2012年11月23日金曜日

人間レコードー夢野久作

 日本がまだ昭和の年号でロシアと不仲だった頃、その敵対国ロシアから日本に一部の国民を懐柔する目的で、人間レコードなるものが密かに送られてきました。人間レコードとは、各国の言葉に精通している外国人を雇い、特殊な方法を用いて文字通り言葉を記憶させる「もの」の事を指します。また記憶している本人は内容を一切知らず、自白も出来ないため、このように重要な情報をやり取りする際に用いられていました。
 しかしこのロシアの懐柔作戦は、とある日本の青年ボーイと少年ボーイの活躍によって阻止されてしまいます。そして、人間レコードとなったその人物は、ロシアの役人に売国奴として、「処分」されてしまうのでした。

 この作品では、〈同じ人間であるはずの人間レコードを、人間として扱わず、「もの」として見なしている不気味さ〉が描かれています。

 この作品は、一人の、或いは一つの人間レコードをめぐって進行していきます。そしてその中で私達は少なからず、このレコードを扱う人々に対して、人間を「もの」として扱っている事に対して、ある種の不気味さを感じる事でしょう。
 ですが、彼らはレコードを完全に「もの」として扱っている訳ではありません。例えば、ロシアの役人はレコードの内容が日本側に漏れてしまった事を知ると、レコードに対して、同じ人間として感情をぶつけている節(※1)があります。彼らとしても、「ナアニ。レコードを一枚壊したダケだよ。ハッハッハ」とはいうものの、レコードが「もの」なのか人間なのか、自分たちの中で定義しきれていないところがあるようです。しかしこの作品の中では、この問題が統一されることはなく、主人公と思われる少年ボーイと私たちの中に大きなしこりとして残り、それが更にレコードに対する不気味さを増しているのです。

注釈
1・この二枚の号外を応接室の椅子の中で事務員の手から受取った東京駐箚××大使は俄然として色を失った。やおらモーニングの巨体を起して眼の前の安楽椅子に旅行服のままかしこまっている弱々しい禿頭の老人の眼の前にその号外を突付けた。
 老人は受取って眼鏡をかけた。ショボショボと椅子の中に縮み込んで読み終ったが、キョトンとして巨大な大使の顔を見上げた。
 その顔を見下した××大使は見る見る鬼のような顔になった。イキナリ老人にピストルを突付けて威丈高になった。ハッキリとしたモスコー語で云った。
「どこかで喋舌ったナ。メッセージの内容を……」
 老人は椅子から飛上った。ピストルを持つ毛ムクジャラの大使の腕に両手で縋り付いて喚めいた。
「ト……飛んでもない。わ……私は人間レコードです。ど……どうしてメッセージの内容を……知っておりましょう」
「黙れ。知っていたに違いない。それを知らぬふりをして日本に売ったに違いない。タッタ一人残っている日本人の連絡係の名前と一緒に……」

2012年11月18日日曜日

月夜ー与謝野晶子

 父と兄を早くに亡くし家も貧しく、母だけに仕事をさせている事を心苦しく思っていたお幸(こう)は、高等学校を卒業してからは、友人の家で女中として働いていました。しかしその友人が女学校に進学してからというもの、意地の悪い他の女中からご飯を食べさせて貰えずに働く毎日を送っていました。そしてお幸はその事を家族の誰にも告げず、ただ堪えるばかりでした。ですが、やがてそうした暮らしにも嫌気がさし、郵便配達見習募集の張り紙を見たことをきっかけに、彼女は職業というものを今一度考えはじめます。そして人のために何か役に立つことをしたいという思いから、次第に転職を考えるようになっていくのでした。
 そんな事を考えて帰っていた月夜のこと、お幸と同じ家で働く音作(おとさく)が職場での彼女の待遇を彼女の弟に話した事で、家族に彼女が他の女中にいじめられている事がばれてしまいます。そしてお幸はそれをきっかけに、自分が郵便配達見習に転職しようと考えている事を母や弟に話しました。しかし彼女は、そこで母の農業へ向ける思いを聞いた途端、百姓になることを決意していきます。そしてそこから親子で農業をすることを夢見た3人は、幸福に包まれていくのでした。

