2012年2月28日火曜日

仇討三態・その二ー菊池寛

越後国蒲原郡新発田(かんばらごおりした)の城主、溝口伯耆守(ほうきのかみ)の家来、鈴木忠次郎、忠三郎の兄弟は、敵討の旅に出てから、八年ぶりに仇人を発見することができました。ですが、不運にも彼らが敵を討つ前に、仇人は死んでしまいます。そして彼らはそれ以来、世間の人々の非難の的となってしまいます。
一方、そんな彼らの避難の声もおさまってきた頃、彼らと同じ藩士である、久米幸太郎兄弟が三十余年の時を経て仇討ちに成功し、帰還してきました。そしてその十日後、兄弟の帰還を祝う酒宴が親族縁者によって開かれることとなりました。そして不幸にも、仇討ちに失敗した鈴木兄弟は久米家とは遠い縁者に当たっていました。当然ながら兄弟はその席に行きたくはありませんでしたが、そうなればまた世間の非難の的になると考えた忠次郎は、しぶしぶ参加しました。
その当日、夜が更け客が減りだした頃、幸太郎は忠次郎からも盃を注いで欲しいと申し出てきます。そして、幸太郎は彼からもらった酒を快く飲むと、真摯な同情を含んで、「御無念のほどお察し申す」と述べました。これには忠次郎も思わず無念の涙を流しながら、「なんという御幸運じゃ、それに比ぶれば、拙者兄弟はなんという不運でござろうぞ。敵をおめおめと死なせた上に、あられもない悪評の的になっているのじゃ」と言いました。すると、幸太郎は「何を仰せらるるのじゃ。一旦、敵を持った者に幸せな者がござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」と言い、やがては互いに目を見合わしたまま涙を流し合いました。

この作品では、〈過程を重視した為に相手の気持ちが正しく理解できた、ある討人〉が描かれています。

まず、この作品での鈴木兄弟の仇討に対する見方は2つに分かれています。一つは仇討に失敗したことを非難する、世間的な見方。もうひとつは彼らに同情をよせている幸太郎の見方。では、この2つの見方には、それぞれどのような違いがあるのでしょうか。
まず兄弟を非難している世間的な見方の方ですが、彼らは「鈴木兄弟が仇討ちに失敗した」という結果だけを見て、あれこれと非難しています。更に彼らはその結果を受けて、「二人は、敵を見出しながら、躊躇して、得討たないでいる間に、敵に死なれた」、「兄弟は、敵討に飽いたのだ。わずか八年ばかりの辛苦で復讐の志を捨ててしまったのだ。」と、その失敗の過程まで想像しています。言わば世間の見方の順序としては事実とは逆の流れで考えられており、結果が先にあり、過程はその後にあります。その結果、彼らは兄弟の気持ちを正しく読み取る事が出来ず、単なる解釈になってしまったのです。(余談ですが、これは現代を生きる私達の日常にもよくある見方ではないでしょうか。例えば、スポーツ等で自分が応援しているチームが試合に負けてしまい、悔しさのあまり大人げなく怒りを露わにする人々がいます。また逆に、次の日に試合に勝つと、「いや、今日の◯◯はよかった。」などと、急に評価を一転するような発言をすることがあります。こうした見方も同じで、やはり結果から見ているからこそ、昨日と今日でものごとの評価が一転してしまっているのです。)
一方、幸太郎の見方はどうだったでしょうか。彼は「御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」という台詞からも理解できるように、過程的なところを中心に見て相手を評価しています。つまり彼らは事実の流れと同じく、過程を先に考えた為、兄弟の気持ちを正しく読み取る事ができたのです。やはり事実を正しく読み取るためには、事実と同じ流れで物事を考える事が重要なのです。

2012年2月26日日曜日

仇討三態・その一ー菊池寛

父親を殺され、復讐を誓い長年旅をしてきた討人、惟念は母親が死んだことを知らされて恐ろしい空虚におそわれます。そしてその事をきっかけに、彼は浪華に近い曹洞の末寺に入って僧になりました。
一年後、ある時彼は薪作務(農作業、清掃等の作業のこと)を行なっていると、仇人と同じ紋のはいった羽織を着た老僧を見かけます。更にその老僧には、仇人と同じ箇所に刀傷があり、これらを見た惟念は再び復讐の炎を燃やしはじめます。ですが今の彼は僧の身であり、人を殺すことはできず、仇人が見つかったからといって再び俗世に戻ることにも抵抗を感じている様子。そこで彼は自ら仇人に自分の身の上を打ち明けて、道心の勝利を誓うことにしました。ところが仇人は惟念に対して、しきりにここで復讐することをすすめてきます。ですが、彼はぐっと自分の気持ちを抑えて、その誘惑に打ち勝つことができました。
その晩、惟念はその仇人によって命を狙われてしまいます。ですが、彼は防ごうとも逆にそれを討ち取ろうともいう気にもなれず、ただ自分を信用していない彼を憐れむばかりでした。そしてただ一言、「愚僧は宵より、右肩を下につけ、疲れ申す。寝返りを許されい!」と仇人に告げます。結局、仇人は彼を手にかけず、その翌日に寺から逃げ出しました。

この物語では、〈他人に誓いを立ててしまった為に、かえって他人の信用を失ってしまった、ある僧〉が描かれています。

この物語の面白いところは惟念が自分の身の上を仇人に打ち明けたことにより、二人の心情が大きく揺れ動いていくところにあります。まず惟念の方ですが、彼は自分の復讐の心をなんとか抑えてはいるものの、彼は今後の自分の行動に自信が持てず、いつか仇人を手にかけてしまうのではないかとう不安を感じはじめています。そこで自分を信用出来ない彼は、仇人に仇討ちをしないことを宣言することで、仇人に対して誓いをたてることにしました。こうして自分以外の誰かに自分の行動を見てもらいプレッシャーをかけることで、惟念はその決意を確固たるものにしていったのです。
ですが、一方の仇人の方はどうでしょうか。仇人は惟念の身の上を聞いた後、あたかも彼の心の中を見透かしたように、「我らを許して安居を続けられようとも、現在親の敵を眼前に置いては、所詮は悟道の妨げじゃ。妄執の源じゃ。心事の了畢
などは思いも及ばぬことじゃ。」と述べています。恐らく、仇人は惟念が何故自分に身の上を明かしたのかを理解していたのでしょう。そして当然ながら、自分の事を信用していない者から自分を信用してくれと言われても、信用出来ないのは無理もない話です。こうして仇人は惟念に対する疑いの心を募らせていき、彼を殺そうという気持ちにまで至ったのです。

ある恋の話ー菊池寛

著者はある時、自身の妻の祖母から誰にも打ち明けた事のない、恋の話を聞かされることとなります。というのも、彼女はそもそも借金の抵当といった形で酷い男と結婚し、死別したという経験から、男という生き物から一線を引いている節がありました。ところが、ある時彼女は染之助という役者の舞台を見たことをきっかけに、彼に恋をしてしまいます。さて、彼女は彼のどういったところに惹かれていったのでしょうか。

