2011年3月20日日曜日

女人創造ー太宰治

「男と女は、ちがうものである。」という一文からこの作品ははじまります。これを自身でも当たり前とは感じつつも、著者はそれを作家として度々感じずにはいられない場面があることをここで述べています。それは一体どのような場面なのでしょうか。
この作品では、〈男性でありながら、作中で女性を書かなければならない作家の矛盾〉が描かれています。 
まず著者はくるしくなると、わが身を女に置きかえて、さまざまの女のひとの心を推察してみるものの、そこに現実の女性との開きを感じ、悩んでいます。ですが不思議なことに、現実の女性を彼よりも上手く捉えているモオパッサンの作品はつまらないというのです。その一方で、男性読者が男性作家の現実とかけ離れた作品の中の女性に反応しているところに著者は注目しています。これは男性である著者が頭の中から取り出した、言わば男性的な女性像に男性読者は反応し、楽しんでいるのでしょう。ですから、男性読者は作品の中の女性にしばしば、自分は女性ではないのかと苦しめられるのです。
現実からかけ離れているからこそ、かえって男性読者には作品の中の女性が受け入れられるのです。

2011年3月19日土曜日

女人訓戒ー太宰治

著者は辰野隆の「仏蘭西文学の話」という本の中のある文章に興味を惹かれています。それはある盲目の女性に兎の眼を移植したところ、なんと彼女は数日で目が見えるようになりました。ところが、その数日の間、彼女は猟夫を見ると逃げ出してしまうようになってしまったというのです。一体、彼女は何故逃げ出すようになったのでしょうか。
この作品では、〈対立物の相互浸透のある一面〉が描かれています。
まず著者の主張では、「兎の目は何も知らない。けれども、兎の目を保有していた彼女は、猟夫の職業の性質を知っていた。兎の目を宿さぬ以前から、猟夫の残虐
な 性質に就いては聞いて知っていたのである。(中略)彼女は、家兎の目を宿して、この光る世界を見ることができ、それ自身の兎の目をこよなく大事にしたい心から、かねて聞き及ぶ猟夫という兎の敵 を、憎しみ恐れ、ついには之をあらわに回避するほどになったのである。」というものでした。恐らく、著者はそこから、兎の目が人間の性格の一面をつくっている、と主張したいようです。事実彼はこの後に、その根拠を述べるべく、タンシチューを食べるようになった為に英語の発音が上手になった女性や、狐の襟巻きをきると突如狡猾な人格になる女性のエピソードを綴っています。
ですが、著者が法則の性質の一面しか捉えることが出来ていないため、その論証自体に大きな欠点が二点あります。その一点目は、互いに浸透し合っているものを上手く結べていない、または根本的に見誤っているということです。著者は兎の目を持った女が、猟夫を恐れるのは、兎の眼を大事にしていた為と説明していますが、果たしてそうでしょうか。そもそも女性は兎の目を移植されたために生まれてはじめて、世界を自分の目で見ることが出来るようになったのです。そんな彼女が突然、猟銃という凶器にもなりうるものを持った男を見たらどう思うでしょうか。更にそれが狩りの最中であれば、その目つきに恐れるもの無理のない話ではないでしょうか。こう考える方が、兎の目を持ったことによりそれを大事に思うようになったために、猟夫を恐れるようになったと考えるよりは説得力があるはずです。また、タンシチューの女性のエピソードでは、タンシチューを週二回食べることにより、体の細胞が変化し英語が喋れる様になったということも可笑しな話です。確かに西洋人の食べ物を食べることにより、肉体が西洋人になっていくことは多少はあるでしょうが(食べ物が人間をつくる)、それ以上に毎日英語を喋っているので、舌が英語の発音に慣れ、変化していったと考える方が自然というものです。
次に二点目ですが、これは、兎の目からという流れは説明されていますが、その逆が説明されていないことにあります。これは兎の例は上記にもあるように根本から違うため、狐の襟巻きの女性の話を取り上げ説明することにしましょう。確かに事実はどうであれ狐という言葉を聞いて私たちは、嘘をつく、狡猾な動物であるというイメージを持っています。そしてそういった動物の襟巻きを身につけることによって、彼女が自分のイメージをつくり上げ、そういった人物になっていくことは十分に考えられます。ですが、もとからそういう人物が狐の襟巻きを着ることによって、狐にそういったイメージが付きまとうことだってあるはずです。例えば、あるモデルが全くお洒落ではないドレスを見事に着こなしていれば、そのドレスも「成程、お洒落である」と感じ、そのドレスが流行することだってあります。よって、狐の襟巻きが女性をつくっていると同時に、その女性もまた狐のイメージを作り上げているのです。
以上が、著者が見落としていた法則の一部始終となります。法則というものは何と何がくっついているのかが重要なのではなく、どのような流れでどう繋がっているのかが重要なのです。

