2012年5月31日木曜日

センツアマニーマクシム・ゴルキイ(未完成)

◯あらすじ

 ある時カプリ島の波打ち際にて、一人の若い兵卒と年老いた漁師が話をしていました。彼らはどうやら色恋について話しているようで、漁師曰く現在の若者は女性をもっと大切にしていたというのです。しかし、これには若い兵卒は今も昔も同じ事だと言い全く納得していない様子。そこで彼はSenzamani と云ふ一族の人々の例を持ちだして、いかに彼らが現在の若者よりも女性を大切にしていたのかを兵卒に聞かせはじめました。
 一族の中のお金持ちであるカリアリスの息子、カルロネは貧乏な鍛冶屋の娘、ユリアに惚れていました。しかし様々な邪魔が入り、中々結婚までは至りませんでした。そこで、ユリアに好意をよせるもう一人の男、アリスチドはその隙を狙い彼女を奪おうとしました。彼は巧みに村の人々を騙し、あたかも自分がユリアと愛し合っているかのように思わせたのです。これにはユリアも憤慨し反論しましたが、アリスリドの話術の前では無力でした。そしてその事を聞いたカルロネは大勢の人の前で膝をつき、その後ユリアを左手で打ち、右の手でアリスチドの喉元を掴み怒りを露わにしました。
 その後、カルロネはユリアの為にアリスチドを殺し、彼女を打った左手を切り落として、この事件を清算します。

◯ヒントと思われる箇所
「だがな、色事をするにしても、昔の人のしたやうな事が、お前方に出来るか、どうだか、それはちよいと分からないな。」

「ふん。今から百年立つて見たら、お前方のする事も馬鹿に見えるだらうて。それはお前方のやうな人達が此世界に生きてゐたと云ふことを、人が覚えてゐてくれた上の話だが。」

2012年5月28日月曜日

不可説ーアンリ・ド・レニエエ(森鴎外訳)

ある時、「僕」はあることをきっかけに、自殺する決意をしたためた手紙を「愛する友」に送ります。そのあることとは、どうやら夫を持つある女性との交際が関係している様子。ところが、彼はそれについて悲観的な感情を一切抱いてはいません。加えて、その女性との関係は、単なるきっかけに過ぎないというのです。では、一体彼は何故自殺を心に決めていったのでしょうか。

 この作品では、〈理想を追い求めるあまり、かえって死というものに希望を抱かなければならなかった、ある男〉が描かれています。

 上記にもあるように、「僕」は夫をもつある女性に対して好意を抱いてしまいます。ですが、彼女の方は夫がいることを理由に彼の申し出を断り、代わりに「友達」でいようと提案しました。どうしても諦めきれない彼は、心のなかで彼女との将来像を描いていきます。ところがそうして描いた将来像でも、彼は彼女と一緒にいる場面が想像できない様子。そこで、彼はこうした自身の恋愛を含めた自分の理想により近づく手段として、自殺を選んだのです。何故なら、死後の世界では他人は関係なく、自分の思い通りの未来を描けるのですから。

2012年5月25日金曜日

杯ー森鴎外

ある夏の朝、12歳くらいの少女7人が水を飲むために鼓(つづみ)が滝の途中にある泉までやってきました。彼女たちは皆自然と書かれた大きな銀の杯を持っており、それに水を汲み飲んでいます。そこに彼女たちと別の、第8の少女がやって来ました。彼女もやはり杯を持っていましたが、彼女のそれは他の7人のものとは違い、小さく溶岩の冷めたような色をしていました。7人はこの少女を警戒し、第8の少女の杯を見ると、それを罵倒しはじめました。そして、少女の中の1人が自分の杯を使うように第8の少女に促します。ところが、彼女は7人が知らない言葉でそれを拒み、自分の杯で水を飲むのでした。