この作品では、〈表現と表現者を区別しつつも、それらの関係性に目を向けずにはいられなかった、ある町女房〉が描かれています。

まず、上記のように祖母は染之助に恋をしたはいいものの、ある日を境に彼女は彼に幻滅してしまいます。祖母は舞台以外での、実際に生活している彼の姿を目の当たりにした時、彼を「少しどす黒い頬のすぼんだ、皮膚のカラカラした小男」と嫌悪したのです。この体験から彼女は、自分は「染之助と云うような役者ではなく、染之助が扮している三浦之介とか勝頼とか、重次郎とか、維盛とか、ああした今の世には生きていない、美しい凛々しい人達」に恋をしていたのだと考えるようになっていきました。つまり、彼女は彼そのものではなく、染之助が表現している人物たちに恋をしていたのです。
ですがそうは理解しつつも、染之助の一座が上方へ帰る事になると、これまで彼との現実的な関わり合いを拒んでいた彼女も、「今まで自分の眼の前にあった華やかなまぼろしが、一度に奪い去られるような淋しさ」から、彼からの袱紗包を受け取ることにしたのです。更に、その中に入っていた手紙を読んで、彼に会いに行ったというではありませんか。一体これはどういうことでしょうか。
確かに彼女は、染之助そのものではなくて、彼が表現している役を好んでいたのは事実です。そして、それは彼女の中で舞台と現実との間にある境界によって区別されていました。ですが、彼がその土地を去ろうという時、その境界にヒビがはいってしまいます。何故なら、舞台の中の染之助と現実の染之助とは、彼女の中で区別され独立はしているものの、結局は舞台の役をつくっている人物は現実の彼そのものな訳ですから、当然彼がその場を去れば、自然と舞台の彼も姿を消してしまうことになります。だからこそ、彼女は自身がつくった境界の間で心揺らぎ、彼に会うことを決心していったのです。まさに、表現者と表現とは独立はしているものの、一方ではある繋がりを持っていると言えるでしょう。

2012年2月23日木曜日

仇討禁止令ー菊池寛

幕末の時代、当時徳川宗家と親しい間柄であった高松藩では、幕府存続派と朝廷帰順派に分かれて議論が行われていました。ですが、成田頼母率いる幕府存続派の圧倒的な勢力によって、藩のあり方もそちらに傾いている様子。そこで、朝廷派の小泉主膳とその有志達は、ある晩頼母の首を打ち取ることを決意します。その中にいた天野新一郎という男は、成田家と親しい間柄にあり、頼母の長男、万之助は彼を慕っており、娘のお八重とは結納が取り交わされていました。彼もその事に関しては辛いものを感じてはいますが、同時に大義の前では仕方がない事だとも考えていました。やがて、彼らは見事成田頼母の首を打ち取る事に成功します。ですが、この出来事が後の新一郎を一生苦しめる事となってしまうのです。

この作品では、〈夢を追い求めるあまり、かえって自らの倫理によって身を滅ぼしてしまった、ある男〉が描かれています。

まず、上記の一般性をより理解する為に、その後の物語を新一郎の心情を中心にして追っていきましょう。
その後彼は頼母を殺した事に耐えかねて、成田家からやがて足を遠ざけてしまいます。ですが、これは何も殺人そのものに罪悪を感じているわけではありません。むしろ頼母を殺した事は大義、つまり自分の夢を実現するにあたって致し方ない事だったと考えています。では新一郎は一体何に耐え切れなくなり、成田家を離れていったのでしょうか。それは、頼母の息子娘である、万之助、お八重の彼に対する扱いに他なりません。というのも、新一郎の倫理で考えれば、自身の夢の為致し方ないとは言え、自分は彼らの父を殺した身であり、彼らに憎まれる事は仕方のない事だと考えていました。ですが、その一方で弟は父を殺した相手を憎みながらも彼を慕っていますし、姉は彼を愛してすらいるのです。こうした扱いからくる矛盾が彼を苦しめる為に、新一郎は姉弟のもとを離れなければならなかったのです。
しかし、そんな彼の思いなどいざ知らず、姉弟は彼がその身を置いている東京へと向かい、やがて彼の厄介になります。そして、彼らは単に新一郎をたよって上京してきた訳ではありません。姉のお八重は彼恋しさに、弟の万之助に至ってはなんと父の仇を打つために彼のもとを訪れたというではありませんか。ですが、「新日本の民法刑法などの改革に、一働きしたい野心もあった。」という一文からも理解できるように、彼にはまだ夢があります。そこで彼は自身の倫理観からくる苦しさに耐えながらも、どうにか弟の復讐心だけでも改心させることで、少しでもその苦しさから逃れようと考えます。当初彼は仇討禁止令が出れば、万之助も復讐を諦めるだろうと考えていた節があります。ですが彼の決意は固く、仇討が禁止されて自分の命と引き替えになってでも、敵を打つことを新一郎に伝えます。そして、この決意が彼の心を更に苦しめ、やがて不治の病へと追いやってしまいます。そして、彼は自分の命を限界を知り、これ以上は夢を追えないことを理解すると、自害してはじめて自分の倫理に従い、遺書に全てを書き記したのでした。