2011年3月15日火曜日

恩を返す話ー菊池寛

 寛永十五年の島原切支丹宗徒の蜂起の際、その討伐に向かった神山甚兵衛は、ある敵方の一人に頭上に一撃を見まわれて、気を失ってしまいます。ですが、その危機を同じ兵法の同門である佐原惣八郎によって助けられます。しかし、日頃から彼のことが気に入らなかった彼は、これをよしとはせず、むしろ困ったことだと感じていました。そこから甚兵衛はどうにかして、惣八郎にこの恩を返そうとします。では、何故彼はそこまでして恩を返そうとしたのでしょうか。
 この作品では、〈恩を着ることを恥と感じるあまり、かえって自分の誇りに傷をつけてしまったある武士〉が描かれています。
 まず上記にあるように、甚兵衛にとって惣八郎に命を助けられたことは恥以外の何ものでもありません。何故なら、惣八郎は彼と同じ兵法の同門であり、三年前の奉納仕合いにおいて彼は惣八郎に負けています。その惣八郎に命まで助けらたとあっては、武士としての実力を彼より下だと認めるようなものだとも彼は考えています。ところが、度量ある惣八郎はそんな気持ちなど全く知らず、それを良かれと思い行動しています。ここに彼らのすれ違いの原因があるのです。
 では具体的にはどこにその原因は潜んでいたのでしょうか。それは甚兵衛のその誇りの高さにあります。彼は惣八郎の好意をその儘受け取れず、「甚兵衛は、自分の前を憚っていわぬのかと思った。」、「彼は一生恩人としての高い位置を占めて、黙々のうちに、一生自分を見下ろそうとするのだと甚兵衛は考えた。」と、何か含みがあるはずだと常々疑っていました。ここから、甚兵衛の恥とはこうした他人を気にするところにあり、またその恥が彼の誇りを高くしてることが理解できるはずです。ですから、惣八郎の好意は甚兵衛にとっては、恥としか感じられず、それを受ける度に彼は傷ついていってしまったのです。

2011年3月12日土曜日

東京だよりー太宰治

著者は、先日知り合いの画家に自身の小説集の表紙の画を描いてもらう為、画家が働く工場を何度か訪れていました。そして、ある時著者は事務所に入り、そこの女の子の一人に来意を告げ、彼の宿直の部屋に電話をかけてもらっている時、密かに事務所の女の子を観察していました。彼曰く、女の子たちの様子はひとりひとり違った心の表情も認められず、一様にうつむいてせっせと事務を執っているだけで、来客の出入にもその静かな雰囲気は何の変化も示さず、ただ算盤の音と帳簿を繰る音が爽やかに聞こえて、たいへん気持のいい眺めだったそうです。しかし、その中で著者がどうしても忘れられない印象の女の子が一人いました。彼女は外見や表情は他の女の子と全く変わらなかったといいます。一体彼は彼女の何に惹きつけられているのでしょうか。
この作品では、〈あるハンデを持ちながらも、それを周囲に感じさせることなく生活しているある少女〉が描かれています。
彼女は生まれながらにして足が悪かったのです。そして、その足の悪い彼女が普通に生活をしている。著者は彼女のそういったところに目を惹かれているのです。では、足の悪い女性が普通に生活しているのと、私たちのそれとではどれぐらいの開きがあるのでしょうか。
レベルをかなり下げた説明ですが、例として小学校で習う九九を用いることにしましょう。この九九をすんなりと暗記できる生徒と出来ない生徒がいます。この出来ない生徒の中には、九九が何をやっているのかが分からず、それが躓きの原因になってしまっている人たちもいることでしょう。ですから彼らの場合、掛け算が足し算の延長上にあり、繋がっていることを教えてあげると理解できるはずです。そうすると彼らは、はじめに九九を暗記できた者達よりも一段高いレベル(九九は足し算の延長上にあり、繋がっているという意味において)で理解したことになります。すると、九九の構造を知った彼らは、どの場合で九九が有効であり、足し算が有効かをそのまま暗記した者達よりも的確に見分けることが出来るはずです。暗記した者達は、九九という謎の解き方は与えられているものの、それがどのような計算法かを教えられてはいないのですから。
では、物語の中の少女もこれに当てはめれば、どういったことになるのでしょうか。彼女は足が不自由というハンデから、私たちの動作を私たち以上の努力によって行う必要があります。この努力とは、実践という意味でもそうですが、何かが欠落している分、私たち以上に日常の動作を知り、それを自分の体に応用する必要があるのです。結果、彼女は私たちの生活の動作を私たち以上に知り、私たちと同じようにこなる必要があったのです。見た目は同じでも、この彼女の明らかな深みに著者は魅せられているのです。

