のおじさんのものと同じだということに気がつきます。さて、しかし男が持っていたうた時計は、果たして本当に薬屋のもっていたものと偶然同じだったのでしょうか。
この作品では、〈二人で話しているときは相手の気持ちが分からなかったものの、他人を介することで、それが分かったある男〉が描かれています。
まず、上記の男の正体とは、なんと少年の行きつけの薬屋の主人の息子だったのです。彼は改心して真面目に働くつもりでしたが、一晩で仕事を辞め、挙句の果てには父親の時計を二つ盗んで出てきてしまったのです。この時、恐らく男の心には罪悪感というものはなかったでしょうし、薬屋の主人の気持ちも全く知らなかったことでしょう。ですが、少年を介して薬屋の主人の話を聞くことによって、自分がどう思われているか、またどれだけ心配しているかを知り、時計を返すことを決心したのです。
そして、男が少年を介して薬屋の主人の気持ちを知ったように、薬屋の主人も、少年が持ってきた自分の時計を見てその音楽を聴くと、「老人は目になみだをうかべた。」と男の気持ちを知ることができたのです。
このように、直接二つの物、人物では上手くいかないことがあっても、その間に何かを挟むことに物事が円滑に進んみ、或いは相手の気持ちが理解できることがあります。例えば、私の数少ない経験から申しますと、ある友人と喧嘩をしたことがありますが、私は相手の話のペースに呑まれ、言いたいことの半分も言えなかったことがあります。そこで私は、二人の間に手紙という文章を挟み、相手に送りました。後日相手から返事があり、私と同じように自分にも悪い部分があったと非を認めてくれました。
当人同士ではうまくいかない時でも、何かを挟むことによって、かえってうまくいく場合があるのです。

2011年5月5日木曜日

一つの約束ー太宰治

 難破して、わが身は怒濤に巻き込まれ、海岸にたたきつけられ、燈台の窓際につかまっていた人物がいました。彼は燈台守の家族に助けを求めようとしましたが、自身のせいで家族の団欒を破壊することを一瞬躊躇ったせいで、並に流されてしまいました。そして、著者はそういった誰もが知らない、不幸にもある種の輝きをはなっている人物たちにむけて、ある約束をしています。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では、〈文学に対する、ある使命〉が描かれています。
まず、この作品の要諦は次の一文に集約されています。「誰にも知られぬ或る日、或る一隅に於ける諸君の美しい行為は、かならず一群の作者たちに依って、あやまたず、のこりくまなく、子々孫々に語り伝えられるであろう。」つまり、このようなだれも知らない、喜劇であり、またある種の輝きをもった人物たちを作品として発表し、世に知らしめることが文学のひとつの使命であることをこの一文で述べています。そうしてそれらの作品は人間の輝きを世の人々に見せ、私たちに希望や感動、そしてその苦悩を教えてくれるものになるはずです。

2011年5月3日火曜日

葉桜と魔笛ー太宰治

 事件は三十五年前の、桜が散って、葉桜のころに起こります。「私」は二十歳のころ、中学校長の父と病弱な妹と共に住んでいました。妹はその頃、自身の想い人であるM・Tと文通を交わしていましたが、彼は妹の病気のことを知ると「もうお互い忘れましょう」と言って一通も手紙をよこさなくなったのです。そこで妹を哀れに思った「私」は、M.Tを装い、妹に手紙を宛てることを決意します。ですが、これはすぐに妹に見破られ、そして妹から予想だにしない言葉を聞きます。それは一体どのような内容だったのでしょうか。
この作品では、〈他人の幸福を願うも自身の欲求は願えない、信仰をもったある姉〉がが枯れています。
まず、この作品では、姉妹がそれぞれ嘘をついていますが、それらが異なる理由によってつかれたものであることに注目しなければなりません。
はじめに妹のほうですが、これは上記にあるように、妹の予想だにしない言葉がまさにそれにあたります。なんと彼女はあまりの寂しさのため、自身で理想の想い人を描き、その人物になりきって手紙を書いていたというのです。言わば、彼女は自身の欲求(物欲)の為に自分に嘘をついたのです。
一方の姉の方ですが、彼女は妹の為を思い、M.Tを装い妹に手紙を宛ています。言わばこれは他人の幸福を願う、信仰の心からきています。そしてこの信仰とは、自分の幸福には関係なく、常に他人に向いていなければなりません。
ですが、ここで大きな問題が起きてしまいます。それは姉が自身の嘘の手紙の中で、「僕は、あなたを愛しています。毎日、毎日、歌をつくってお送りします。それから、毎日、毎日、あなたのお庭の塀のそとで、口笛吹いて、お聞かせしましょう。あしたの晩の六時には、さっそく口笛、軍艦マアチ吹いてあげます。」と書いたのですが、これがなんとあたかもM.Tという人物が存在するかのように、晩六時に軍艦マアチが聴こえてくるのです。この軍艦マアチについて、信仰深い姉ははじめ、神様のご加護だと考えていました。ですがその後、実は父が口笛を吹いたのではないかと考えはじめます。これは信仰の目から見れば、前者の解釈の場合は問題はないのですが、後者は自身で理想の父の姿を求めていることになり、純粋な信仰ではなくなってしまいます。信仰とはあくまで、自分以外の他人のために存在しなければならないのです。

2011年5月1日日曜日

花火ー太宰治

 四谷区某町某番地に、鶴見仙之助というやや高名の洋画家がおり、彼には勝治とその妹の節子の、二人の子供がいました。ですが長男の勝治はある時、自身の進路に関して父と衝突したことをきっかけに悪友とつむるようになり、家庭崩壊を起こします。やがてその哀れな長男は、自身の堕落の果てに橋の杙の間で死んでいるとろを発見されます。しかし取り調べの最中、一途に兄を慕っていた節子は「悪い兄さんでも、あんな死にかたをしたとなると、やっぱり肉親の情だ、君も悲しいだろうが、元気を出して。」という検事の同情に対して、思わぬ返事を返します。それは一体どのような台詞だったのでしょうか。
この作品では、〈自身が考える兄の像を必死で信じ守った、ある妹〉が描かれています。
まず、上記の検事の台詞に対して、なんと節子は「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました。」と言いました。この台詞は、今まで兄のことを必死で信じてきた彼女にしては意外な台詞にみえるかもしれません。ですが、彼女は何も現実の兄を信じていた訳ではありません。それは「兄さんは、そんな人じゃないわ。」、「こんどもまた、兄に、だまされてしまったのではなかろうかと、ふと思った。」等の箇所に顕著に出ています。つまり彼女はいくら現実の兄が酷いことをしようとも、彼女には理想の兄の像があり、これを現実の兄に当てはめているのです。そしてこの理想の兄と現実の兄の間には大きなギャップがあり、彼女はそこに苦しめられているのです。ですが、現実の兄が死んでしまえば、彼女の中には理想の兄しか残りません。つまり、現実の兄が死ぬことによって、理想の兄はそれに否定されることはなく、その儘節子の心の中で生き続けていくことができるのです。   
兄が死ぬことによって、節子たち家族の中で兄は、哀れにも悪友に騙された心優しい人物となり、それを信じることよって彼らもまた救われることでしょう。