2012年1月28日土曜日

竹青ー太宰治

昔湖南の何とやら郡邑に、魚容という名の貧書生がいました。彼は容姿端麗で育ちもいやしくなく書を好んでいましたが、ただその境遇には恵まれませんでした。早くに父母と離別し、その後親戚の家々のお荷物となり、挙句の果てに酒ぐらいの叔父の言いつけによって、痩せこけた無学の下婢(かひ)と夫婦になってしまいます。しかし、この妻は魚容の学問を頭から軽蔑して、彼に酷い仕打ちを与えました。
やがてこうした生活に嫌気がさした魚容は、「よし、ここは、一奮発して、大いなる声名を得なければならぬ」と決心し家を飛び出して郷試を受けるもあえなく落第。途方に暮れる彼は、次第に空飛ぶ烏の大群を見て、「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ。」と憧れを抱きはじめます。その時、彼の前に黒衣の男が現れます。男は「呉王」の使いとして彼の前に現れ、烏の群れが一羽空いているのでそこに彼を加えようというのです。こうして魚容は烏となって、人間の人生とは別の人生を体験します。その中で彼は竹青という、一羽の美しい烏と出会います。彼女は人間の世界の妻とは違い、彼に献身的に尽くします。
ですが、そんな幸せな時間も突如、終わりを迎えます。なんと魚容は人間のある兵士に矢で胸を貫かれてしまいます。そして、次に目が覚めた時には、もとの人間の姿に戻っていました。人間に戻った彼は竹青のことを思いながら、しぶしぶ故郷へと帰っていきました。ですが、身辺の者から受ける蔑視に耐えかね、再び家出します。そして再び郷試を受けるもやはり落第。最早、生きる気力を失った彼は竹青を求め、彼女と出会った湖畔へと向かい、再会を果たそうとします。その彼の願いは叶い、彼女は彼の前に現れます。彼女は現在漢陽で暮らしており、彼にもそこで
暮らすようすすめはじめます。最初は拒んでいた彼も、彼女の説得によって、そこで暮らすことを決心します。
しかし、彼はそこで理想的な生活を送れたにも拘らず、それを自らの発言によって台なしにしてしまいます。なんと彼は彼女の前で、「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、いちど見せたいなあ。」と人間の世界に未練があるような事を言ってしまったのです。そして魚容のこの言葉を聞いた時、竹青は自分の正体と目的を彼に告げます。彼女はなんと女神であり、「呉王」の命によって彼が本当に獣の世界に対して幸福感を感じ、人間の世界を忘れていくのかを審査していたというのです。そして、もしそうであるならば、彼女の口からは言えない恐ろしい仕打ちが待っていたというのです。ですが、彼はそうはならなかった為、人間の世界へと無事帰る事ができました。
そして、魚容が人間の世界に帰ってきた時、彼の妻は熱を出したことをきっかけに、どういうわけか竹青と同じ容姿になっており、改心して夫を慕うようになっていました。そして彼らはご親戚からは敬われることはなくとも、ごく平凡に日々を過ごしていきました。
この作品では、〈現実を意識すればする程、かえって理想に逃げこまなければならなかった、ある書生〉が描かれています。
まず、この作品での魚容の失敗とは、彼に正体を晒した竹青によって、下記のように指摘されています。

人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍 んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒(てら)うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。

では、彼女のこの指摘は、具体的に彼のどのような性質を述べているのでしょうか。もともと不幸な境遇に恵まれず、学問が好きな魚容は、周りの人々の蔑視に耐えかねた為に、妻を殴って郷試を受けにいきました。そして、烏の世界から現実に戻った後も、同じ理由で郷試を受けています。さて、その時の彼の心情としては、一体どのような思いがあったのでしょうか。「いつまでもこのような惨めな暮しを続けていては、わが立派な祖先に対しても申しわけが無い。乃公もそろそろ三十、而立の秋だ。よし、ここは、一奮発して、大いなる声名を得なければならぬ」この言葉には、無論、彼の俗世間の人々が思っている自分と現実の自分とは別であったという事を証明してやろうという思いが隠れています。しかし、それと同時に彼はそれを証明することによって、世間の人々に認めてもらいたいという気持ちもあったのでしょう。そうでなければ物語の終盤で、彼の一番身近な、世間的な人物である妻に対して、「くにの女房にも、いちど見せたいなあ。」などと思う事もなかったはずです。ここから、彼にとっての学問とは、自分を周囲に認めてもらうためのだったのだと言って良いでしょう。
しかし、この様に述べてると、上記の竹青の指摘が的を外れているように感じるかもしれません。ですが、あながちそうでもありません。何故なら、彼はそうした思いを抱きながらも、現実の世間の人々の目に耐えかねた為に、そこから逃げ出し郷試を受けに行ったのですから。そして、郷試に失敗したら失敗したで絶望し、今度は烏の世界を羨望し、そこに逃げ込んでしまったのです。こうした彼の性質を彼女は卑怯だと指摘しているのです。
確かに人々に認められたかった彼にとって、彼らの目というものは非常に耐えがたかったものに違いありません。ですが、だからと言って、そうした現実に向き合わず理想を追いかけてしまったところに彼の失敗はあったのです。