2012年2月21日火曜日

青木の出京ー菊池寛

最近になって世間からその才能を認められはじめてきたもの書き、雄吉はかつての畏友、青木との再会を果たします。ですが、彼らには並々ならぬ因縁があるらしく、目を合わせるなり、一方は怒りと恐怖を、もう一方はそれに対する反抗と憐憫を感じている様子。一体、彼らの過去に何があったのでしょうか。
事のはじまりは、彼らが高等学校に在学している時のことです。当時、雄吉は勉学に優れており、極度に高慢な態度をとる青木に、異常なまでの尊敬の目を向けていました。しかし青木の実家が破産した為に、彼は金銭的な支援を受けれなくなってしまいます。そこで雄吉は、自分が書生として住まわせてもらっている、近藤家の主人に彼の救済を頼みました。こうして、青木は雄吉と共に近藤の家で起臥することになりました。
そんなある日、雄吉は青木から百円の小切手を受け取り、現金を引き出す事を頼まれます。実はこの小切手は近藤の主人のものなのですが、青木は自分の仕事によって稼いだものなのだと言って彼にそれを渡しました。しかし後にこれは近藤の主人にばれてしまいます。ですが、雄吉はまたしても青木への尊敬の念から、全ての責任をかぶり、近藤の家を去っていきました。ところが、青木はその後も近藤家の貴金属を持ちだして、家を追い出されてしまい、彼の好意を踏みにじってしまいます。
以来、雄吉は青木に対して並々ならぬ憎しみを抱いているのです。ですが、一方の青木も雄吉に何処か挑戦的なところがあり、やがては彼よりも精神的に優位に立っていきます。一体、何故雄吉は青木に圧倒されていったのでしょうか。
この作品では、〈自らすすんで恩を売った為に、かえって仇で返されなければならなかった、ある男〉が描かれています。
まず、この作品の問題を紐解く為に、雄吉と青木の力関係を整理しながら作品を振り返っていきましょう。
もともと、雄吉は自分よりも勉学に優れていた青木に対して、狂信的と言って良い程の尊敬の念を抱いていました。彼は青木の為ならどんな事でも、例え自分に見返りがなかったとしても彼に尽くしていました。一方の青木は、彼を無論対等とは見ておらず、寧ろ彼を見下していました。この時、青木は雄吉よりも力が上だということになります。
ところが、青木の悪事が近藤の主人にばれて、雄吉が青木に変わって自分が全ての罪をかぶろうとする場面から、この力関係は逆転していってしまいます。この時、雄吉の心には彼への同情と、これまで自分を見下していた青木が自分に哀願している快感とがありました。やがて、彼のこうした快感は膨れ上がり、「俺は貴様の恩人だぞ、貴様の没落を救ってやった恩人だぞ。俺のいうことに文句はあるまいな」と、彼は恩を武器に青木に対して高慢な態度をとるようになっていきました。では、青木の方はどうだったでしょうか。恐らく、雄吉の申し出を受け入れた時は良かったのでしょうが、その後の雄吉の態度は元来高慢な彼にとって、とても堪えられるものではなかったことでしょう。彼に対して謙っている一方で、屈辱を感じていたに違いありません。ですが、雄吉に恩がある限り、青木は彼に対して優位に立つ事はできません。だからこそ、彼は雄吉への恩を仇で返し、その立場を一度元に戻す必要があったのです。まさに雄吉は自ら進んで恩を売った為に、青木に仇で返されるという災難を自ら招いてしまったのです。
そして六年経った今でも、雄吉がその当時の裏切りに対して怒りを感じているのと同じく、青木も彼に屈辱を与えられた事を根に持っており、彼を追い詰めていったのです。

2012年2月19日日曜日

船医の立場(修正版2)

日本がまだ鎖国政策をとっている時代、武士である吉田寅次郎と金子重輔は、どうにかしてアメリカ船に乗り込もうと苦心していました。彼らの目的は、そうしてアメリカに渡る事でその技術を学び、日本からアメリカ人を追い払うことにあるのです。そして数々の苦難の末、彼らは漸くアメリカ船、ポウワタン船へ入船するこに成功します。
一方、そのポウワタン船では、この日本人二人をめぐって激しい議論が展開されていました。というのも、彼らのアメリカに対する熱意に感心した副艦長、ゲビスは是非とも彼らをアメリカに招くべきだと主張する一方、提督であるペリーをはじめとするその他の人々はこの意見に反対していたのです。しかしそれでもゲビスは諦めず、彼らはここで自分たちが断れば、日本の厳しい法律によって死ぬことになる事を覚悟して乗り込んでいるのだが、それでも何か感じるところはないのかとペリーらに問いかけます。そしてこの彼の熱弁は、次第に周りの人々の心を動かしはじめます。ですが、船医であるワトソンの次の一言がその流れを変えました。彼は日本人の一人が皮膚病を患っている事を思い出し、その病気が未知数のものである以上、医師として乗船は許可できないと言いました。これには流石のゲビスも言葉を失い、アメリカ人達は日本人達を下船させることにしました。
ですが、実際にその日本人達の処刑の一端を見たアメリカ人達は、改めて彼らに関して検討し、提督であるペリーはその時の自分の判断を反省して、彼らを全力をもって助けると意気込み出します。一方、船医であるワトソンだけは悄然として、船の文庫へと歩いて行きました。

この作品では、〈感情を優先できないことに苦しさを感じながらも、結局は立場によってそれを抑えなければならなかった、ある船医〉が描かれています。

では、この作品のテーマにもなっている船医ワトソンの心情をより深く理解する為に、もう一度二人の日本人に関するアメリカ人達の議論を振り返ってみましょう。まず、副艦長のゲビスは二人の日本人達の熱誠に心打たれ、アメリカへと連れて帰るべきだと主張していました。言わば彼は自身の感情にそのまま従ったことになります。そして、このゲビスが感じていた日本人に対する思いというものは、他の人々も大なり小なり持っていました。しかし、ペリー提督をはじめとするゲビス以外の人々は、日本人達を受け入れる事は日本政府を刺激する事でもあり、日本に開国を求める自分たちの立場としては、それは避けるべきだと述べています。つまりこのアメリカ人達の議論では、彼らの感情を優先する心と立場を優先する心とがせめぎあっているのです。そして、このせめぎあいに終止符を打ったのが、船医ワトソンの一言でした。この彼の放った「彼の青年の一人は不幸にも Scabies impetiginosum に冒されている。それは、わが国において希有な皮膚病である。ことに艦内の衛生にとっては一つの脅威である。」という一言によって、アメリカ人達は日本人達を拒絶する事を決定しました。
ところが、二人の日本人が実際に処刑されている姿を見た途端、彼らは再び自分たちの判断を検討します。その際、提督ペリーは「そうだ。君の感情がいちばん正しかったのだ。」と、立場よりも感情を優先させるべきだった事を認め彼らを日本の法律から救うことを心に決めます。
しかし、医師であるワトソンは提督のようには振る舞えず、心の痛みにも堪える事ができませんでした。彼は医師という立場上、日本人二人に対して重要な決定を下すための決め手を言い放ったにも拘らず、その立場故に彼らの為に出来る事を見い出せずにいたのです。ですが、その一方で日本人達への申し訳なさだけが募っていき、「彼の心には Scabies が、この高貴にして可憐な青年の志望を犠牲にしなければならないほど恐ろしい伝染病であるかどうかが、疑われてきた」と、次第にその時の自分の判断にすら自信が持てなくなっていきます。そこで彼は、せめて医師としての立場に責任を持つために、船の文庫へ向かい自分のその時の判断が正しかったのかどうかを調べる事にしたのです。

2012年2月14日火曜日

船医の立場(修正版)