 この作品では〈敢えて相手に分からない言語を使うことで、自らの意思をより正確に伝えた、ある少女〉が描かれています。


 この作品は、泉に水を飲みにきた7人の少女とその少女たちとは別で泉にやってきた第8の少女とで成り立っています。はじめ7人の少女は第8の少女を警戒していました。そして7人は彼女の持っている杯が自分たちのそれよりも小さく、色が美しくない事を指摘することで、自分たちと少女との間におおきな隔たりをつくりました。やがて、7人の中の一人がそんな少女に同情し、自分の銀の杯を彼女に渡そうとします。こうする事で彼女は第8の少女を自分たちの仲間として受け入れようしたのです。ところが少女は沈んだ鋭いフランス語で、「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」とそれを強く拒みました。彼女はこうしてフランス語を使う事で、日本語を使った場合よりも更に強い拒否を示したのです。というのも、日本語であるなら7人にも反論の余地がありました。しかし彼女は7人が知らないフランス語を敢えて使うことで、一切の反論を許しませんでした。また、言語が分からずともその口調で自分の気持を示す事で、彼女は7人に想像の余地を与えました。こうして彼女は自分の表現を7人に考えさせる事で、彼女の気持ちそのものを考えさせたようとしたのです。結果、第8の少女は7人の少女達の知らない言語を使うことで、自分の気持をより正確に伝える事に成功したのでした。

2012年5月22日火曜日

木精ー森鴎外

フランツという少年はいつも同じ谷間に行って、「ハロルオ」と叫んで木精が返ってくることを楽しんでいました。ですが、彼は自身の成長と共にそうした習慣を失っていってしまいます。
 そしてフランツが父の手伝いができるような年頃になった時、彼は久しく例の谷間に行って木精を試してみます。ところが、木精はいつまでたっても返ってきません。そこで彼は「木精は死んだのだ」と考え、一度は村の方へ引き返しました。しかし、どうしても木精の事が気になるフランツは、もう一度谷間へと行ってみます。すると彼の見たことのない子供たちが、かつての彼と同じように木精を楽しんでいるではありませんか。そしてそうした子供たちの姿を見たフランツは、木精が死んでいなかった事に対して喜びを感じつつも、自分では叫ぶ事はしない事を心に決めていきます。

 この作品では、〈自分の木精が聞こえなくなった事により、自身の成長を感じている、ある青年〉が描かれています。

 そもそもフランツが木精に対して楽しさを感じていたのは、声が反射する事そのものではなく、声が返ってくるというごく当たり前の事が当たり前にできているということでした。ところが、彼は久し振りに木霊を楽しもうとしたところ、その当たり前だと思っていた事ができなくなっていました。そして、一体何故木精が聞こえなくなったのか不思議に思っている彼の前に、木精を楽しんでいる子供たちが登場します。やがて彼は子供たちを観察する中で、目の前の子供たちとかつてそこで木精を楽しんでいた自分とを重ねていきます。そして、現在の自分に戻った彼は、かつて子供たちのように木精を楽しんでいた頃の少年時代の自分と、父の手伝いをして大人としての準備をしている現在の自分の立場を比較していきます。そうして次第にフランツは、大人として成長している自分が目の前の子供たちのように木精を楽しむべきではないと考え、叫ばない決意を固めていったのです。

2012年5月21日月曜日

クサンチスーアルベエル・サマン(森鴎外訳)

この作品は、著者のある妄想が舞台となっています。ルイ15世時代につくられたグラナダ人形であるクサンチスは、その美貌で他のあらゆる男性人形達を魅了し、楽しい日々を過ごしていました。ところがある時、彼女はその時好意を寄せていたブロンズ製の人形であるフアウヌスに、別の人形と戯れているところを目撃されて、怒り狂った彼によって砕かれてしまいます。では、この作品では一体どのような教訓があるのでしょうか。

この作品では、〈現実世界の有様を鋭く捉えている、著者の妄想〉が描かれています。

どうやら著者は本文でも断っているとおり、この作品に対して予め誰もが感心するような教訓や金言を用意して書いていたわけではありません。寧ろ、著者の遊びをその儘作品として発表しているだけに過ぎないのです。
ですがそれにも拘らず、クサンチスを中心としたこの作品の登場人物たちは、あたかも近代の上流貴族のような、複雑な設定と人生背景を持っています。一体何故、彼は単なる妄想をここまでリアリティある作品として発表できたのでしょうか。それは、彼が現実の世界と向きあう中で、同時に自分の妄想を育んできたのでしょう。というのも、私達は別の世界の出来事であると考えている神話や妄想を何もゼロから思い描いた、或いは頭の中からポンと閃いた訳ではありません。神が人間の形をしているように、また龍がトカゲの形をしているように、私達は現実の世界の物質を一度頭の中で取り入れて、それを別世界の骨組みとして用いています。更に、現実の世界の認識が深ければ想像の世界の出来事もより深いものへとなっていくはずです。これは、思いつきで書かれたライトノベルのSFよろも、独学でもよく研究されている作者が書いたSF小説の方がリアリティがあることからも理解できます。
そしてこの作品の場合も、著者は現実世界の人間の生活をよく観察し、上流階級の人々の暮らしぶりを人形にうつす事で、よりリアルで生々しい関係を描いています。ですから、著者の作品は単なる妄想がこうしてひとつの作品として発表されるまでのものになっているのです。