2012年1月24日火曜日

風ばかー豊島与志雄

ある日、子供たちは学校の先生から、人間の体は右と左では全く同じ形をしておらず、微妙な違いがあり、そのため目かくしをして歩くとまっすぐ歩くことができないのだという話を聞きました。ですが、この話をにわかには信じられなかった子供達は、早速野原に向かい、自分たちの体で実際にまっすぐ歩けるかどうかを試してみました。すると、やはり先生が言っていたように、なかなかまっすぐには歩くことはできません。そうしているうちに、子供たちの素朴だった疑問は、次第に誰がまっすぐ歩くことができるのかという競争心へと移り変わっていきます。そんな中、ただ一人、マサちゃんという男の子は見事まっすぐ歩くことに成功しました。これを見ていた他の子供達はまさちゃんに負けじと、彼に教わりながらまっすぐ歩く練習をはじめました。ところが、そんな彼も他の子供達にお手本を見せる為、もう一度歩いてみると、少し曲ってしまいました。マサちゃんはこれを横から吹く風のせいだと考え、「風にまけてなるものか。」と諦めず挑戦します。そうしているうちに、マサちゃんの耳には、彼を邪魔する風の音が「ばかー、ばかー」と聞こえるようになっていきます。はじめは彼もそんな事を気にはとめていませんでしたが、遂に我慢できなくなり、自らも「ばかー、ばかー」と、怒鳴りはじめてしまいます。この彼の異常な行動を心配しはじめた他の子供達は、彼を引きとめて家へと連れ帰りました。
こうして家に帰ったマサちゃんは、お父さんとお母さんに今日の出来事を話して聞かせました。すると、お父さんは笑いながら、「風は息なんだよ」と自然にある風に立ち向かうことへの馬鹿らしさを彼に話しました。そしてそんなお父さんに続くように、マサちゃんも息をついてさーッさーッと吹く風をみて「ばかな風だと」とばればれと笑いました。
この作品では、〈自然にある風を精神が宿った生き物のように考えている、子供の瑞々しい感性〉が描かえています。
この作品の終盤で、マサちゃんとお父さんは風とはどういうものなのかについて話し合い、それに立ち向かっていくことへの馬鹿らしさについて話していますが、2人の風に対する解釈が大きく違っている事に注目しなければなりません。では、この時の2人のやりとりを軸にして、具体的にどのようなところが違うのかを見ていきましょう。
まず、お父さんの方では、「風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。」、「空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」等という言葉から察するあたり、風というものはただ自然にそこに存在しているものであり、自然現象に過ぎないのだということを説明しているのでしょう。ですから、彼は我が子が風に対して、まるで同じ精神をもった生物のように考え、勝負を挑んでいたことそのものに対して笑っていたことになります。
しかし、一方マサちゃんの方ではどうだったのでしょうか。彼は、そうしたお父さんの話を聞いて、その後も尚、「ばかな風だな」と風を生物のように扱っているではありませんか。すると、彼はお父さんの話を一体どのように受け止め、風に対して馬鹿だと言っているのでしょうか。彼はお父さんの「空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」を聴いて納得しているあたり、どうやら風は自分の意思で動いている訳ではないというところまでは理解していたようです。ところが、もともと風に精神が宿っていると考えている彼は、その考え事態を捨てきることは出来ず、恐らく風というものは自分から自由に吹いているのではなく、自分が息をして風をおこすように何者かによって息として吐かれ、自分の意思とは関係なく吹いているのだと考えたのでしょう。そして彼は、そうして自分の意思ではなく、誰かによって動かせれている風に対して、馬鹿だと言い、はればれと笑っていたのです。

