2012年4月29日日曜日

田舎ーマルセル・プレヴォー(森鴎外訳)

脚本作家であるピエエル・オオビュナンはかつて自分が恋をしていた田舎の女性、マドレエヌ・スウルディエ(現在は結婚していてジネストとなっている)からある1通の手紙を受け取ります。その内容とは、夫が他の女性と関係を持っており離婚したいと考えている。しかし、自身の体裁を考えると周りの人々に知られたくなく、途方に暮れているので相談に乗って欲しい。一度うちに来てはくれないか、というものでした。ですがピエエルはこの手紙から、マドレエヌが自分と不倫して夫に復習したいという気持ちがある事を感じ取り、一人の男としての好奇心からではなく、作家としての好奇心から彼女のもとを尋ねる事を決心します。
 しかしその当日、ピエエルは彼女のもとを尋ねたにも拘らず、散々待たされた挙句、その家の下女からマドレエヌは彼に会う事が出来ないと伝えられてしまいます。
 そしてその後日、ピエエルは彼女から再び手紙を受け取る事になるのです。さて、そこには一体どのような事が書かれていたのでしょうか。

 この作品では、〈相手を思う気持ちが強いあまり、かえってその相手と二度と出会えなくなってしまった、ある女性〉が描かれています。

 第2通目手紙の内容に触れる前に、一度ピエエルが第1通目の手紙を受け取った時、彼は何を考えた上でマドレエヌのもとに行くことを決心したのかを整理してみましょう。一通目を受け取った時、彼は彼女が何故自分にそのような手紙を書いたのかを考えてみることにします。そして彼は、マドレエヌは現在39歳であり40歳が目前に控えている年齢であるから、その前に彼女にとって6歳も若い自分と遊んでおきたかったのではないか、恐らく夫への復讐心もそうしたところからきているのだろう、という考えに至ります。そして次に、彼は彼女のそうした淫らな気持ちを想像した上で、自分はどういう決断をすべきかを考えはじめす。やがてピエエルは自分にこうした経験がないことから、これは脚本のネタになるのではないかと考えはじめ、興味を引かれていったのです。
 ですが、いざそうしてマドレエヌのもと訪ねても、彼女は彼のもとには現れませんでした。その変わりに、彼は彼女から2通目の手紙を受け取ったのです。そして、そこには彼女の旨のうちがありありと書かれていいました。
 そもそも彼女は一部でピエエルが指摘している通り、彼に会いたいが為に一通目の手紙を送りました。ですが、彼が彼女の家を訪れ待っている姿を隠れて垣間見た時、彼女は自分が考えていた以上に彼に好意を抱いていたことを理解します。しかし田舎の女である彼女は、結婚と恋愛を分けて考える事がどうしても出来ません。つまり結婚して夫がいる彼女にとって、ピエエルと交際することは不実なものに他ならないのです。またそうかと言って、ピエエルが自分に本気になり結婚するとも、考えられません。例え交際をしても、本気にならない彼が彼女に飽きてしまうのは目に見えています。そこで彼女は、ピエエルに対する自分の気持を優先すべく、二度と彼に会わない事を心に決めていったのです。

2012年4月27日金曜日

カズイスチカー森鴎外

この作品は医学の道を志す青年、花房が学校を卒業する前に医者である父のもとで代診の真似事をしていた頃を中心に描かれています。その中で、彼らは病気に関して対照的な考え方をもっているようですが、それはどのようなものだったのでしょうか。

 それは、〈父は病気に熱心になるが故に患者を物質として見ており、息子は病気に熱心になれないが故に患者を人間として見ている〉ということです。

 というのも、父は長年人間の病気というものを治療することを生業にしているだけに、病気に対する向き合い方も真剣そのものでした。また、そうした病気への向き合い方は日々の生活の中にも表れており、盆栽をいじっている時も、茶をすすっている時も同じ態度でいたのです。しかし、彼は人間の病気を熱心にみるあまり、人間の事に関しては無頓着なところがありました。例えば、顎が外れて困っている青年やそのお上をよそに、彼は息子に病気のことばかり質問し、患者に同情している気配すら感じさせませんでした。
 一方、息子である花房は医学の道を志してはいるものの、その先は漠然としており、父のようにどうしても病気に対して熱心にはなれませんでした。ですが、その代わりに彼は父のように人間に無頓着にならず、患者を人間として扱うことができました。
 さて、上記にあるこの彼ら2人の違いは、その職業にどれだけ熱心に、どれだけの年数関わってきたのかというところからきています。即ち、父は一人前の医者でしたが、それ故に患者を人間としては扱うことが困難になっていき、花房は医者としてまだ未熟ではあったが、それ故に患者を人間として扱うことが出来たのです。