 この作品では、(母への思いが強かった故に、自分の問題意識を捨てたある少女)が描かれています。

 この作品において、お幸の心情が大きく変化している箇所が下記にあたります。

「お幸は百姓をどう思ふの。」
「まだそれは考へません。」
「それを考へないことがあるものですか。母様が若し間違つたことをして居たらおまへは注意をしてくれなければならないぢやないの。母様のして居ることは百姓ですよ。私は世の中へ迷惑をかけないで暮して行くと云ふことが世の中の為めだと思つて居るよ。自身で食べる物を作つて私は自分やおまへ達の着物を織つて居ます。自分の出来ないものは仕事の賃金に代へて貰つて来ると云ふこの暮しやうが私には先づ一番間違ひのない暮しやうだと思つて居るよ。」

 この母の言葉を聞くまでの彼女は、女中にいじめられていた事をきっかけに、何か世の中の為になる仕事はないのか、という問題意識を持っていました。そして母は、上記で人様に迷惑をかけないで生きていくには、という問題意識から、百姓という仕事について論じています。ところが、お幸は自分が持っていた意見と相反するものにも拘わらず、母のこうした持論を聞くと、その後すぐに百姓をしたいと言い出しました。一体何故彼女は、それまでの問題意識を捨て、母の意見を採用したのでしょうか。
 そもそも彼女がこうした問題意識を持ったのは、女中が社会の人々の為になる仕事だと思えないから、ではなく、女中から郵便配達見習に転職したかったからに他なりません。つまり彼女の問題意識というものは、転職する口実を自分の中につくる手段でしかなかったのです。
 ですが彼女は母の話を聞き、今一度職業というものを冷静に考えはじめます。そして、もともと母だけに仕事をさせている事を心苦しく思い助けたいという目的から、女中をしていたお幸は母の言葉を全て採用し、転職の口実としていた自分の問題意識をあっさりと切り捨てます。彼女にとって最も大切だったものは、仕事やそうした社会に対する思想ではなく、純粋な母への思いだったのです。またそうした思いは、母や弟もそれぞれにあります。ですから彼女たちは物語のラストでそれを共有し、幸福に包まれる事ができたのです。

2012年11月14日水曜日

千代女ー太宰治

 和子の日常は、叔父が彼女の綴方を文芸誌、「青い鳥」に投稿し一等を当選した事で一変してしまいます。母や学校の先生からは期待するような眼差しで見られ、仲の良かった友達は彼女を遠ざけるようになりました。そして和子の方では、そうした周りの人々の変化に反抗するように、文章を頑として書きませんでした。
 ですが周りの期待の目があまりにも大きかった為に、彼女は徐々に自分の運命を受け入れていき、やがてその為に苦しまなければいけなくなっていくのです。

 この作品では、〈自分が考える自分と、周囲が考える自分との葛藤の末、自分が分からなくなっていったある少女〉が描かれています。

 この作品の中で和子が悩んでいる問題とは、言うまでもなく、文芸誌に彼女の作品が掲載されてしまった事で、彼女が考える「自分の像」と彼女の周りの人々が考える、「彼女の像」とに大きな隔たりができてしまったというところにあります。というのも、それまで平凡に暮らしてきた和子は、自分の作品が掲載された後でも、あくまでそれまでの「平凡な自分」(※1)でしかありません。ところが、周りの人々は彼女の作品が文芸誌に載った事で、和子を「平凡な和子」としてではなく、「文才のある和子」(※2)として見るようになっていったのです。そして彼女は、自分がはじめから持っている「平凡な彼女」と、この人々がつくりあげた、「文才ある彼女」との間で苦しんでいます。
 ところがこの彼女の苦しみは、物語の終盤以降から徐々に変化を見せはじめます。和子は人々が自分に文章を書くことをすすめる中で、それを拒みながらも、やがてそうした意思に負ける形で、人々のそうした意思を受け入れていきました(※3)。
 ですが、この作品の最大の悲劇は、そうしてこれまで和子に文章をすすめていた人々が、彼女に対する印象を再び変えてしまっていったところにあります。人々は、彼女が文章を書くことを拒んでいる間に、冷静に彼女の文章と向き合うようになっていきました。そして改めて、彼女を「平凡な少女」として見るようになっていったのです。(※4)しかし、和子本人はこうした変化をどう見ているでしょうか。嘗ては自分を苦しめていた、人々の中の「文才ある自分」は確かに消えつつあります。ところが彼女自身、現在は本当はそうありたかった「平凡な自分」を諦め、そうありたくなかった「文才ある自分」の存在を受け入れてしまったので、再び「自分が考える自分」と「他人が考える自分」との間で、それまで以上に苦しまなければならなくなっていきます。
 こうして彼女は、自分は平凡な自分として生きれば良いのか、文才がある自分として振る舞えば良いのか分からず、気の狂う思いをしなければならなくなっていったのです。