2011年3月9日水曜日

地球図ー太宰治

ヨワン・バッティスタ・シロオテは、ロオマンの人であって、もともと名門の出であり幼いときからして天主の法をうけ、三十六歳のとき本師キレイメンス十二世からヤアパンニアに伝道するよう言いつけられました。ですがその道中、ひょんなことから屋久島の村人に接触したために、ヤアンパニアの土を踏む前に役人に捕らえられてしまいます。さてこの時、捕らえられた彼の胸の内には一体何があったのでしょうか。
この作品では、〈どんな苦難にあいながらも、ただ法を弘めることだけを考えていた、ある伝道師〉が描かれています。
そもそも彼の心には「新井白石は、シロオテとの会見を心待ちにしていた。」、「このよき日にわが法をかたがたに説くとは、なんという仕合せなことであろう、」という箇所からもわかるように、常に法を弘めることがありました。しかし、そうした志を持っていたにも拘らず、役人に捕まり訊問にかけらられてしまいます。また、新井白石との訊問で法を弘める機会を得るもそれは失敗に終わってしまいます。ですが、それでも彼は諦めず、牢獄の中で布教活動に専念し、長助はる夫婦に法を授けます。これが彼の生涯のうちで最初で最後の布教になってしまいます。こうして作品の中の彼の表面的なところだけを見れば、確かにかにシロオテは日本に法を弘めるという崇高な目的のためやってきたにも拘らず、苦難にあうだけあい、不幸にも牢の中で志半ばで死んでしまったただ不幸な人物にうつることでしょう。
ですが、もう一度物語の冒頭に戻ってみると、彼の墓標に榎が植えられている事から察するに彼の生涯は無駄ではなかったと言えます。何故なら、その榎は彼の志がそのままこの地に根ざし、生きていることを意味しているからなのです。それは現在でも、日本にキリストの教えが残っていることからも理解出来るはずです。

2011年3月7日月曜日

母ー芥川龍之介

 ある上海の旅館に泊まっている野村夫婦は、以前に子供を肺炎で亡くしており、以来妻の敏子は密かに悲しみに暮れていました。そして、その悲しみは隣の家の奥さんの子供の泣き声を聞くことで膨らんでいる様子。ですが、やがて野村夫婦が上海から引っ越した後、その隣の奥さんも子供を風邪で亡くしてしまいます。そして、それを知った敏子は自身のある人間的に汚い部分を垣間見ることになるのです。それは一体どのようなものだったのでしょうか。
この作品では、〈相手の気持ちが分かるために、かえって相手が落ちたことを喜ばずにはいられないある母たちの姿〉が描かれています。
まず、物語の中で上記のあらすじの問の答えであり、私が挙げた一般性の貫く箇所が2箇所あります。下記がそれに当たります。

女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、——しかしその乳房
の下から、——張り切った母の乳房の下から、汪然と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。

「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、——それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」

ひとつは隣の奥さんが敏子との会話の中で、その感想を表しているもの。そして、もうひとつが子供を亡くした奥さんから手紙を受け取り、現在の心情を敏子が吐露しているものです。上記に共通していることは、「同情」という言葉であり、これは相手の気持ちになって考えていることが出来ている証拠でもあります。そして、その次の言葉に私たちは目を疑うはずです。何故なら、相手が苦しんでいる一方でなんとその状況を喜んでいるというのです。さて、何故彼女たちは相手の気持ちを理解しているにも拘らず、それを喜ぶことができるのでしょうか。それは彼女たちが相手の気持ちに入り込んだ後、自分の気持ちに戻り比較しているからにほかなりません。そうして彼女たちは、相手が自分の立場に届いていないことに優越を感じ、或いは自分と同じ立場に立ったことに対して喜びを感じているのです。
ですが、今回の作品では相手の気持ちを知り、自分の立場にかえってくることが悪い形で作用していますが、その運動自体はとても重要なことです。例えば、一流のホステスなんかは一度相手の気持ちに入り込み、その現在の気持ちや心情を知り、自分の立場に戻った後、自分に何をするべきなのかを考え、話題を変えたりおしぼりを渡してあげたりするのもです。
それでは、この母たちの問題は何処にあったのかと言えば、それは彼女たちの運動(相手の気持ちに入り込み、自分の立場に戻ってくること)そのものが悪かったのではなく、その後の受け止め方が悪かったことが例と比較することで理解できるはずです。彼女たちがもっと「相手のために私たちができることは」と考えていれば、お互いに相手も自分自身も傷つけるような真似はせずに、助けあうことができたかもしれないのです。