2012年4月24日火曜日

あそびー森鴎外(未完成)

◯ヒントー木村の遊びとは

仕事の重大さを自覚しており、笑談とは考えていない
しかし、他人から見れは笑談に見える
それは彼が、仕事をあそびの感覚で楽しんでいるからである

◯不明な点
笑談とあそびの区別
木村のあそびの具体的な内容(単なる空想の事を指しているのか否か)

2012年4月21日土曜日

極楽ー菊池寛

染物悉皆商近江屋宗兵衛の老母「おかん」は、文化二年二月二十三日六十六歳で突然亡くなってしまいます。彼女は死後、生前夢にまで見ていた極楽へと辿りつき、死に別れた夫、宗兵衛とも再会を果たしたのです。そしておかんは暫く極楽の生活を漫喫していましたが、次第に飽きてしまい、やがてまだ見ぬ地獄へ憧れを抱いていくようになっていきます。

 この作品では、〈極楽に行くという夢を達成したが故に、かえって地獄に憧れをいだいてしまった、ある老母〉が描かれています。

 はじめおかんにとって極楽に行くということは上記にもあるように、夢でありました。そして彼女は、その夢へと向かうため、生前は強い信心をもって生活してきたのです。反対に地獄行くことは彼女の夢に向かって進んできた上での失敗、つまり自分の信心が偽りであったことを意味していました。そして彼女は死後、極楽か地獄かに行くことになり、これまでの自分の信心を試されることとなります。結果、彼女はその強い信心で極楽へと辿りつきます。
 ですが物語の終盤ではその極楽にも飽きてしまい、その挙句に地獄での様子を思い描いています。一体、何故おかんは自分が失敗の末に辿りつくと考えていた、地獄に対して憧れを抱くようになってしまったのでしょうか。
 それは、極楽に行くという目的を果たしてしまったからに他なりません。恐らく、彼女はそこに至る強い信心を持つために様々な形で、自分や自分の周りを変えていったのでしょう。例えば、自分の信心に対して疑いを持つこともあったはずです。周囲の人々から、自分の信心を批判されたことがあるかもしれません。彼女はそうした葛藤や苦難の末、自分の信心をより強く「変化」させ、或いは他の人々に信心の素晴らしさを訴えて、その人の心を「変化」させてきたのです。ところが、極楽に着き自分の信心が正しかったことが証明されると、彼女の身の周りからはそうした変化は徐々に失われていきました。真新しかった景色や最愛の夫との感動も徐々に薄れていき、やがては飽きてしまいます。やがて彼女は次なる「変化」を追い求めて、自分が行くかもしれなかったまだ見ぬ、地獄という場所に興味を持ちはじめ、憧れを抱くようになっていったのです。

2012年4月19日木曜日

三浦右衛門の最後ー菊池寛

豪奢遊蕩の中心であり、義元恩顧(よしもとおんこ)の忠臣を続々と退転させたと噂されていた「三浦右衛門」は、戦場で自身の命の危機を感じた為に、君主を捨ててその場から逃げてしまいます。その後、彼はかつて自分が数々の好意を与えた人物、「天野刑部」(あまのぎょうぶ)を頼って、高天神の城へと向かいました。ですが刑部は右衛門が仕えていた氏元が死んだことを知ると、氏元の敵方であった織田勢に好意を示すために、彼を殺すことにしました。
しかし、命を惜しんだ右衛門は必死で形部にそれを訴え、彼のいうことはなんでも聞きました。一方形部は、こうした右衛門の命を惜しむ姿がどうにも滑稽でならない様子。やがて、右衛門の訴えも虚しく、彼は形部に弄ばれ、形部や彼の武士たちの笑いものになりながら死んでいってしまいました。