日本がまだ鎖国政策をとっている時代、日本人である吉田寅次郎と金子重輔(じゅうすけ)は異国からきた黒船に乗り込む事を計画していました。彼らはそうして船に乗り込み、外国へ渡りその文化を知ることで異人を追い払おうと考えたのです。やがて、彼らは様々な苦難を乗り越えて、黒船に乗り込むことに成功します。
一方彼らが乗り込んだ黒船、ポウワタン船では、彼らを巡って会議が開かれることとなります。副艦長のゲビスは二人の日本人の熱意に動かされて、彼らを受け入れるべきだと主張します。ですが、提督であるペリーと艦長は、彼らを受け入れる事は日本政府を刺激する事になり、開国を求める自分たちの立場を危うくする危険性があると主張するのでした。しかし、それでもゲビスは二人に、この日本人たちは自分たちに追い返されてしまえば処刑される事を覚悟でこの場にいる事を告げます。この彼の主張に二人は何も言えなくなってしまい、提督は苦しまみれに他の者に意見を求めはじめます。すると、船医であったワトソンは、二人の日本人のうち一人が疥癬(しつ)という皮膚病にかかっている事を思い出します。そしてこれはアメリカでは珍しい病気であり、船内での感染は脅威にもなり得るというのです。結局一同は彼の言葉を信じ、二人の日本人を追い返す事にしました。
ところが、彼らは実際に罰せられている彼らの姿を目の当たりにした途端、その時の判断をもう一度検討しはじめます。そして、その決定的な言葉を述べたワトソンは、心の苦痛を抑えるために、文庫の方へ向かっていくのでした。

この作品では、〈感情に振り回される事なく、最後まで自分の立場に責任をもとうとした、ある船医〉が描かれています。

まず、物語の中で、会議に参加したアメリカ人達はある共通した心の悩みを持っていました。それは、自身の感情を優先させて二人の日本人を受け入れるべきか、或いは立場を優先させて彼らを拒絶すべきかということです。この問題に際して、副艦長のゲビスはしきりに己の感情に従い、彼らを受け入れるべきだと考えています。それに対して、提督や船長の意見は、確かに自分たちも日本人達の気持ちは痛いほど感じてはいるが、まずは現実的に自分の立場を考えて行動すべきであると述べています。やがて議論の末、ワトソンの「船医として」の一言が決め手となり、彼らは全員が一応はそれぞれの立場を優先させることとなります。
しかし、その日本人二人が実際に罰せられる一端を見て、彼らは再び上記の問題を考えはじめます。それでは、この時の彼らのそれぞれの反省に注目してみましょう。まず、提督のペリーはこうした現実を知り、「君の(副艦長ゲビスの)感情がいちばん正しかったのだ。君はこれからすぐ上陸してくれたまえ。そして、この不幸な青年たちの生命を救うために、私が持っているすべての権力を用うることを、君にお委せする」と述べています。つまり彼はそれまでの自分の考えを否定し、副艦長の考えを全て採用しようとしています。ここから、彼は感情か立場かと問題に対してどちらか一方を採用し、どちらか一方を切り捨てるべきであるという考え方をしていた事が理解できます。それでは、この問題に対して決定的な言葉を放った人物、船医のワトソンはどうだったでしょうか。彼はこの事実を知ると、誰よりも自らの言葉に責任を感じ、果たしてその時の自分の判断は正しかったのか、もしかしたら日本人が持っていた病気は大した事はなかったのではないか、と自ら審査をはじめます。そうしてその揺れ動きを感情で解決しようとはせず、あくまで「医師として」自分の判断に責任を持つため一人書庫へと向かいます。つまり彼はこの問題に対して、立場は優先すべきものであるが、自身の感情はその立場に支障をきたさなければそれを遂行しても良いと考えています。ワトソンは提督のように、あれかこれかで考えていたのではなく、あくまで自分の立場にかえった上で自分の感情というものを考えており、そう考えているからこそ、他の人物たちよりも一層その問題に対して深く悩んでいるのです。

2012年2月11日土曜日

船医の立場ー菊池寛

日本がまだ外国と自由に貿易をしていなかった時代、武士である吉田寅次郎と金子重輔(じゅうすけ)はどうにかしてアメリカ船に乗り込めないかと試行錯誤していました。彼らは、そうして外国へ渡りその技術を盗む事で、外国人を追い払おうと考えていたのです。そして数々の苦難を乗り越えた末、やがて彼らは念願のペリー提督が乗っているアメリカ船、ポウワタン船に乗り込むことに成功します。
一方、彼らが搭乗したポウワタン船では、この二人を受け入れるか否かをペリー提督と艦長と副艦長を中心に会議が開かれていました。まず艦長と提督の主張では、現実的に考えて彼らを受け入れる事は日本政府を刺激する事になり、二国間の友好関係を悪化させる恐れがあるというのです。ですが、副艦長は二人のアメリカの文化に対する関心は本物であり、二人を受け入れるべきだと主張しているのです。そして彼は、そもそも自分たちは閉鎖された日本国の人々を解放することが目的であり、提督らの主張はそれとは矛盾している事を指摘しました。この弁には提督も感動してしまい、何も言い返せなくなってしまいます。やがて提督は、苦しまみれに「ほかに意見はありませんか。」と、他の者に助けを求めはじめます。すると、船医であるワトソンは、その日本人の中の一人の手指に腫れ物があったことを思い出します。これは、寅次郎が旅先である女中に感染された、疥癬(※しつ)と呼ばれる皮膚病だったのです。そして、彼らの国ではこの病気が珍しい事を理由に、ワトソンは彼の皮膚表を脅威と見なし、彼らを受け入れる事を拒否すべきだと主張しました。この彼の一言によって、結局、寅次郎と重輔は船から追い出されてしまいます。
その三日後、アメリカ船に乗った日本人二人はその罰として、その首を切断される事になってしまいます。この事態を知ったポウワタン船の一同は、彼らを助けるのだと意気込みはじめます。しかし、そんな中、船医のワトソンはその時の自分の判断に自信が持てなくなり、果たして日本人が持っていた皮膚病が本当に脅威であったかどうかを、改めて調べはじめるのでした。

この作品では、〈正論を認められない為に、別の大義名分を用意して自分の主張を正当化する事がある〉ということが描かれています。

まずこの作品の軸というのは、下記にある、船医であるワトソンが会議の中で発言した一言にあります。

「私は船医の立場から、ただ一言申しておきたい。彼の青年の一人は不幸にも Scabies impetiginosum に冒されている。それは、わが国において希有な皮膚病である。ことに艦内の衛生にとっては一つの脅威(メナス)である。私は、艦内の衛生に対する責任者として、一言だけいっておく。むろん私はこの青年に対して限りない同情を懐いているけれども」

この一言によって、それまで日本人を受け入れる事を主張していた副艦長も、言葉を失ってしまいます。またその事に反対していた提督の方では、「青年の哀願を拒絶するために感ずる心の寂しさを紛らす、いい口実を得た」と考えていました。こうして、彼らは二人の日本人を拒絶することにしました。ところが、実際にその日本人たちが罰せられているところを目の当たりにした事で、ワトソンは自身の上記の主張に疑問を感じはじめ、再びそのそれが正しかったのかどうか、改めて検討しはじめます。つまり、彼はこの発言をした時、「艦内の衛生に対する責任者として」という言葉の裏には別の意味合いがあったのです。そこには恐らく、提督と同じような心持ちがあった事でしょう。だからこそ、彼は日本人を受け入れる事が決定しそうなタイミングで、寅次郎が皮膚病を患っている事を思い出し、それが本当に脅威なのかどうかをまともに審査せず、船医として上記のように発言してしまったのです。そうして彼は結果的に、寅次郎と重輔が罰せられている姿を見た時、良心を痛めて自分の判断を再び検討せずにはいられなくなっていったのです。

