2011年10月30日日曜日

あしー新美南吉

 ある二匹の馬が、窓の傍で昼寝をしていました。すると、涼しい風が吹いてきたため、一匹がくしゃみをして目を覚ましました。しかし、馬が立ち上がろうとすると、足が一本しびれて上手く立てません。ですが、これを勘違いした馬は「たいへんだ、あとあしをいっぽん、だれかにぬすまれてしまった。」と、勘違いしてしまいます。そして、この後、勘違いをしているこの馬は果たしてどうのような行動に出るのでしょうか。
さて、この作品の特徴は、〈子供の真っ白な感性ではじめての体験を瑞々しく描いている〉というところにあります。
まず、私たち大人にとって、「しびれる」という感覚はごく当たり前の身近なものです。ですが、何もしらない、経験すらしたことのない子供にとって、それは未知の感覚であり、不思議な出来事として受け取ることでしょう。この作品は、まさにそういった子供達の視点で描かれています。ですから、作中の馬はこの未知の体験にぶち当たり、自分なりに予測を立て、あれこれと実験をしているのです。そして、この初々しい馬の姿を大人の私たちが見た時、当たり前だった感覚が当たり前ではなくなり、馬(子供)のこの予測のつかない行動に目を見張り楽しむことができるのです。

2011年10月29日土曜日

失われた半身ー豊島与志雄

 学生アルバイトという身分を狡猾に利用し、世の中を上手く渡り歩ことしている青年、「おれ」。ある日、彼は自身に好意を寄せている女性、木村栄子と彼の部屋で会うことになっていました。そして、この日の彼女の目的は、彼が本当に自分のことを愛しているか、どうなのかということを確認することにありました。ですが、この彼女の意図は、後に半身を失った彼の本性を彼自身に自覚させていくことになります。それは一体どういうことでしょうか。
この作品では、〈恩義を否定しなければならなかった、ある男〉が描かれています。
まず、そもそも「おれ」が考える、自分と彼女の関係とはどうのようなものだったのでしょうか。それは、「おれの方からは、ただ閨の歓楽を報いただけだが、この取引では、むしろ彼女の方が得をした筈だ。」という一文からも理解できるように、彼は彼女との関係を互いの利害の上のものであり、自身が男女の快楽を求める代わりに、彼女の恋人役を演じていた、というものです。そして、彼のこうした屈折した考え方は、戦時中の彼の消し去ることのできない、苦い記憶に由来しています。
ある時彼は、恐らく敵方の者であろう上流の婦人から、ご馳走を振舞われます。その時、彼は確かに彼女に対して恩を感じていました。しかし、彼女が敵方の婦人である以上、兵士である彼は戦争の名のもとに彼女を殺さなければなりません。そこで彼はなんと婦人を犯し、部下に彼女を銃殺させたのです。この時の彼の中での大きな矛盾が後のしこりとなり、彼は損得、利害などというシンプルな関係を重視し、恩義を否定するようになっていったのです。
そして、今回の栄子との事も、彼は自身が恋人役を演じてしまったことにより、「おれの身辺の世話をやくことに、彼女は大きな自己満足を感じていたからだ。男めかけ、そんな気持ちは露ほどもなかった。然し、然し、実質的にはおれの方が得をした。この感じ、つまり恩義を受けたということは、拭い消しようがない。」と、彼女に対して恩義を感じてしまいます。そうして封印された記憶が蘇り、彼は彼女のへの恩義を否定すべく、栄子を殺さなければならなくなっていったのです。