※注釈

1・私はそれを読んで淋しい気持になりました。先生が、私にだまされているのだ、と思いました。岩見先生のほうが、私よりも、ずっと心の美しい、単純なおかた だと思いました。

私は息がくるしくなって、眼のさきがもやもや暗く、自分のからだが石になって行 くような、おそろしい気持が致しました。こんなに、ほめられても、私にはその値打が無いのがわかっていましたから、この後、下手な綴方を書いて、みんなに笑われたら、どんなに恥ずかしく、つらい事だろうと、その事ばかりが心配で、生きている気もしませんでした。

2・それから、また学校では、受持の沢田先生が、綴方のお時間にあの雑誌を教室に持って来て、私の「春日町」の全文を、黒板に書き写し、ひど く興奮なされて、一時間、叱り飛ばすような声で私を、ほめて下さいました。

それまで一ばん仲の良かった安藤さんさえ、私を一葉さんだの、紫式部さまだのと意地のわるい、あざけるような口調で呼んで、ついと私から逃げて行き、それまであんなにきらっていた奈良さんや今井さんのグルウプに飛び込んで、遠くから私のほうをちらちら見ては何やら囁き合い、そのうちに、わあいと、みんな一緒に声を合せて、げびた囃しかたを致します。

3・柏木の叔父さんだけは、醒めるどころか、こんどは、いよいよ本気に和子を小説家にしようと決心した、とか真顔でおっしゃって、和子は結局は、小説家になる より他に仕様のない女なのだ、こんなに、へんに頭のいい子は、とても、ふつうのお嫁さんにはなれない、すべてをあきらめて、芸術の道に精進するより他は無いんだ等と、父の留守の時には、大声で私と母に言って聞かせるのでした。(中略)今は、その叔父さんの悪魔のような予言を、死ぬほど強く憎んでいながら、或いはそうかも知れぬと心の隅で、こっそり肯定しているところもあるのです。

4・先日も私は、こっそり筆ならしに、眠り箱という題で、たわいもない或る夜の出来事を手帖に書いて、叔父さんに読んでもらったのでした。すると叔父さんは、 それを半分も読まずに手帖を投げ出し、和子、もういい加減に、女流作家はあきらめるのだね、と興醒めた、まじめな顔をして言いました。

2012年11月5日月曜日

セロ弾きのゴーシュー宮沢賢治

 ゴーシュは町の活動写真館の楽団でセロを弾いていましたが、その中でも演奏は一番下手で、いつも学長に叱られていました。 そんな彼がある夜中にセロを熱心に弾いていた時、一匹の三毛猫が彼の家を訪れます。猫はゴーシュの演奏を聞きに来て「あげた」ので、弾いて欲しいと言うのです。そこでゴーシュは家中の窓を閉め切り、自分は耳栓をして、「印度(インド)の虎狩」という曲を嵐のような勢いで弾きはじめました。それは猫も思わず扉の方へ飛び退く程の騒音でした。そうしてゴーシュは猫を散々いじめた挙句、家から追い出しました。
 ですが次の日の夜、ゴーシュのもとにまた別の動物がやってきました。それはカッコウで、この鳥は自分にドレミファを教えて「欲しい」というのです。そこでゴーシュは仕方なく、少しの間だけ付き合うことにしました。しかし、はじめの申し出とはあべこべに、カッコウはゴーシュのドレミファに対して指摘をはじめます。またゴーシュの方でも、自分よりもカッコウの方が音程が合っているような気がしてきました。そしてそう考えていくうちに腹立たしくなったゴーシュは、癇癪を起こしてカッコウを追い出してしまったのでした。
 その次の日、今度は狸の子供がゴーシュに音楽を習いにきます。そこでゴーシュは、はじめは例によって追いだそうとしました。しかし演奏を一緒にはじめてみると、狸の子供は小太鼓を叩いていたのですが、その演奏がなかなか上手でついつい楽しくなっていきます。そしてその夜は朝がくるまで、狸の子共と演奏しました。
 こうして、ゴーシュは動物たちと触れ合う中で、自分では知らず知らずのうちにセロの腕を上げていく事になるのです。