2012年2月8日水曜日

尾生の信ー芥川龍之介

この作品では、故事に登場する、橋の下で女と会う約束をした男、尾生が橋の下で彼女を待ち、死ぬまでが描かれています。そして著者は、こうした女を待つ彼の姿にシンパシーを感じている様子。では、彼は具体的に尾生のどのようなところを見て、そう感じているのでしょうか。
この作品では、〈自身が本当に描きたいものを待ち続ける、ある作家の姿〉が描かれています。
まず、この作品に登場する尾生という人物は、女を待っているうちに大雨のせいで河が増水しても尚、待ち続けていた為に死んでしまいました。著者はこの姿が、「この魂は無数の流転を閲(けみ)して、また生を人間に託さなければならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。」という表現からも理解できるように、自身の文学への向き合い方と同じだと考えています。自分が向きあうべき対象が何かは理解できないまでも、そこにある、またはいつかはやってくる事は理解できる。しかし中々それはやってこないし、見える気配すらない。それでも、必ず来るものとして、命尽きるまで頑なに信じ待つ。この随筆では、著者のそうした作家としての苦悩、また覚悟が尾生の姿を通して描かれているのです。

2012年2月5日日曜日

友情送信

私は自分の部屋の中でシャカシャカと鉛筆を動かしていた。この前まで受験生であった私も、すでに大学には合格していた。しかし、それまでの勉強する習慣が身についていた私はなんだがやることがなくて、結局はこうして勉強を続けていたのだった。そこには鉛筆の芯がノートの上を滑る音以外、何もなかった。ただ少しばかり窓の向こう、机の向こうからは何か聞こえていたが、それはきっと私には何も関係のない事なのだろうから、やはり私の部屋には鉛筆以外音というものはそれ以外存在しない。だから、その静寂を破って機械的なメロディがどこからか流れてきた時は、驚きを隠せなかった。よく聴いてみると、それは自分の携帯電話のメールの着信音だということに気がつく。耳をすまして、どこから鳴っているのかを探ってみる。どうやらベッドの方角から鳴っているようだ。そう言えば、今日学校から帰ってきて、携帯を鞄の中にしまった儘にしておいた事を思い出す。私は机から重たい腰をあげて、鞄のファスナーを開けてみる。すると、それはその中の暗闇からチカチカとなんだか怪しい光を放っていた。私はそれを取り出し、折りたたまれていた画面のディスプレイを開いてみる。驚いた。そこには、私と小学校時代を共に過ごした、懐かしい友人の名前が表示されていたからだ。前原優子……。彼女は小学校の途中で転校して少し離れてしまったが、それでも私達はメールやチャット等で連絡を取り合い、その関係を保っていた。しかし、中学校3年生ぐらいの頃、受験勉強が忙しくなるに連れて、自然と彼女との交流は毎日が2日に一度、一週間に一度、二週間に一度という具合に次第に減っていって、やがて途絶えてしまった。しかし、彼女はまたこうしてメールを送ってくれたのだ。久しぶりに彼女から連絡が来たことへの嬉しさ、緊張を抑えながら、早速その内容に目を通す。そこには、なんと彼女はこの春第一志望だった大学に合格し、晴れてこの町に戻ってくるらしい事が、女の子らしい可愛らしい絵文字とデコレーションで書かれてあった。そして、その志望校というのが、偶然にも私がこの春から通うことになっていた大学と同じ所で、私との再会を楽しみにしているというのであった。ますます嬉しくなった。が、それと同時にあろうことか、私はかつての親友に対して警戒心を持ってしまっていた。あれから3年以上の月日が流れたのだ。きっと、私には分からない、彼女とのなんらかのすれ違いがあるのかもしれない。かつて私の周りにいた友達がそうであったように……。しかし、結局私は、彼女からメールがきたことへの嬉しさに従い、メールを返信することにした。そして、私は期待する気持ちを必死で抑えながら、再び鉛筆の音のする世界へとかえっていった。

20XX年3月27日
宛先:前原優子
件名:Re:
ゆうちゃん、久しぶりだね。メールありがとう。なかなか連絡できなくてごめんね。あの後、気にはしていたんだけど、送っていいものかどうか分からなくて、その儘にしてあったんだ。でもまたこうして、連絡撮り合う事ができて、本当にすごく嬉しいよ。ありがとう。
それにねゆうちゃん、実は私もゆうちゃんと同じ大学通うんだよ?これって凄いことじゃない!!?そしたら入学式であえるんじゃないかな?もし会った時は、その時はよろしく。それじゃあ、また学校で会おうね。



入学式当日、私はゆうちゃんと再会を果たした。見た瞬間、すぐに彼女だと分かった。小学校の頃の彼女の面影がそこにはあったからだ。彼女も私の事に気がついたらしく、自分の顔の横で手を降ってくれた。そして、二人はあれこれと最近の近況、高校での事、音楽の話などで盛り上がった。ゆうちゃんは何も変わってはいなかった。相変わらず世間知らずで、人を疑う事を知らないし、愛嬌があって、私にすごく優しかった。何よりもそれが嬉しかった。また再び出会えて良かったと心の底から思えた。でも少し変わった事もあった。ゆうちゃんの体つきは十八歳の女の子らしく、腰は丸みを帯びて大きくなり、それでいて太ももやふくらはぎはスラっとしていて、胸は豊かになっていた。そうした彼女の変化は、女性の私ですら、息をのんでしまうほどであった。私は今日一日、ゆうちゃんとの会話、ゆうちゃんとの時間を楽しんだ。
そして、家に帰った私は早速今日の楽しかった出来事を思い出しながら、ゆうちゃんにメールを送信した。

20XX年4月7日
宛先:前原優子
件名:Re:
ゆうちゃん、久し振りに会えて嬉しかったよ。大人っぽくなったね。なんだ引っ込むところ引っ込んで、出るところ出たっていうか……。兎に角、すごく大人の女の子っぽくなった。女の私ですら惚れちゃいそうだよ(笑)あ、だから変な男に捕まらないようにしないと駄目だよ。ゆうちゃんは性格もいいから、それなりの人を選ばないとね。ゆうちゃんには幸せになってもらわないといけないし。なんてたって、ゆうちゃんは私の大好きな友達なんだからね。