2011年10月28日金曜日

怪人の眼ー田中貢太郎

 小坂丹治は香美郡佐古村の金剛岩の辺で小鳥を撃っていましたが、この日、丹治の身に幾つかの奇妙なことが起こっていました。それは彼が今朝、山へあがる時に、茨の中から、猿とも嬰児とも知れない者が出て来て、俺の顔を見るなり、草の中へ隠れたところからはじまします。彼はこれを奇妙に思うも、気にせず小鳥を撃っていました。そこに鶴が現れたので、これもまた撃ってみたくなりました。ですが、いざ撃ってみると、鶴はなんと命中したはずなのに平気で長い首を傾げているではありませんか。流石に丹治はこれを不気味に思い、山から降りることにします。ですがこの後も彼の身に奇妙なことが起こり、遂にはある出来事が忘れられなくなってしまいます。それは一体どういうものだったのでしょうか。
この作品では、〈自分から恐怖を引き寄せてしまった、ある男〉が描かれています。
まず、上記にある丹治が、奇妙なことがたて続けに起こった中でも、忘れられなくなってしまったこと、というのは、ごく些細な出来事でした。それは、山から降り、その途中茶屋へ寄った帰り道でのことです。ある道の曲がり角を曲がったところで、彼はむこうから来た背のばかに低い体の幅の広い人に往き会います。その男は蟇の歩いているような感じのする人物で、彼は丹治とすれ違う時、ぎらぎらする二つの眼は彼を睨むように光りました。そしてその恐ろしさのため、丹治はそれを見返すことが出来なかったというのです。
ですがここだけ切り取って考えれば、確かに男の目つきは強く残るかもしれませんが、特別恐れることも忘れられないということもない、些細な出来事のはずです。なのに、一体何故彼の心に残ってしまったのでしょうか。
実は、私達には、その時の自らの出来事や状況によって、ある感情を準備していることがあります。例えば、貴方は朝のテレビ番組を見て学校や会社に出かける習慣があることにしましょう。残念ながら、今日の占いで貴方の運勢は良くないものでした。その結果を知った後、貴方の一日は最悪なものへとなってしまいます。朝は犬に吠えられ、上司や先生に怒られ、挙句の果てには帰りの電車を一本のがしてしまう。ですが、冷静になってよく考えてみれば、これらは誰にもよくあることではないでしょうか。しかし、これらを最悪なものにしてしまったものは何か。それは、その時の占いの結果に他ならないのです。つまり貴方は、今日の運勢が不幸だったから不幸だったのではなく、自分から、「今日は不幸だ」と考え不幸になってしまったのです。この様に私たちには、ある情報が自分の中に入ってくると、それをもとに予め気持ちを構えておく癖があります。
そして、この物語の丹治の場合も、彼はこれまでの奇妙な経験から怖がる準備をしたため、睨まれたとは言え、普段何でもないことが特別恐ろしいことのように感じられたのです。更に、それは読者の私達ですら例外ではありません。私たちはこの作品を読んでいく中で、「これから何か奇妙で恐ろしい事が起こるに違いない」と考え、準備していたために、丹治同様に「そして、その男とすれ違う時、ぎらぎらする二つの眼が丹治の方を睨むように光った。丹治は二た眼と見返すことができなかった。」という一文が恐ろしいものに感じられたのです。

2011年10月26日水曜日

短夜の頃ー島崎藤村

 私達にとって、季節の訪れとはどうのようなものでしょうか。一般的に春と秋の季節は気候も過ごしやすく、非常に好まれていますが、夏と冬に対しては、その暑さ、寒さのために嫌悪を感じる人も少なくありません。
ですが、〈そんな過ごしにくい夏でも実は様々な楽しみがあり、嫌悪することばかりではない〉ということを、この随筆では示してくれています。蚊帳の中で蛍を放して遊び、簾に見とれ、団扇を買い或いは求め、素足でくつろぐ。これらのことは、あの厳しい暑さがあってこその楽しみ方なのです。
人間の物事の見方というものは一面的であり、見方を変えればまた別の一面が顔を覗かせるものなのです。