2012年1月13日金曜日

喫煙癖ー佐左木俊郎

月寒行きの場所の上に、みすぼらしい身なりの爺さんと婆さんが向い合って座っていました。やがて2人は、爺さんが吸っていた煙草の煙が婆さんの顔にかかったことをきっかけに会話をはじめます。そして会話は自然と、爺さんが札幌に住んでいた頃の話題になっていきました。彼はそこで十五六の時から、鉄道の方の、機関庫で働いており、煙草を買いはじめたのもこの頃からだというのです。そして、それを買いはじめたきっかけは、そこの停車場に出来た売で働いていた娘の顔を見るためだったというのです。そして、あれから35、6年経った今でも、爺さんは煙草を吸う旅に当時の娘を思い出すといいます。
一方これを聞いていた婆さんですが、実はその娘というのはなんと自分だと爺さんに名乗り、指にはめた真鍮の指輪を彼に見せました。それは当時彼が機関車のパイプを切ってこしらえたもので、彼女もまたこれを見る度、当時の爺さんを思い出していたというのです。こうして奇跡の再会を果たした二人は、現在お茶屋をしている婆さんが爺さんに自分の店でお茶を入れる約束をしながら、月寒に向かっていくのでした。
この作品では、〈時間と体験は物理的には繋がりを持ちながらも、認識の上では独立している〉ということが描かれています。
まず、この作品における感動とは、言うまでもなく、2人の男女が35、6年の時を経た今でもお互いを思い続け、奇跡の再会を果たした、というところにあります。というのも、私達には一見、長年誰かを思い続け、更には再会を果たすことが困難な事に思えるからこそ、こうした二人の再会が心を温めてくれるのです。しかし、そもそも何故2人は長年、互いを思い続ける事が出来たのでしょうか。30年以上も時が経ってしまえば、お互いの事なんか忘れて、再び出会っても気づかなくてもおかしくはないはずです。ですが、この2人がそうならなかったのは、それぞれが当時の体験を呼び起こせるものを持っていた、という点にあります。それが煙草と指輪なのです。事実物語の中でも、爺さんの方は、煙草を吸う度に自分に煙草を売ってくれた婆さん(当時の娘の姿)を思い出し、一方婆さんの方は、指輪を眺める度、自分にそれを渡してくれた爺さん(当時の青年だったであろう姿)を思い出していたとそれぞれが語っています。
確かに彼らが出会い同じ時を過ごしたのは、30数年前のほんの一瞬の出来事だったことでしょう。しかし、彼らがその体験を昨日の事の様に覚えておけたのは、毎日お互いの事を思い浮かべる術、或いは装置を持っていたからにほかなりません。ですから、時間としては30数年経ち、恐らく顔にも皺ができ、髪も白く染まってきた姿で再会しても、2人はちゃんとお互いの事が理解でき、当時の事を昨日の事のように会話する事が出来たのです。