2012年5月18日金曜日

辻馬車ーモルナールフィレンツ(森鴎外役)

ある貴夫人と男とは、10年ぶりの再会を果たします。2人は再会の喜びを分かち合った後、貴夫人は男に対して、ある内緒話を聞かせはじめました。それは男が彼女に対して抱いていた恋心に関して、彼女自身がどう思っていたか、というものでした。さて、これを聞いた彼はどう思い、これを聞かせた貴夫人はどう考えているのでしょうか。

 この作品では、〈相手の事を思い気を使うあまり、かえって自分が傷つかなければならなかった、ある男〉が描かれています。


 上記にある、内緒話の具体的な内容とは、10年前、男は貴夫人を家まで送ろうと思い1頭曳の辻馬車を用意した事に対し、彼女がどう思っていたのか、というものでした。というのも、彼女は当時男の事を多少は思っていたものの、1頭曳の辻馬車を用意した事に不満を持っていました。彼女の話では、1頭曳の辻馬車では者を言ったって聞こえづらいので、2頭曳を用意しなければならなかったのです。これを聞いた男は、「そうか、あの時のあれは良くないのだ」と後悔しはじめます。そして、そこから彼は10年前の彼女に対する気持ちを思い起こし、恐らく彼女も同じ気持ちになってしまっているのではないかと考えた男は、敢えて一頭曳の辻馬車を用意することで相手の自分に対する気持ちを追い払ってあげようとします。ところがそんな彼の気遣いから一切を知った貴夫人は、「あら、それは余計な御会釈はございますわ。」と、男の提案を断り、男に対する気持ちは全くない事を彼に伝えます。こうして、己の気遣いから彼女の気持ちを知った男は、暗い気持ちで2頭曳の辻馬車を用意しだすのでした。

2012年5月14日月曜日

一人舞台ーストリンドベルヒ(森鴎外訳)

ある婦人珈琲店に夫なき女優、乙が麦酒を飲んでいました。そこに夫ある女優甲が入ってきました。そして甲は入って来るやいなや、乙に自分の喋りたいことを次々と話して聞かせます。一方、乙は甲の事を無視はしていないものの、口を開く機会を得られずじっと黙っている様子。この為やがて甲は乙に対して、ある決め付けをしてしまうのです。

 この作品では、〈相手への疑いが強いあまり、他人の話を聞かなくなっていってしまった、ある女〉が描かれています。

 この作品は一見すれば理解できる通り、一方的に話している甲と、甲と乙の2人の細かな仕草や表情が書かれている括弧書きで物語は成り立っています。その甲の話と彼女たちの反応を見てゆくと、どうやら乙ははじめ、甲の事をあまり相手にはしていませんでした。しかし甲の話が進むにつれて、徐々に彼女も感情的になっていき、やがては口を開きかけるまでに至ります。
 一方の甲は、乙の反応を見て話している様子はありません。甲はどうやら自分の話を乙が熱心に聞いていようがいまいが、構わず彼女に話しかけているのです。そして、甲は乙に対してどうやらはじめからある疑いをもって話している節があります。それは、乙は自分の夫に対して気があるのではないか、ということです。更に不思議な事に甲のこの疑いは乙が全く話していないにも拘らず、甲はその疑いをそうに違いないと言い切っています。一体何故甲は乙の言い分なしに、その疑いを強めていったのでしょうか。そもそも甲にとって、乙の言い分などはあってもなくても良かったのです。ただ、乙がその場にいることが重要だったのです。というのも、甲ははじめから自分の疑いをなんの根拠もなしに信じきっているものの、一応は乙に確認する必要性をある程度感じてはいたのでしょう。もしこの話を甲の中だけに留めておいたのであれば、それは甲の頭の中だけでの出来事であり、現実とは違っているかもしれないのですから。ところが、甲が乙の話を聞く必要性を感じていたかどうかは別の話なのです。事実甲は一切乙の話を聞かずに結論を出してしまったのですから。つまり甲の中では、自分の予測があたっていようがいまいが、それを現実の対象である相手にぶつけるだけで現実の出来事になってしまっているのです。甲にとって他人とはまさに、自分がつくりあげた台本を現実のものにするための、ひとつの装置でしかなかったのです。