この作品では、〈自分の命を大切にするが故に、戦の時代を生きた人々に蔑まれなければならなかった、ある人間〉が描かれています。

この物語は言うまでもなく、主人公である三浦右衛門が死んだところで終わっていますが、その最後の箇所で、著者は次のような事を述べています。「自分は、浅井了意の犬張子を読んで三浦右衛門の最後を知った時、初めて“There is also a man.”の感に堪えなかった。」彼はここで、人々に笑われながらも命を惜しんだ右衛門こそが、彼を笑った人々よりも人間らしいと述べているのです。一体それはどういうことなのでしょうか。
そもそも右衛門の命乞いを笑っていた人々は、何故彼はそこまで命を惜しんでいるのか、全く理解していませんでした。彼らが生きた時代では、命というものは現代を生きる私達の価値観とは違い、それ程尊いものではなかったのです。寧ろ、命をいかに安く見せて死ぬか、ということの方が問題だったのです。
そんな中、右衛門は決して自分の命を安く見積りませんでした。彼は何に変えても自分の命を第一と考え、惜しんできたのです。
ではこの2つの考え方を比較した時、命の尊さというものが分からず、見栄を張って死んでいく人々と、命を惜しんで見苦しく生きている右衛門、果たしてどちらが人間らしいと言えるのでしょうか。そこが著者が右衛門を当時の武士たちよりも人間らしいと述べている所以なのです。

2012年4月16日月曜日

若杉裁判長ー菊池寛

刑事部の裁判長をしている「若杉浩三」は、罪人に対して強い同情心を持っていました。その為に若杉は罪人たちをなかなか憎めず、彼らの動機を聞いて汲み取っては寛大な処置を常に施していました。
ところが自分の家に強盗が押し入ったことで、妻や子供たち、そして若杉自身の心に大きな傷負ったことをきっかけにそんな彼の思想は大きく変わってしまいます。そしてある時、彼は悪戯心で富豪の家の門に癇癪玉を投げ入れた少年の裁判で、禁錮1年という普段の彼らしからぬ判決を言いわたし、その場を後にしました。

この作品では、〈罪を憎むあまり、かえって罪人を許せなくなっていった、ある裁判長〉が描かれています。

若杉は別に罪を憎んでいない訳ではありません。寧ろ、ある警官が自分だけ罪人を捕まえず手ぶらで帰る気まずさから、またまた反抗してきた青年を捕まえて警察署に送る場面を見て、憤る程の正義感は持っていました。ただ彼は罪人そのものに対しては強い同情心をもっており、厳しい判決を言いわたすことは出来なかったのでしょう。そこで彼は、文中の「この少年の犯罪は、これ少年自身の罪にあらずして、社会の罪である。」という箇所からも理解できるように、罪人と罪そのものを切り離して、罪そのもの(罪人が犯行に至った原因)を憎むことにしたのです。
ですが、若杉は自身の家が強盗に襲われた事でこの考え方を一変させます。金品は盗まれなかったものの、彼は犯罪者に襲われる恐怖を知り、罪人と罪とが切っても切り離せない関係にあることを身をもって理解しはじめます。そして次第に彼は罪人と罪を切り離すという考え方をやめ、罪人と罪、両方を憎むようになっていったのです。

2012年4月13日金曜日

屋上の狂人(修正版2)

身体に障害を持っている狂人、「勝島義太郎」は毎日屋根の上にのぼり、雲を眺めていました。彼曰く、そこには金毘羅さんの天狗が住んでおり、天女と踊っていると言うのです。この義太郎の狂人的な性質に、「彼の父」は日頃から手を焼いていました。そこで彼は、近所の「藤作」が「よく祈祷が効く巫女」がいるという話をもちかけた事をきっかけに、早速その巫女に祈祷を依頼します。そして彼女が祈祷をはじめると、なんと神様が彼女の身体にのりうつり、「この家の長男には鷹の城山の狐が懸いておる。樹の枝に吊して置いて青松葉で燻べてやれ。」というお告げを彼らに残しました。そこで父らは気は進まないものの、神のお告げならばと義太郎に火の煙を近づけます。そんな中、義太郎の弟である「末次郎」がたまたま家に帰ってきました。彼は父から事の次第を聞くと憤慨し、松葉の火を踏み消してしまいます。そして事の発端である父を諭し、巫女をその場から追い払いました。その後、弟に救われた兄は何事もなかったかのように、屋根にのぼりはじめます。そんな兄を弟は労り、2人で同じ夕日を眺めるのでした。