3日後、それは確かゆうちゃんからの365通目のメールだったと思う。急にゆうちゃんは、昔の私たちのかつての友達であった、奈々子や恵とも遊びたいと言い出した。私は返信に困ってしまい、一度携帯を机の上において椅子の上で膝を抱えて考えはじめた。彼女達は私を裏切った者達だった。奈々子は他のグループの子たちと遊び、私の知らない音楽、私の知らない映画に興味を持ってしまい、私から離れていった。恵は中学校を卒業して、化粧を少し覚え、クラスの男の子たちの前で大胆になっていき、私とは距離をおくようになった。やがて、そうした彼女たちの末路を考えていると、急に私は恐ろしくなった。確かに優子は小学校の時と変わらない。だけど、これからはどうか分からない。あれから6年経った彼女は美しく、そして女らしくなった。性格も可愛らしい。そんな彼女を他の男は勿論、女の子ですら放っておくわけがない。そして、そうした事態は今まさに起ころうとしているかもしれない。この儘では、優子も私を裏切った子達のように私から離れていってしまうのではないか。そしたら、私はもうそんな思いには耐えられない。私は頭を自分の膝にうずめながらも、上目遣いで細長い板をじっくり眺めた。どう返信すべきか……。優子は私と彼女たちの間に何があったのか、一切知らない。だから、返信が遅れすぎてしまえば、彼女との仲も気まづくなってしまう。兎に角、メールを返信せねば……。よく考えてみれば、ありの儘を返信したところで問題はないのだ。ただ、彼女さえ、私の傍を離れなければ良いのだ。ただそれだけの話なのだ。そう思い直し、机の上の携帯を手にとって、彼女たちとは高校に入学してからはあまり関わりがなく連絡をとることが気まづいこと、そしてメールアドレスも変わっており連絡が取りづらいこと(最も、これは嘘であり、一方的に私が連絡をとることを避けていた)を打って送信した。返事はすぐに返ってきた。画面の文面を見た時、私はほっとため息をついて、全身の肩の力が抜けていくのを感じた。そこには、たった一言、「そっか、じゃあ仕方ないね。」と書かれてあったのだ。良かった。彼女がこの件に関して、言及しないでくれて本当に良かった。安心しきった私は椅子にいることすら苦しくなって、ベッドへと倒れ込んだ。そして携帯を枕元へと落とし、天井を向いて物思いにふけった。今回は良かった。だが、問題はこれからだ。これから、彼女は様々な人々と出会い、様々な事を経験していく。それは誰にも止められない。だから、彼女がずっと私の友達であるという保証もない。そんな事が許されるはずがない。優子は私の友達なのだ。私の、たった一人の親友なのだ。私は私と彼女の友情を守っていく義務がある。責任がある。私はこの自分の決意を次の一文に打ち込み、その日のメールを終えることにした。

20XX年4月12日
宛先:前原優子
件名:友達だから
優子、優子と私は何があっても友達だからね。

おやすみ。


それ以来、私はゆうちゃんと以前よりもべったりとくっつくようになった。朝学校で会って授業を受ける時も、ご飯を食べている時も、サークル見学の時も。出来るだけ彼女といれる時は、彼女と同じ時間を過ごしていた。ゆうちゃんも私といると、楽しそうに笑って話してきてくれるので本当に嬉しい。だけど、時々少し辛そうな表情を見せる時があるので少し心配でもある。それは私が彼女から目を離した、ほんの一瞬、下を向いて疲れた顔をするのだ。優しいゆうちゃんのことである。きっと私に心配をかけまいとして、そうした表情を私の前で隠しているのだ。
そこで私はゆうちゃんの気晴らしの為、次の休みの日、昔二人でよく遊んだ商店街へ出かける事にした。これには彼女も喜んでくれたみたいで、彼女は遠い目をして、クレープ屋さんの跡地、名前のロゴを新しく取り替えた喫茶店、昔も今も変わらない美容院の店内をきょろきょろと見回していた。私はそうした彼女の何気ない仕草が愛しく感じられた。この儘ずっと彼女と遊んでいたい。この儘ずっと彼女の傍にいられたらどんなに幸せな事だろうか。だから、私は私と彼女との関係を守っていく。守りぬいて見せる。私は彼女のあどけない表情を見ながら、そうした決意の炎を更に激しく燃え上がらせた。
そして家に帰り机に向かっている今も、その炎はめらめらと燃えている。同時に、私はこの時淡い気持ちも持ちあわせていた事もここで告白しておく。シャワーを浴びた私は、早速今日彼女と共に買ったおそろいのTシャツに袖を通していたのだった。それを着ているとなんだか常にゆうちゃんと一緒にいるような気がした。何から何まで彼女と繋がっている気さえした。すると、私の頬は熱くなり、私は机に埋もれて足をバタバタさせずにはいられなかった。もうこうなっては満足に勉強もできないし、寝ることもできない。しかし、何があっても彼女とのメールはやめない。私は彼女に今の気持ちを少しだけメールで告白して、自分の気持ちを落ち着かせようとした。だが、これは逆効果で、彼女にメールを返信すると私は更に、自分の気持ちを抑えつけることができなくなっていった。結局この日、私はゆうちゃんが寝るまでずっとメールのやり取りを続けることとなった。

20XX年5月4日
宛先:前原優子
件名:Re:Re:Re:
ゆうちゃん、今日のデート、楽しかったよ。ありがとう。昔よく行ってた商店街の小物屋さんや、クレープ屋さん、潰れちゃってたのは残念だったよね。でも地元の私ですら、普段あの商店街いかないんだから、潰れたって可笑しくないよね。でも、その分ゆうちゃんとプリクラ撮ったり、ごはん食べたり、お揃いのお洋服買えたから満足。嬉し過ぎて、私なんてもう服に袖とおしてるからね(笑)今日はこれ着て寝ようかな。
ゆうちゃんの方は楽しかった?なんだか最近暗い顔してる時があるから、少し心配してるんだ。だから今日の事が少しでも気分転換になるといいかなと思って、誘ってみたんだよ。何があったかは知らないけど、あんまり無理しちゃ駄目だよ。
また明日、学校で会おうね。おやすみ。