2011年10月23日日曜日

牛ー岡本綺堂

 ある時、青年は老人に「来年は丑だそうですが、何か牛に因んだようなお話はありませんか。」と訪ねました。すると老人は、ある牛と新年と芸妓の三題話を話しはじめます。
天保3年、1月2日。日本橋の正月は多くの人で賑わっていました。そこにある騒動が起こりました。その朝、京橋の五郎兵衛町から火事を出して、火元の五郎兵衛町から北紺屋町、南伝馬町、白魚屋敷のあたりまで焼いてしまいました。ですがこれは火消しによって消されましたが、その帰り路の火消しの威勢の良さに対して、牛車に繋がれていた牛達が驚いてしまい、その中の2匹が暴れだしてしまったのです。そのうちの一匹は、昌平橋のきわでどうにか捕まえることが出来ましたが、もう一匹は人間に追い込まれた挙句、なんと川を泳いでの逃亡を謀りました。そして、その川には柳橋の小雛という芸者が乗っている船がありました。やがてこの牛は小雛の船に接近し、それに動揺した彼女は船から落ちてしまいます。溺れた彼女はそこに浮いていた牛の角を必死で持ち続け、やがて無事岸へと辿り着くことができました。
そしてその4年後、小雛は盗人の秩父の熊吉と、彼の罪業の為にひとまず奥州路に身を隠すことになりました。ですが、その途中の大橋で、小雛は急に立ちすくんでしまいます。それを不思議に思った熊吉が彼女に問うと、一、二間さきに一匹の大きい牛が角を立てて、こっちを睨むように待ち構えているというのです。しかし熊吉の目には何も見えていません。結局、彼らは小雛が動けなくなったことが原因で、あえなく御用となってしまいます。
さて、では彼女が見た牛の正体とは、一体何だったのでしょうか。
この作品では、〈精神の世界と現実の世界との区別ができなった、当時の人々の認識〉が描かれています。
まず、下記の一文はこの作品における要諦を示しているものです。
「今の人はそんな理屈であっさり片づけてしまうのだが、むかしの人はいろいろの因縁をつけて、ひどく不思議がったものさ。」
この一文は、老人が小雛の話を終えた後、青年が、小雛が見たものは「この危急の場合に一種の幻覚を起した」ものであるという主張に対して述べたものです。
そもそも青年の主張というのは、彼女が見た牛とは、異常な状況の中で、彼女が4年前の騒動の経験から自分の中に生み出したものであり、現実には存在していないものであるというものです。つまり彼はそれは精神の世界の出来事であり、現実の世界の出来事ではないと述べているのです。これには同意を示しています。そして老人は、彼の言葉に付け足すような形で、昔の人はそうは考えず、彼女が見たものを見たままに受けとめた為に、色々な因縁をつける必要があったのだと述べているのです。つまり、昔の人々は精神の世界の出来事と、現実の世界の出来事を区別出来なかったのです。
では、彼らは何故、その区別をつけることができなかったのでしょうか。その大きな要因の一つは、やはり化学が現在のように発展していなかった事が挙げられるでしょう。例えば、私達が病気にかかった時、私たちはこれまでの知識から、どここからか細菌を体の中に入れてしまったことや、体の何処かに負担をかけた為にそれが起こっていると考え、そこから予防策として生活習慣の見直し等を図ろうとします。ところが、細菌等のそういった言葉や知識を知らない昔の人々は、それが何故起こっているのかを理解することが出来ず、結局精神の世界から、悪魔や悪霊といったものをつくりだし、そうして現実の世界の出来事である、病気に至るまでの過程を埋めなければならなかったのです。こうして現実の出来事を精神の世界で埋めることによって、その境界は曖昧になり、やがては区別できなくなったいったのです。ですから、物語の中の小雛の話も、江戸の人々はおのおのの空想によって、牛の出現という奇妙な現象を受け止めるしかなったのです。