この作品では、〈狂人であるあまり、かえって不狂人以上の信仰をもっている、ある男〉が描かれています。

この物語は義太郎の家族がそれぞれの意味で使っている、「神」という言葉を軸に話が進んでいます。ですから一度、各々が考えている言葉が指しているものはどういうものか、一度整理してみましょう。
まず兄の義太郎ですが、彼の考えている「神」とは雲の中の金毘羅さんの事を指しています。それは彼にとって絶対的なものであり、何をさしおいても優先すべき対象なのです。
一方、彼の父を含めた家族の「神」とは、彼以上に曖昧なものでした。その事は、巫女が自らお金を稼ぐため自らの祈祷によってつくりあげた、「偽りの神」にまんまと騙された事からも理解できます。また、彼らが祈祷によって騙されたという経験は、弟の「またこんなばかなことをするんですか」という台詞からも理解できるように、この一度だけではなさそうです。つまり、父たちにとって「神」の存在はどうでもよかったのです。ただ兄の狂人的な性質をなおしたいが為にすがっただけの、言わば手段のひとつでしかなかったのです。ですから彼らはその信仰心の無さから、これまでにも形は変えながらも人々がつくりあげてきた「偽りの神」に騙され続けてきたのです。
そして、こうした兄とその他の家族を傍にいながら冷静に比較している人物がいます。それが弟の末次郎その人です。というのも、彼は物語のラストで兄と夕日を眺めている際、「不狂人の悲哀」を感じています。これはどういうものなのでしょうか。その時の彼の頭の中には、理不尽に火を燻べられながらも、騒動が終わるとまたすぐに屋根にのぼった兄の姿が印象的に残っています。そこから彼は、巫女に騙さたとは言え常軌を逸した行動をとった父たちと、狂人とは言え自らの信仰心によって屋根にのぼっている兄、果たしてどちらが本当の意味で狂人なのだろうと考えていったのでしょう。ですがその一方で、そうした兄の不狂人以上の信仰心という一面を知った末次郎は、その時、兄との絆を同じ夕日を見ることでその絆を一層強いものにしてもいるのです。

2012年4月10日火曜日

無名作家の日記ー菊池寛

文学を志す青年、「俺」は同じく文壇への野望を抱いている「山野」や「桑田」らの天分への嫉妬から、また彼らから直接的に受ける圧迫から、東京を離れ京都へと移り住んで日々精進していました。ですが、「俺」がどうにかして山野達に追いつこうと四苦八苦している一方、その山野達は自分たちの雑誌をつくり、文壇へ出ていきます。こうした現実に「俺」は彼らに対して嫉妬を感じ、一人取り残される淋しさに耐えられなくなっていきます。しかし次第に彼はそうした感情を失い、やがては自分から文学への道を諦めていってしまうのです。

この作品では、〈友人たちが文壇に名をあげていき、自分だけが取り残されることに淋しさと不安を感じるあまり、かえって文学の道を捨てなければならなかった、ある男〉が描かれています。

この作品の主人公である「俺」は、日頃から自分には「将来作家としてやっていくだけの天分があるのかという不安」、「文壇へ出れないことへの淋しさ」を感じていました。ですがその一方で同じく文学の道を志し、彼が仲間意識をよせている山野や桑田らの「誰か一人有名になれば、もうしめたものだ、そいつが、残りの者を順番に引き立てていけばいいんだ」という強い言葉、姿勢からそれらを拭い去り、安心を得ていました。しかし、こう語る彼らの方では「俺」の存在を軽く見ており、自分たちとは才能という点において大きな隔たりがあると考えています。また彼らのこうした考えは頭の中だけには留まらず、彼らの「俺」に対する態度にも表れていました。その為、彼は日頃からある不安、淋しさを一層強くしていったことでしょう。
そこで彼は、一旦山野達のもとを離れ、京都で創作活動をすることを決意します。京都で活動し続ける中で、「俺」はかつて天才と激賞されながらも未だ文壇に出ていない吉野、150枚の長編を短編と称しマイペースに夢へと進む杉田と知り合います。また、この時点では彼ら山野達は文壇に進出しておらず、文学の道を志しているという点では同じ立場にいました。ですから「俺」はこの2人に対して尊敬する点をそれぞれに見つけ出し、山野達から得られなくなった安心感を代わりに彼らから得ることにしました。
ですが、こうした彼らから得る安心感というものは、やがて脆く崩れ去ってしまいます。山野達が文壇へ徐々に進出していく一方で、吉野は彼らを批判するばかりで文芸雑誌に彼の作品が載ることはありませんし、杉田は杉田で知り合いの有名作家がいつかは自分の作品を雑誌に載せてくれるはずだと夢想を描くばかり。こうして山野達が吉野達との実力を明らかにしていくにつれて、「俺」は吉野達の言葉への信頼を失っていくのです。そして彼自身もまた、ある時を境に山野と自分の立場の違いを見せつけられることになります。それは山野が書いた、「俺」の作品を出来が良ければ自分たちの雑誌に載せたいという旨の手紙を彼が受け取ったことがきっかけとなります。実はこれは山野の「俺」の作品を読んでひとつ嘲笑しようという罠であり、彼は見事に引っかかってしまいます。
こうして立場の違いを見せつけられた「俺」は一層の淋しさ、不安を感じたに違いありません。不安と淋しさにとり憑かれた彼は、どうにかしてこれらを払拭したいところ。そこで彼は、偉人であるアナトール・フランスの下記の言葉を借りて、自らのそれまでの考え方を一転させます。