しかし、私のそんな気持ちとは裏腹に、ゆうちゃんは相変わらず苦しそうな顔を見せるのだった。そして、日に日にその表情を見せる回数が確実に多くなっていった。おまけにゆうちゃんは私の知らない友達をどんどん増やしていき、私と同じ授業以外は、毎回別の友達と授業を受けているようだった。毎日続けているメールの頻度だって少なくなってきている。それらの事が私にとって何よりも苦しかった。ゆうちゃんは何を悩んでいるのだろう。何故多くの友達をつくろうとするのだろう。私はゆうちゃんがいればそれで充分。もう他には何もいらない。だけど、彼女の方はそうではないのだろうか。いや、そんな事は決してありえない。だって彼女は笑っていた。私の傍で確かに、昨日も一昨日も笑っていた。そしてこれからも、彼女は私の傍でずっと笑うのだ。だとすれば、彼女の悩みというものは寧ろ、私以外の友人関係にあるのではないか。そうだ。きっとそうに決まっている。少なくとも、私の前では彼女は明るいのだから、きっと他の友達の前ではそうではないのかもしれない。ならば、他の者達から私が彼女を守ってやらなくてはならない。この私が……。
ある日の昼下がり、ゆうちゃんと学校の廊下で話していると、突然知らない男子学生がなれなれしく「ゆうちゃん」と遠くから手を振ってきた。ゆうちゃんも、それに笑顔で応じる。ゆうちゃんがそうした態度をとったことをいいことに、男子学生は晴れ晴れとした表情で私達との距離を詰めてくる。私は彼をきっと睨んだ。しかし、男子学生は気づいているんだがいないんだか、それに構わず、なんと私を無視してゆうちゃんと会話をはじめたのだ。二人は楽しそうに互いの近況、授業の事を話しているようだった。はじめは私も、平常を装ってそれを聞いてはいたのだが、この男子学生の態度、そして彼に向ける彼女の笑顔、更にリズムの良い会話。これらが私の仮面を徐々に剥がしていく。遂に耐えられなくなった私は、ゆうちゃんに「ごめん、先帰ってる」と言い残し、その場を後にした。
帰ってきてからの私は手に負えなかった。まず、背負っていたショルダーバックを床に叩きつけて、携帯をベッドに投げつけた。そして自分もベッドに投げ込んで、顔を埋めて蒲団を片手で殴った。声は決して出さなかった。その代わり、泣きながら散々暴れてやった。そしていつもの私に戻るまでに、結構な時間を要した。
落ち着いてから、私はゆうちゃんとあの男子学生が、あの後どうなったのかを考えた。一緒に授業を受けたのだろうか、一緒に下校はしたのか。もしかして、ゆうちゃんの家に行ったなんて事はないだろうか。私ですら、大学に入ってまだ一度もその敷居を跨いだ事がなにのに、そんな事が許されるはずがない。そう考えると、再び抑えていたものが私の底から湧き出て私を暴れさせた。しかしまた落ち着きを取り戻していった。まだそうと決まった訳ではないのだ。それにゆうちゃんは私の友達だ。友達であるなら、私を悲しませるような事はしないはずである。そうして自分を納得させながらも、不安は完全には拭えなかった。そこで私はゆうちゃんに直接聞いてみることにした。

20XX年5月9日
宛先:前原優子
件名:すごくムカついたんだけど
なんなのあの子?私がゆうちゃんと話してる時に、急に割って入ってきて。ごめんね、突然いなくなっちゃったりして。ちょっと邪魔かなと思って先に帰っただけだから。それにしても、あの子が途中から話しかけなければ、もっと一緒に話せたのに……。ゆうちゃんも、そう思うよね?その後、あの後どうしたの?あの男の子と一緒に遊びに行ったのかな?ちょっと心配。あの子、きっと下心があって、ゆうちゃんに近づいているんだもん。だってずっとゆうちゃんの唇や胸ばかり見てたんだもん。汚らしい。だから、もうあんな子と付き合うのやめときなよ。ゆうちゃんには……私がいるじゃん。それで充分じゃん。

送信した後、中々返信が来ない。勉強しても、読書しても、好きな音楽を聴いて気を紛らわそうとしても駄目だった。何度も何度も、携帯のディスプレイを見てしまう。結局、彼女のからメールがきたのは私がいつも寝る時間になってからだった。そこには、あの後すぐに帰ったこと、彼とは何もないことが書かれてあった。充分満足のいく返信ではなかったが、そのメールは私を幾分か安心させた。私はすぐにおやすみのメールを打ち、蒲団にくるまった。蒲団にくるまりながら、私はこれからはより彼女と一緒にいる時間を増やさなければならない事を悟った。この儘では駄目である。この儘では優子を私以外の誰かに奪われてしまう。だから、今まで以上に彼女と時間を共にすべきなのだ。例え、それで授業の単位を落とすことがあっても仕方がない。私には彼女が必要なのだ。私は再びそう決意し直し、朝を待った。



しかし、優子からのメールはそれ以来来なかった。電話にも出なかった。学校でも彼女を探した。しかし、彼女はいつも私の知らない友達に取り囲まれていて、中々話す機会を得られなかった。仕方がないので、私は何通も何通も何通もメールを打ち、何度も何度も何度も電話をした。

20XX年5月11日
宛先:前原優子
件名:どうしたの?
ゆうちゃん、昼間電話したんだけど、でなくて心配してメールしてみました。大丈夫?何かあったの?困ってることがあったら、なんでも相談してね。メール待ってるよ。

20XX年5月12日
宛先:前原優子
件名:どうしたの?
ゆうちゃん、メールや電話には気づいているよね?気がついたら連絡してきてよ。心配してるんだよ。お願いだから連絡して!!

20XX年5月12日
宛先:前原優子
件名:優子、
どうして連絡くれないの?私に話したくない事でもあるの?何があったの?お願いだから連絡頂戴!!!心配してるのが分からないの!?友達なら連絡してよ!!