2012年1月11日水曜日

納豆合戦ー菊池寛

著者が十一歳のある時、彼の悪友である吉公は納豆屋の盲目のお婆さんから、2銭の納豆を1銭だと言い張って騙し買ってしまいます。その後、彼はその納豆を学校へ持って行き、それを鉄砲玉にして納豆合戦を行いました。そしてこの遊びの面白さの味をしめた著者たちは、その日以来、お婆さんをこうして騙し続けていきます。
ところがある日、吉公がいつものようにお婆さんを騙そうとしている最中、その現場をお巡りさんに見つかってしまいます。そして吉公が見つかった事で、自分たちの身の危険を感じた著者たちは、いっぺんにわっと泣き出してしまいました。すると、そんな私たちの姿を可哀想に思ったお婆さんは、お巡りさんをとめて著者たちを助けてあげました。こうしてお婆さんに助けられた著者は、「穴の中へでも、這入りたいような恥しさと、悪いことをしたという後悔」とを感じながら、この事件以来お婆さんの納豆を買うようになっていきました。
この作品では、〈自身の立場に関係なく、他人の立場になって考える事のできるある老婆の姿〉が描かれています。
この作品の中での大きな変化は、著者を含めた子供たちの心にあります。しして、その変化には納豆を騙し買われていたお婆さんの存在が大きく関わっています。では、物語の中での彼らの立場を整理しながら、具体的に彼らはお婆さんのどういうところを見て大きく変化していったのかを見ていきましょう。
まず、著者たちが納豆合戦する為にお婆さんから納豆を買っていた時、彼らの中で彼女は騙す対象であり、「「一銭のだい!」と吉公は叱るように言いました。」という一文からも理解できるように、彼らの世界では非常に弱い立場にありました。そして、お婆さんはお婆さんで、自分が盲目であることから子供たちを叱ることもできず、ただ騙されるしかありませんでした。
しかし、物語の途中、お巡りさんという第三者が介入することにより、この立場の均衡は大きく崩れてしまいます。彼はお婆さんを護るべく子供たちをこらしめようとしているのですから、当然子供たちの世界では自分たちよりも立場が強い存在という事になります。そしてこのお巡りさんに守られているお婆さん自身も、一時的にではあるでしょうが、子供たちよりも強い立場に立ったことになります。ですが、このお婆さんは子供たちの様に自分たちよりも弱い立場の者をいじめたり、或いはお巡りさんのようにこらしめたりする心を一切持っていません。彼女は自分が騙されていたにも拘らず、子供たちを可哀想だからと助けようとしているではありませんか。そして、このお婆さんの態度は、著者たちの内面に大きな影響を与えることとなります。彼はお婆さんの自身の立場が変わっても、また自分が騙されていたと分かっても、自分たちを哀れんで助けてくれたその行動を見て、立場の弱いお婆さんを騙していたにも拘らず、彼女に助けられた事への恥ずかしさ、またその事への後悔を感じずにはいられまくなっていきます。だからこそ、彼はそれらを反省し、お婆さんのために納豆を買うようになっていったのです。

2012年1月6日金曜日

越年ー岡本かの子

ある年末、少し気弱な女性社員の加奈江は、突然同じ会社の男性社員である堂島から訳も分からないまま頬を撲られてしまいます。そして怒りを感じた彼女は、次の日に自身の上司にこの事を話し、こらしめようと考えました。ですが上司の話では、なんと彼は加奈江を撲ったその日に既に退社しているというのです。そこで彼女は同僚の朋子と共に、堂島の同僚から、彼がよく現れるという通りを聞き出し、彼の捜索をはじめます。やがてその年は過ぎ去り、新しい年を迎えた時、彼女達は遂に堂島を発見し、彼を撲ることで自身の仇討ちを果すことに成功しました。
その数日後、彼女は堂島らしき自分物から、一通の手紙を貰います。そこには、彼女がそれまで予想もしていなかった、何故堂島は彼女を撲らなければならないのかが書かれてありました。なんと彼は、実は以前から加奈江に対して好意をもっており、会社を辞めた後、彼女に会えなくなることを割り切れずにいました。ですが、その気持ちをどう表現して良いのか分からず、自分の事を忘れさせないために敢えて彼女を撲ったというのです。この手紙を読んだ彼女は、堂島の強い思いに心奪われ、再び堂島を探しはじめました。ですが、彼とはそれっきり会えないままとなってしまいました。
この作品では〈表現の中身は、常に同じだとは限らない〉ということが描かれています。
さて、上記の一般性を考えるにあたって、何故加奈江は堂島を撲ったのか、というごく当たり前とも思えるような疑問から考えていきましょう。まず、彼女は堂島に撲られた時、取り敢えずは撲られなければいけない理由を探してはいます。しかし、そうした理由は思いつきませんでした。そこで彼女は、撲るということは、堂島がそれなりの怒りを何かに感じたはずであり、又自分がその非を自身に見つけられなかったということは、恐らく些細な出来事で怒りを感じているのではないか、という考えに至り、彼を非難せずにはいられなくなっていったのでしょう。言わば彼女は、撲るという表現を自分の、常識の範囲の中で考えていたのです。ですから、彼女は表現としては堂島が自分を撲ったように、自分もまた彼に対して怒りをもって頬を叩かずにはいられなかったのです。
ですが、堂島の場合、怒りの為に彼女を撲ったのではありません。上記にもあるように、彼のそうした表現は、あくまでも彼女への愛情からのものなのですから。言わば、彼は彼女を撲ってでも、彼女に思われたかったのです。そして、こうした表現の仕方は、これまで自分の範囲の中でしか撲るという事を考えていなかった加奈江にとっては、非常に強烈なものであり、堂島を追わずにはいられなくなっていったのです。