太陽の熱がだんだん冷却すると、地球も従って冷却し、ついには人間が死に絶えてしまう。が、地中に住んでいる蚯蚓は、案外生き延びるかも知れない。そうするとシェークスピアの戯曲や、ミケランジェロの彫刻は蚯蚓にわらわれるかも知れない

つまり、彼の主張では幾ら作品を書き続けたところで、人間が滅んでしまえば芸術などは意味のないものであり、価値のないものである。従って作品を書くことは無意味なものであり、山野らの作品もその例外ではない、と考えていくようになっていきます。こう結論付けることで「俺」は不安の原因であった作家への夢を捨てて、山野達との立場の違いを自分のレベルにまで引き下げて、淋しさを払拭していったのです。

2012年4月9日月曜日

奉行と人相学ー菊池寛

大岡越前守は江戸町奉行になったばかりの頃、人相学に興味を持っており、旗本の侍で人相学を勉強している、山中佐膳からそれを勉強していました。やがて彼は山中からその知識を全て習得しましたが、自身の人相によって先入観をつくることを恐れるあまり、自身の職務で咎人と面会する時それを用いようとはせず、あくまで参考までにしておこうと考えていました。
そんなある時、大岡は義賊と噂される盗人、木鼠長吉(きねずみちょうきち)の罪科の決断を下すこととなりました。大岡は金持ちからお金を盗み、貧しい人々をにそれを与えるという長吉の噂から彼に同情し、罪を軽くしてやろうと考えていました。しかし、この彼の決断は長吉と直接会った事で再び揺れ動くことになります。というのも、彼は長吉の人相が越前の考えた陰徳の相の1つに、あまりにもぴったりと当てはまっていたのです。そこから彼は、長吉を真人間にしてやろうと考え、笞刑(ムチ打ちなどの、当時としては軽い刑)という決断を下しました。
しかし当の長吉は改心せず、すぐに盗賊稼業をはじめ、前以上の金額を盗み再び捕まってしまいます。これには流石の大岡も彼を一度軽い刑に処した手前、今度は極刑を言いわたさねばと将軍にその旨を書いた書類を提出し許可を求めました。ところが、将軍は認めのサインを書くことを忘れたらしく、長吉の書類のみ主筆がありませんでした。ですが、再度提出することは将軍に対して無礼にあたり、更に長吉の人相から陰徳の相が出いていた事から、もう一度彼を許す事にしました。しかし、二度長吉に軽い刑を言い渡した大岡はその後、実は自分の決断は実は彼を甘やかしているのではないのかと考えずにはいられなくなっていきます。