 この作品では、〈動物たちに音楽を教えていく事で、かえって自らと向き合い、その実力を高めていったある男〉が描かれています。

 結論から言えば、ゴーシュは動物たちと音楽を通して触れ合っていく中で、技術を磨き、最終的には自分の楽団の演奏会で活躍する事が出来たのです。そこで、ここではゴーシュが具体的に、どのようにして自らの技術を高めていったのか、彼と動物たちとの触れ合いを軸にして見ていきましょう。
 そもそも、彼ははじめ動物たちと触れ合う事に関して、どういうわけか嫌悪感を感じていました。そして動物たちの方でも、どういうわけか、ゴーシュに音楽を教えたがっている様子でした。ですから、はじめの三毛猫とのやりとりでは、そうした両者の「対立した」気持ちが見事に反発する形で表れています。つまり、三毛猫はゴーシュに音楽を教えたくって教えたくってたまらない(※1)のに対して、ゴーシュ本人は関わりたくなて関わりたくなくてたまらない(※2)。だから彼は、酷い演奏を猫に聞かせていじめた挙句に、追い出してしまったのです。
 そして次の夜にはカッコウがきました。カッコウは三毛猫とは違い、形の上ではゴーシュに音楽を教えてもらう、という方法で彼に音楽を教えようとしました。そしてこの作戦は成功の兆しを見せます。演奏をしていくうちに、ゴーシュは自分よりもカッコウの方が音程が合っているのではないか、と考えていくようになっていきます。
 ですが、ここでカッコウにとって、予期せぬ出来事が起こります。なんとゴーシュは途中で演奏をやめて、カッコウを怒鳴りはじめたではありませんか。そして怒鳴った彼に驚いたカッコウは、硝子へ激しく頭を何度もぶつけはじめます。流石にこのカッコウの様子を見かねた彼は、硝子を割って逃がしてやりました。しかし、一体何故彼はいきなりカッコウを怒鳴ってしまったのでしょうか。実は、この時点では、彼は自分の技術とまともに向き合だけの実力がなかったのです。仮にも音楽を教えている彼にとって、動物を見下している彼にとって、カッコウが自分よりも技術が下でなければ困ります。そこで彼は癇癪を起こし、カッコウを追い出してしまったのです。
 しかし、このカッコウの為に破った窓が、後に彼の内面を大きく変えていくことになります。というのも、彼は度々作中で壊れた窓を気にしています(※3)。彼は壊れた窓を見る度に、恐らく、自分の実力を認める事のできない未熟な自分を見ていたのでしょう。やがて、そうして窓を見ていく中で、そうした自分と向き合う心をつくり、それが動物たちとの触れ合いにも影響を与えていったのです。
 現に次の夜、狸の子供がゴーシュを訪ねてきた時、はじめはやはり追いだそうとしたものの、狸の子供の実力を認め、更に狸の子供から指摘されても素直に受け入れていました。
 更にその次の夜には、病に苦しんでいる野ねずみの子供の為に演奏し、更にはパンまで与えてやりました。
 そうして動物たちと暮らしていき、自分の楽団の演奏会を迎えた彼は、学長や他の楽団員達の信頼を勝ち取ります。そしてその夜、彼は再び例の窓から遠くの空を眺めながら、「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と言いました。この台詞こそが、彼が動物達と触れ合う中で、壊れた窓を度々見る中で、自分の技術と向き合う実力を身につけ、磨いていった何よりの証拠なのです。だからこそ、この作品の最後の一文であるこの台詞は、私達に強い印象を与えているのです。