2012年5月10日木曜日

白ーリルケ(森鴎外訳)

死期が近いであろう弟の見舞いの為、保険会社の役人であるテオドル・フィンクはニッツアへと向かっていました。その途中、彼はひょんな事からある若い女性と話をはじめます。しかし、彼は次第にその女性がこわくなり、その場を去ってしまいました。一体彼は彼女のどういったところがおそろしかったのでしょうか。

 この作品では、〈病気をおそれるあまり、病人の気持ちを知りたくはなかった、ある男〉が描かれています。

 この作品に登場するフィンクという男は、もともと病気である弟のことを可哀想とは思っていましたが、それと同時に親しみ難く、気味の悪い存在だと考えています。ここから彼は健常者である自分と病気である弟とは、別々の世界観を持って暮らしていると考えているということが理解できます。ですが、彼のこうした考えは、病気の弟に同情しているあたり、病人をおそれているところからではなく、病気を恐れているところからきているのでしょう。
 しかしフィンクは道中で出会ったある女性に、上記の考えを揺るがされることとなるのです。その女性は彼との会話の中で、自分の家での生活のことを彼に話して聞かせました。ですが彼は、彼女の話を執拗に遮ろうとしています。恐らく、彼はそうして話を聞くことで、病気の人々の気持ちを知りたくはなかったのでしょう。知ってしまう事によって、彼は自身が恐れている病気をより身近なものと捉えなければならないのですから。ですから彼は、彼女をおそれ、その話に対して「どうも己には分からない、どうも己にはわからない」といい続けなければならなかったのです。

2012年5月7日月曜日

牛鍋ー森鴎外

ある食卓で1人の男と女、そして7つか8つの、男の死んだ友達の子供(以下少女)が牛鍋を囲んでいました。その時男が黙々と肉を食べている最中、少女も肉に箸をつけようとします。ところが男は少女に対して、「待ちねぇ。そりゃあまだにえていねえ。」と言って、なかなか肉を食べさせようとはしません。ですがどうしても肉を食べたい少女は、どの肉もよく煮えだした頃に、少し煮えすぎたものや小さいものを口に運んでいきます。そしてそんな少女の姿を見て、男はとうとう箸をとめてしまうのでした。

 この作品では、〈他人の子供であるにも拘らず、少女にある優しさを見せる、ある男〉が描かれています。

 この作品は上記にあるように、他人として互いに少女と肉を巡って争っていた男が、少女の必死で肉を食べようとする姿に憐れみを感じて、やがて争う事をやめるところまでが描かれています。
 そして著者はこうした男の姿と親子で餌を奪い合う猿の親子の姿を比較することで、この男の行動から人間としての特殊な部分を引き出そうとしています。というのも、著者はこうした餌を巡る争いと譲り合いは猿等の世界にも存在しているものの、人間のそれは動物のそれよりも一線を画していると考えているようです。では、動物と人間ではどこがどのように違うのでしょうか。
 まず、著者が着眼した箇所は動物は親子でなら食べ物の争いを無闇にはせず、多少自分の食べたいという欲求を抑えて子供に餌を分けることもありますが、人間の場合は他人という、もっと広い範囲でそうした譲り合いが起こっているというところです。では、何故人間は動物よりも、より広い範囲で他人の為に自分の欲求を抑えることができるのでしょうか。それは、ひとつには人間には動物よりも複雑なコミュニケーション能力を持っており、それを使う範囲が動物よりも遥かに広いという事が関係しているのでしょう。というのも、動物の場合も人間の場合も声を出して他人になんらかの情報を発信することが出来ますが、その表現の幅は人間の方が明らかに広いのです。動物は「逃げろ」や「餌がある」など単純な事は説明できますが、その理由などは説明できません。一方、人間は動物よりも遥かに複雑な「言葉」を用いて現在の自分の状況やある場所での出来事を細かに説明できます。また、その活用の範囲においても、動物は餌の事や天敵の存在の事など、使う状況は限られていますが、人間の場合は特にそうした生命に関わる事でなくとも、互いに自分たちの近況を話していることだって頻繁にあります。ですから、人間は自分の状況や状態を動物よりもより細かに伝える事ができ、そうした情報を得る機会も多いのです。更にそうして集めた状況を私達は自分たちの頭の中で想像し、鮮明に描こうとします。そして、こうした情報のやり取りと想像が私達に他人への同情の心を与え、他人に対して優しさをおこすのです。