この作品では、〈自身の人相学が当たった事が嬉しいあまり、かえってその相手の人格を見誤ってしまった、ある奉行〉が描かれています。

上記にもあるように、長吉を一見した大岡は、自身が考えていた「顔色ハ白黒ヲ問ハズ眼中涼シクシテ、憂色ヲフクミ左頬ニヱクボアリ、アゴヤヤ長シ」という陰徳の相に彼がぴったりと当てはまっていた事、そして事実の上でも貧しい人々に「お金を与えていた」事から、その刑を軽くしました。恐らく、この時の彼は自身の人相が当たった事から、義賊としての長吉が全体に押し広げられて、それが彼の人格の全てとして見えたのでしょう。しかし彼は長吉が捕まった事で、もう一度自分の判断が正しかったのか否かを判断するチャンスを得る事になります。ところが、彼は「越前は、長吉の相にめでて、もう一度長吉をゆるしてやることを決心した。」、「越前は、じっと長吉の顔を見ていたが、彼の顔の隠徳の相は、いよいよハッキリと浮び上っているのである。」という箇所からも理解できるように、長吉に対する前回の判断の上に今回の判断を下そうとしています。そうして大岡は、ますます長吉の義賊としての側面を彼の人格全体に押し広げいき、第一回目とほぼ同じ決断を下したのでした。
ですが彼も物語の終わりに反省しているように、長吉は決して手放しで喜べるような善人ではありません。彼の行動というものは、裕福な人々からお金を「盗んだ」上に上記のそれが成り立っているのです。これは長吉自身も認めており、自分が「お金を与えた」事で助かった人もいるが、逆に「盗んだ」事で自殺した人間もいることを述べかけていました。また、この2つの行動は、長吉の「もって生れた性分で、理屈もわけもございません。のどがかわくと水がのみたくなるのと、同じでございます」という台詞や、一度は大岡の厚意もあったものの再び盗みを働いてしまった事からも理解できるように複雑に絡み合っています。ですから、これらに物語の最後で気がついた大岡は、自分の下した決断に自信が持てなくなり、長吉を甘やかしているのではと考えずにはいられなくなっていったのです。

2012年4月6日金曜日

父帰るー菊池寛(未完成)

〈あらすじ〉
ある日、黒田家に突然長年家を出ていた父が帰ってきます。そして何食わぬ顔で母や子供たちに話しかける父に対して、一同もそれに合わせています。ですが、長男の賢二郎だけは、父がいないために受けた苦労から彼に反抗し、自分たちの父は父の権利を放棄して出ていった。従って今目の前で父と名乗る人物は、父ではないので出ていくべきだと主張しています。これに対して、次男の新二郎は、それでも父は父ではないかと兄に反論します。ですが、この兄弟の言い合いを横で見ていた父は、やがて自ら家を去ることを決意していくのでした。


〈一般性〉
この作品では、〈同情の念が強すぎたあまりに、かえって父を家から追い出してしまったある兄弟〉が描かれています。

はじめは、次男の同情の念が父の心を動かし、自責し家を出ていく決意をしているのだと考えていました。ですが、(哀願するがごとく瞳を光らせながら)という箇所から、そうではなく、議論の末の諦めから家を出ることを決心したのであり、自分が考えていた一般性は間違いであったことに気づきます。

〈論証〉
この作品で積極的に物語を動かしている人物は、上で登場する長男の賢二郎、次男の新二郎、そしてその父の3人です。そして賢治郎と新二郎は父を彼らで面倒を見るのか否かで議論をはじめます。兄の賢二郎の主張では、父は父としての義務を放棄してこの家を出ていった。幾ら形の上では父とは言っても、それだけで何もしていない父は、果たして父と呼べるのかと、言わば父としての本質的なあり方と他の家族たちに問いただしています。これに対して次男の新二郎は、形だけでも父は父である。そして現在の父は一人で暮らすことは困難であり、誰かが面倒を見る必要があるのではないか、と、同情の念から形式的な父のあり方をここでは採用しようとしています。
では、一方の父はこの2人の議論をどのように見ていたのでしょうか。彼もまた、3日間家の敷居を跨ぐか否かで迷っているあたり、本質と形式との間で悩んでいた事が理解できます。本質的には父と呼べることは、家族に対して何一つしてあげられなかった。よって父と思われる視覚はない。しかし、年もとって生活にも苦労し、孤独を感じはじめた今、家族を頼る以外に他はない。そして、家族が自分を迎え入れる理由としては、形式的に自分が父であるという一点以外にないであろう。恐らく、彼は3日間家の前に立ってはこのような事を考えていたのでしょう。

上記で述べたように、自分の考えた一般性は間違ってはいるものの、2人の父の像からくる対立、及び父の心情がこの作品の一般性を引き出すヒントになると考えたので、この箇所は残しておきました。