そして、遂に彼女から連絡がきた。それは彼女とのメールが途絶えて、一週間程してからの事であった。これには私も驚いた。それと同時に、そこには今更メールを寄越したのかという思い、散々人を心配させたことへの思い、やっと返信がきたことへの思いと様々なものがあった。そして肝心の中身だが、そこには「一度会って話をしよう。1時に学校の食堂に来て。」とあった。私はすぐに支度をはじめた。その最中、私の目にあるものが飛び込んできた。それは私に何か訴えているような感じがした。「万が一の為、持っておいたいいのかもしれない。」そう思った私は、ズボンのポケットにそれを突っ込んで部屋を後にした。
彼女が指定した時間は、丁度学生たちが授業に向かう時間であり、食堂の学生たちの人数が少なくなる時間でもあった。食堂に入ると、私はすぐに優子を見つけることができた。彼女は建物の角の、丁度食堂全体が見渡せるところにいた。そこは食堂の中でも優子のお気に入りの席でもあった。彼女の顔は相変わらず、小さくて、スタイルも良くて可愛らしい。そして彼女の着ていた白いワンピースは、彼女の持っているふわふわした、また柔らかい雰囲気をより引き立てていた。私は彼女に近づいて行くも、未だどういう顔で彼女に会えばいいのか、その心構えはだまできていなかった。どうやらそれは彼女も同じようであった。私を見つけた彼女顔は笑っていたが、唇の辺りの皺がひきつっている。それに応じる私もやはり、笑っているものの目線を少し下に下げる。
「なんだか久しぶりだね。」
と、まずは彼女から話しかけてきた。
「そうだね、元気だった?」
彼女はただコクリと頷くだけだった。その後、私は彼女が口を開くのを待った。というのも、彼女は私に何か話したい事があるらしく、口をもごもごさせている。やがて彼女の口は少しだけ開いた。
「あのね。」
私は手に汗をかいた。生きている心地がしない。センター試験の時よりもはるかに緊張していた。息が止まりそうだった。そんな私の気持ちを察してか、彼女も話したい内容まで行きつくには時間がかかった。
「あの、前からずっとずっと言おうと思っていたんだけど、なんていうか、どうしても言い出せなくて。でも言わなきゃ駄目って思ったからこうして話しにきた。」
「……うん。」
そして、こう言った。
「メールするの、正直つらいっていうか、しんどいっていうか……。はじめは楽しかったんだ。でも、段々あっちゃんの気持ちについていけなくなったっていうか、なんていうかさ。だから、……連絡暫く取らないで欲しい。ちょっとだけ、だから。ちょっとだけ、ね?」
「……うん。」
「別にあっちゃんの事嫌いになったとかじゃないのね。ただね、ちょっと疲れてんだ最近。それで、ちょっとメールするの、しんどくなっちゃって……。」
「……うん。」
「でもほら、元気になったらあたしからメールするし。ずっとじゃないから。ごめんね、私の都合で……。」
「……うん。」
私は優子の言葉を一切聞いていなかった。優子はそんな私をよそに、あれこれと話の方向性を変えて、次々と言葉を並べ立てている。こうして私は彼女に裏切られるのか……。いや、彼女に決定的な言葉を言わせない。そして、これからもそんな事は言わせないし思わせない。そう考えた私は、「万が一の為」に持ってきたものをポケットから取り出し、優子に切りかかった。優子は「ヒャッ」と声を裏返らせながら、それを防ぐようにして手を出してきた。その腕からは赤い血がまるで線でも引いたように浮き出てきた。そして彼女は椅子から転げ落ちたかと思うと、酔っぱらいのようにふらふらしながら食堂を走り去っていった。私はゆっくりと、まるで何かにとり憑かれたかのように椅子から立って彼女を追った。そして、漠然と「いつになったら捕まるのだろう」という事を考えていた。こういう時、勇敢な男子学生が私をすぐに取り押さえてもよいものである。しかし、意外に誰も私の事など止めようとはしない。取り押さえられたのは、結局事が起こって数分経ってた後であった。取り押さえたのは、ある中年の教授であり、彼は「手に持ってるもんを捨てて、こっちに来い。」という、なんだか間の抜けた台詞を吐いた。だが、この時の私は頭にのぼっていた血も少しは引いたのか、すんなりと彼の言うことを聞いたのだった。

それからが大変だった。私はまず大学の学長のもとに行き、あれこれと説教された。もともと周りの大人たちに取り入る事が上手だった私は、あえて学長の言うことに逆らわず、じっと話を聞き、相槌を打ち、涙を流した。そして私の両親と、優子の両親がやってきた。私は自分がありの儘に思っている事のほんの一部をそこで話した。私の親は泣き崩れ、優子の母親は私を睨みながら泣いていた。ただ、彼の父親だけは複雑そうにしている。実は優子の両親とは面識があり、彼女の父親とは何度か話もしたことがある。それだけに彼女の父にとって、私が実の娘を傷つけたことが信じられなったのだろう。私は彼に取り入るために、彼らの前で両親と共に謝罪の言葉を、出来るだけ誠意を込めて述べた。そして、私のそうした試みは上手くいったらしく、私が退学する事を条件に、彼らは私を訴える事を取りやめてくれた。こうして、私は優子に対しての友情を確かなものにすると共に、自身の社会的な立場をも守ることができたのだ。これで優子も私から離れたり、誰かにその事を相談しようなどとは考えないだろう。私は再び、優子に向けて新たなメールを送信することにした。彼女は新しくアドレスを変えていたらしいが、私はそのアドレスを奈々子か恵かどちらかが知っていると考え、彼女たちから優子のアドレスを聞き出すことにした。案の定、その予想は的中した。菜々子は返信も返してくれなかったが、恵はすんなりと何も言わず、彼女のアドレスを渡しに教えてくれた。アドレスを受け取ると、私は早速優子に対して、メールを打つことにした。


20XX年5月20日
宛先:前原優子
件名:優子
この前はごめんね。手の傷、まだ傷んでるかな?はやく治るといいね。ねぇ優子、これで分かったよね?私たち、何があっても友達だからね。何があっても……。

2012年2月2日木曜日

最終の午後ーモルナール・フェレンツ(森鴎外訳)

市の中心から外れた公園の、人通りの少ない道で、ある男女が散歩をしていました。その中で、どうやら彼らは別れ話をしている様子。
しかし、女と別れるにあたって、男は女に対して気になっていることがあるというのです。それはまだ彼女の事を愛していた頃、ある時彼は人妻であった彼女から、「これが、わたくしの夫ですから、よく見ておおきなさい」と女の夫の写真を見ることとなります。そして男は、彼女の夫の容姿の良さに嫉妬し、自身も懸命に容姿に磨きをかけていました。
ところがある日、男は実物の女の夫を見る機会を得ました。すると、彼女の夫は写真の男とは似ても似つかない、お粗末な容姿をしていたのです。これを知った男は、自身への容姿への興味をなくしていゆくと同時に、女への愛情もなくしていったといいます。ただ彼の中には、何故彼女が自分に偽物の夫の写真を見せる必要があったのかという疑問が残るばかりでした。
しかし、ここまでが女の計画の全てだったのです。彼女が男の容姿を良くするために、あえて写真を見せて男の嫉妬心に火をつけたのです。そして、彼に興味をなくし別の男を好きになると、実物の夫を見せて自分への愛情を失わせていったのです。
この作品では、〈あるものに価値を見出す為に、その対象とは別のものに価値を見出すこともある〉ということが描かれています。
まず、この作品の面白さとは言うまでもなく、恋愛において、それまで優位に立ち回っていたと思われる男が、物語の最後で、実は女の手のひらで踊らされていた事に気がつくという滑稽さにあります。ですが、そもそも男は何故この女性に踊らされてしまったのでしょうか。
彼ははじめ、彼女の偽物の夫の写真を見た時、「どうしてもわたくしのどこをあなたが好いて下さるか分からなかったのです。」と、自分よりも夫が美男子だと分かると、かなり弱気になっています。ですが、本物の夫の素顔を知った途端、彼は強気になって、彼女への愛情も冷めていってしまいました。つまり、彼は彼女自身になんらかの価値を見出しているのではなく、彼女の価値を見出すために、彼女と結婚している夫の容姿と自分とを天秤にかける事で、彼女の価値をはかっていたのです。そして、夫が自分より容姿が優れていると感じた時には、女はその証であり、男性よりも容姿をよくして彼女の心を掴もうと努力し、逆の場合はその夫が自分より劣っていると感じ、同時に女も劣っていると感じたために、その愛情も冷めていってしまったのでしょう。女は男のこうした性質を巧みに利用し、結果、男は架空の夫と一人相撲を繰り広げなければならなかったのです。