2011年10月20日木曜日

愚かな男の話ー岡本かの子

 この作品ではそのタイトルが示す通り、様々な愚かな男たちが登場します。より甘い甘蔗をつくろうとしてその苗に砂糖汁をかけた男、より丈夫な壁をつくろうとして籾殻を入れすぎてしまった男、30日分の牛乳を一度に絞りとろうとした男……。
さて、これらの男たちの失敗は、一見違うもののように思えますが、実はある共通点が存在します。それは〈一部の真理を過度に押し広げ、誤謬へと変えてしまった〉というところにあります。例えば、1÷2=0,5という公式そのものは真理ですが、これを人間を数える時に適応していまうと、どうなるでしょうか。当然、人間一人を半分に割ることなどできませんから、これは誤謬ということになります。このように、それそのものは真理であっても、それを適応するところ、または状況によっては誤謬へと転化してしまいます。
そして、この作品に登場する男たちの失敗もこういったところにあり、甘蔗が甘いというのは真理ではありますが、そこに更に甘いものをかけたところでそのものが甘くなるはずがありません。また壁の材料の中に籾殻をいれると丈夫になるというのは真理ですが、入れすぎると今度は素材自体がくっつかなくなり、かえって脆くなってしまったのです。

2011年10月18日火曜日

犬ーレオニイド・アンドレイエフ

 この犬は名前をつけて人に呼ばれたことがありませんし、長い冬の間、何処にどうしているか、何を食べているのか、誰も知りません。そして、この犬は人間の誰からも蔑み嫌われていたので、そこから人を恐れる心と人を憎む心を養っていきました。
そんな春のある日、犬はレリヤという、都会から別荘へと引っ越してきた娘と出会うのですが、その時犬は何を思ったのか、彼女の着物の裾を突然銜えて引き裂いき、いちごの木の茂っているところで逃げて行ってしまいます。これには当然彼女もこれには怒りを感じ、「本当に憎らしい犬だよ」と犬を罵ります。ですが、この出会いこそが、人間に対する犬の態度を大きく変えることになっていくのです。さて、果たして犬は何故人間を恐れ、憎んでいるにも拘らず、人間から離れることができなかったのでしょうか。
この作品では、〈人間と接したいが為に、かえって人間を傷つけることしかできなかった、哀れな犬の姿〉が描かれています。
まず、犬は確かに人間に酷い仕打ちを受け続け、恐れ嫌ってはいますが、一方ではそれを分かっていながら、「シュッチュカ※は行っても好いと思った。」、「時々はまた怒って人間に飛付いて噛もうとした」等と自ら人間に接しようとする節も見受けられます。一体何故でしょう。実は犬の中には、孤独である為人間と接したい気持ちと、その人間が自分を傷つける為に、恐れ憎む気持ちが同時にあるのです。しかし、この2つの矛盾した気持ちははじめから同時に存在していたのではなく、あくまで孤独なために他者を求めていたにも拘らず、それが全く逆の接し方をされたために恐れ憎まずにはいられなかった為に発生したものなのです。ですから言わば、犬にとって人間を飛びついて噛もうとする行為は、人間に対する好意の裏返しだったのです。そしてこの人間に対する攻撃に到るまでには、前者の気持ちの大きさと後者の気持ちの大きさが次第に逆転していったことも忘れてはなりません。
ですが、そんな犬にも転機が訪れます。それがレイヤとの出会いです。彼女ははじめ、犬の攻撃的な態度に怒りを覚えますが、やがて犬との生活の中で、付かず離れずの関係ではありましたが、徐々にこの犬の知っていきます。そうした中で、彼女はやがて自ら犬に近づき、犬を撫でようと試みます。この行動は、犬にも変化を起こし、はじめは警戒すらしていましたが、次第に彼女や周りの別荘の人々に心を開きはじめ、遂には「クサカの芸当は精々ごろりと寝て背中を下にして、目を瞑って声を出すより外はない。しかしそれだけでは自分の喜びと、自分の恩に感ずる心とを表わすことが出来ぬと思った。」となんと自身の感情を相手に表現しようと試みはじめます。こうして再び、犬の矛盾した感情は逆転をはじめ、他者を求める気持ちが全面に押し出され、人間と接することができるようになったのです。

※シュッチュカ:ロシアで知らない犬を呼ぶ時に使う呼び名。