2012年4月4日水曜日

ゼラール中尉ー菊池寛

フレロン要塞の砲兵士官であるゼラール中尉は、リエージェのちょっとした有名人で、彼を知らない者は町の人にはいませんでした。そしてその評判は悪くないものの、どういうわけか友人は一人もいませんでした。
欧州戦争がはじまる少し前、そんな彼が務めているフレロン要塞へ、ガスコアンという若い大尉が転任してきました。やがて、2人はすぐに打ち解けて親交を深めていきました。しかしガスコアン大尉もまた、それまでゼラール中尉と交際したことのある人々と同じく、次第に彼と距離を置くようになります。というのも、ゼラールにはある病的に近い性癖がありました。それは、彼はいかなる場合にも自分の意思を通そうとする、というものです。彼はその性質のために、大尉がキュラソーを食べたいと言ったにも拘らず、ポンチの方が美味しいと言って他の注文を受け付けず、またボルドーの葡萄酒を飲んだことがないにも拘らず、ベルギー産のそれの方が美味しいと主張しました。こうしたゼラールの態度にガスコアンも徐々に彼から離れていったのです。
そして欧州戦争がはじまった頃、2人はある意見の違いによって激しく議論します。それは、独軍はリエージェに侵入するか否かというものでした。ゼラールの主張では、フランスに侵入する進路として、リエージェ意外には考えられないというのです。ですが、ガスコアンの主張では、ベルギーは独軍と協約を結んでいるので、リエージュ侵入はありえないといいます。議論は平行線となり、最終的にどちらが正しいのか、時間を待つという結論に至ります。そして、その結果はゼラールに軍配があがります。ですが彼はこの勝負に勝った為に、ガスコアンに自分自身が敗者である事を証明してしまうことになります。

この作品では、〈勝負に勝ち、相手よりも優位に立とうとするあまり、かえってそうした自身の性質に負けなければならなかった、ある士官〉が描かれています。

上記のゼラールの病的な性癖の裏には、どうやら勝負に勝ち相手よりも優位に立ちたいという意思が強く働いているようです。この為に、彼は自分の主張は一切曲げず、自分の思い通りに他人を従わせました。ですが、彼は他人に勝とうとするあまり、実ははじめから自分自身に負けていたという事を今回の勝負で露呈してしまうことになります。
結果的に勝負に勝ったゼラールは、なんと国家の一大事であるにも拘らず、勝った喜びに酔いしれ、ガスコアンにリエージェは戦争に巻き込まれたぞと言うことで、止めを刺そうと考えはじめます。しかしその一方では、祖国のことも心配してはいました。ですが、彼は自分の気持ちをどうしても抑えられなかったのです。そして、彼のそうした気持ちの暴走(と言っても過言ではないでしょう)は留まらず、遂には敵の砲弾に被弾して助けに来てくれたガスコアンに対して、「ガスコアン君! 時は本当の審判者でないか」と嫌味を囁いてしいます。彼のこうした態度は、無論彼の意思によるものですが、ガスコアンも指摘しているように、いかなる有事よりも、自らの意思を優先してしまう彼は、果たして何に勝っていたというのでしょうか。確かに勝負には勝ったかもしれませんが、自分の意思を満足に律することも出来なかったという意味においては、その意思そのものにはじめから負けていたと言わざるを得ません。まさにその意思が強すぎたあまりに、彼はそれに振り回されなければならなかったのです。

2012年4月1日日曜日

小説家たらんとする青年に与うー菊池寛

この作品ではタイトルの通り、小説家を志す青年に対して著者がある規則を提案しています。
それは〈現実の世界への認識が浅い20代前半のうちは、小説を書くべきではない〉というものです。というのも、小説が現実の世界の事柄を材料にしている以上、人間の細やかな心情を理解したり、複雑な人間模様を捉えることの出来る眼力、そしてその眼力によって見てきたものを整理する能力のないうちは、小説を書いてもろくなものは出来ない、と彼は考えている様子。
確かに私達も恐らくはそうした人々によって書かれた、現実味に欠けている作品、或いは主張が今ひとつまとまっていない作品を駄作と称して再読することはないでしょう。ですから著者が、社会に出はじめの年代である、20代前半の青年たちにこうした訓戒めいた言葉を残しているのも納得できる話です。
では、私達は小説というものをどのように修練すべきなのでしょうか。この作品の著者の主張では、ただ現実の生活に目を向けてさえすれば、他の小説家達の作品を多く読んで学びさえすれば、自然と小説というものは書けるのであると主張しています。しかし、誰しもが持っている素朴な実感としては、物事は見るのと実際にやってみるのでは大きな違いがあります。小説もやはり同じで、評論家のように批判はできても一流の作家の様にリアリティある文章を綴る事ができるとは限りません。駄作は駄作なりに、一度書いてみる必要があるのではないでしょうか。そうして現実と自分の作品を比較することで、自分の作品に対して欠けているところが見つかることでしょう。また、著者の重視している現実の見方も、実際に書くことで新しい発見があるはずです。
確かに、現実の世界の見方がよく分かっていないであろう人物が描く作品というものは、駄作には変わりないでしょう。ですが、その駄作を実際に書き続けない限り、傑作を書く事はできません。駄作を書くということは、著者が指摘しているように無意味なことではなく、寧ろ傑作を書くという過程の上では寧ろ重要なことなのです。