2012年11月4日日曜日

真珠の首飾りーークリスマスの物語ーーレスコーフ

 ある教養ある家庭で、友人たちが文学談をしていました。やがてその中のある男は、自分の弟にまつわる、クリスマスをテーマにした美談を話しはじめるのでした。

 3年前のクリスマス、弟は休暇を利用して兄(語り手)のうちに泊まりにきていました。そこで彼は突然、猛烈な剣幕で、独り身に堪えられなくなったので、自分に嫁を世話してくれないか、と申し出てきました。その為兄嫁は、頭のいい、気立ての立派な娘であるマーシェンカを早速彼に紹介しました。ところが兄はそれに異を唱えます。彼曰く、彼女の父は、お金に関しては世間の人々が噂する程の曲者で、弟も一杯食わされるに違いないない、というのです。これに対して兄嫁は、結婚する事にお金などは問題ない、と真っ向から対立してきました。2人の意見は平行線をたどるばかりですが、それに反して弟とマーシェンカの準備は着々と進んでいってしまいます。
 そして結婚式の当日、マーシェンカの父は彼女に立派な真珠の首飾りを送りました。ですが、真珠は結婚式の贈り物としては縁起の悪いものだったので、マーシェンカは泣き、兄嫁は彼女の父に抗議しました。しかし父の言い分では、それは迷信であり、尚且つこれを送ったのには理由あるというのです。そしてその理由は、翌日の彼自身の手紙によって明らかになりました。その手紙によると、真珠は偽物で心配することはないといった事が書かれていたのです。これには兄嫁も呆れてしまいました。ですが、弟の方はその手紙を受け取って痛快な様子。一体何故彼は、この手紙を受け取ってそう思ったのでしょうか。

 この作品では、〈お金は家庭にとって、常に価値のあるものとは限らない〉ということが描かれています。

 上記の疑問に答える為には、この物語に登場する人々のお金に対する価値観を見なおしていく必要があります。何故ならば登場人物たちは、「弟とマーシェンカに良い家庭を築かせるには」という共通の問題意識を持ちながらも、それに対するお金の位置付けにおいて、桜梅桃李の意見を持っており、それがこの問題を解く鍵になっているからです。
 そしてこの問題に対して、はじめに物申したのは兄でした。彼は弟達の結婚に関して、「あの親父と来たら、上の二人の娘を嫁にやるとき、婿さんを二人とも一杯くわせて、びた一文つけてやらなかったんだぜ。――マーシャにだって、一文もよこさないに決まってるよ。」、「マーシェンカにはびた一文よこすまいってことさ、――困るというのは、つまりそこだよ。」等と言っていました。
 そして、これに対して意見したしたのは兄嫁です。彼女は、幸せな家庭が築けるのかと、彼女の父からお金が貰えるのかは全く別の問題である、と反論しました。しかし、いざマーシェンカの父が娘に偽物の真珠を送ったことを知ると、「ちぇっ、ひどい奴!」と避難していました。
 上記から彼らに共通して言えるのは、兄達夫婦は家庭とお金に何らかの関係性を認めており、必要不可欠なものである、と考えていたということです。ですから兄は、弟夫婦にお金が彼女の父から渡らない事を予想できたからこそ、黙ってはいられず、兄嫁は、真珠に値打ちがない事を知ると避難せずにはいられなかったのです。
 しかし弟の方はどうでしょうか。彼が真珠が偽物と分かり痛快だと言っているところを察すに、彼は家庭とお金との関係性を切り離して考えているのです。ですから真珠が偽物だと知った時、弟は騙されたという気持ちはなく、何故贈り物として縁起の悪いはずの真珠を娘に送ったのか、という疑問と不安を抱いていたそれまでの自分を、笑わずにはいられませんでした。
 では弟は家庭において、お金というのもをどのように考えていたのでしょうか。それは彼の腹の中を知った、マーシェンカの父とのやりとりの中で見えてくるはずです。彼の気持ちを知った父は感激のあまり、夫婦に大金を渡そうとします。ですが、金銭のトラブルのために父とうまくいっていないマーシェンカの姉夫婦達の姉の事を考えると、弟は彼女たちと自分が今度はトラブルになることを恐れました。そこで彼は3つの過程を円満に取り持つ手段として、大金を姉夫婦達と3等分して受け取る事を提案してきます。ここから彼は、お金というものは家庭において、それを保つ手段のひとつでしかない、と考えている事が理解できます。
 そして、これまで自分の家庭のためにお金に執着していた人々を憎み、それをこらしめる手段として、お金を使い自分を守っていたマーシェンカの父だからこそ、弟のお金の使い方に感心し、心から娘の結婚を祝うようになっていったのです。