俊寛ー菊池寛

治承(1177年から1180年までの期間の元号)2年9月23日のこと、謀反を起こしたために流罪にされてしまった康頼、成経、俊寛の3人は厳しい孤島生活で心も気力も叩きのめされていた頃、一隻の船が彼らの前に現れます。それは清盛からの赦免の使者である、丹左衛門尉基康(たんさえもんじょうもとやす)を乗せた船で、彼は流人の身となった3人を島から助けるためにやってきたのでした。3人は喜び声をあげますが、基康の持ってきた教書には、俊寛の名前は書かれていませんでした。これには俊寛も怒りを露にして使者を罵りましたが、そうしたところで事態は変わりません。結局、彼だけが島に取り残される事となったのです。
そして源氏の世となった頃、かつて俊寛のもとで雇われていた有王(ありおう)は、彼の最後を見届けるべく孤島に足を踏み入れます。ですが、既に故主は死んだと思っていた彼の予想は大きく外れ、俊寛は南蛮の女と契を交わし子を生み、浅ましい姿をして生きていました。こうした主の姿を見て有王は、俊寛は流人になった事で心までが畜生道におちたのだと考え、都に帰るように説得します。ですが、彼に首を縦には振らず、「俊寛を死んだものと世の人に思わすようにしてくれ」と有王に言うばかりでした。やがて有王は、彼とその家族を帰りの船から見ることとなりますが、はじめはその姿を浅ましいと思っていましたが、そのうちになんとも知れない熱い涙が、彼の頬を伝っていきました。

この作品では、〈現在の環境に適応するために俗世の価値観を捨てたことにより、人間としての逞しさを手に入れた、ある男〉が描かれています。

この作品を最後まで読んだ時、私達は有王の「最初はそれを獣か何かの一群のようにあさましいと思っていたが、そのうちになんとも知れない熱い涙が、自分の頬を伝っているのに気がついた。」という彼ら家族を船から見ていた時の感想に目を見張ることでしょう。彼はそれまで、かつての主人の姿、孤島で手に入れたものをただ浅ましいとばかり感じ嘆いていたのにも拘らず、何故「熱い涙」を流したのでしょうか。それは、孤島の中で手に入れたものの中心にいる主人、俊寛から生きる逞しさを垣間見たからではないでしょうか。
そもそも彼ははじめ流罪になった2人と同様、孤島での生活を嫌っており都に帰ることを羨望していました。またそうした思いから、孤島の環境に自らすすんで馴染もうとはせず、ただ都に帰れないことを嘆くばかりでした。つまり彼は今ある価値観が環境に適応しない為に、そこに馴染めずにいたという事になります。
しかし、清盛の使者に捨てられた事により、彼は都への思いをも捨てる事になります。というのも、一人取り残された彼は、船に向かって叫び、それを追いました。そのうち彼は昏倒し、激しい水の渇きを感じはじめます。しかし、あたりを探しても水は一滴もありません。やがて彼は激しい渇きと飢えの末、自殺をも考えはじめす。しかしたまたま近くにあった泉と椰子を発見し、犬のようにはいつくばって水をがぶがぶ飲み、椰子の実を貪るとそうした気持ちも忘れてしまいました。そして気持ちが少し落ち着くと、彼は空腹が満たされるにつれて、それまであった都での出来事に対する思い、また自殺への気持ちを忘れていった体験から、それらの事が浅ましいと思うようになっていきました。そして、彼は俗世への思いを断ち切り、またそうした習慣も捨て、孤島を真如となるための道場だと考え、そこに自らを適応させていきます。こうして彼は今ある環境を自分の価値観に合わせるのではなく、自分の価値観を今ある環境に合わせた事で、あらゆる環境に対応できる逞しさを手に入れていったのです。