2012年5月5日土曜日

寒山拾得ー森鴎外

閭丘胤(りょきゅういん)という官吏は、ある時仕事で任地へ旅立とうとしていましたが、こらえきれぬほどの頭痛が起こり仕事を延期しなくてはいけない危機に陥っていました。ですが、そんな彼のもとに豊干(ぶかん)と名乗る乞食坊主が彼の頭痛を治すため、どこからともなくやってきました。閭はその申し出を受けることにして、彼から咒い(まじない)を施してもらいます。すると、なんとあれ程気になっていた彼の頭の痛みは、豊干の咒いによって消えてしまったというではありませんか。
 そして豊干をすっかり気に入ってしまった閭は、仕事で台州(豊干のやってきた土地)に行くのだが、誰か偉い人はいないかと彼に問います。すると彼は「国清寺に拾得(じっとく)と申すものがおります。実は普賢(菩薩)でございます。それから寺の西の方に、寒巌という石窟があって、そこに寒山と申すものがおります。実は文殊(菩薩)でございます。」と答えてその場を去っていきます。これを鵜呑みにした閭は彼ら2人を探す為、台州へと向かいます。
 しかし実はこの2人の正体は、やはり菩薩などではなくただの下僧だったのです。ですが、豊干の言ったことを信じきってしまっている閭は、結局彼らの前で丁寧に挨拶をしたばかりに、下僧に笑われ恥をかいてしまいます。

 この作品では、〈自分よりも信仰心の強い相手を尊敬するあまり、かえって信仰を外れてしまった、ある官吏〉が描かれています。

 この作品での閭の失敗は、言うまでもなく豊干のいう事をその儘鵜呑みにしてしまったというところにあります。では、何故彼は豊干の言うことを鵜呑みにしてしまったのかを、一度考えてみましょう。そもそも閭は豊干のことをあまり信用してはいませんでしたが、自身の悩みの種である頭痛をいともたやすく治したことで尊敬の念を抱いていきます。この尊敬というのは、彼が坊主であり日々の仏道修行によって磨いたであろう咒いによって彼の頭痛を治した事から、信仰の面から起こっているのでしょう。しかし閭は信仰心というものをそれなりには持っているものの、豊干の咒いは彼のそれを遥かに超えており、正しくはかることは出来ませんでした。そこで彼は、自分より強い信仰心を持っているであろう豊干の言葉をまるっきり信じることにしたのです。
 ですが、閭よりも強い信仰心を持っているからと言って、豊干が常に正しい行動をしているとは限りません。例えば、一般的に親は子供よりも知識は豊富にありますが、童話「裸の王様」のように大人が間違っており、子供が正しい場合だってあるではありませんか。しかし閭の場合、そうした考えに至らなかったのは、豊干の言葉をその儘採用することで自分で考えることをやめてしまったというところにあります。まさに、閭の信仰心が彼の考える力を奪ってしまい、結果的に恥をかかなければならなかったのです。

2012年5月1日火曜日

女の決闘ーオイレンベルク(森鴎外訳)

とある女房は、ある時夫をあるロシア医科大学の女学生に奪われた事をきっかけに、拳銃を用いた決闘を申し込みます。その死闘の挙句、女房はその女学生を射殺し復讐を遂げることが出来ました。ですが、彼女はその女学生の後を追うように自らの命を絶ってしまいます。一体女房は何故死ななければならなかったのでしょうか。

 この作品では、〈夫との関係を守ろうとして自分の命を投げ出すあまり、かえって関係を壊してしまった、ある女房〉が描かれています。

 上記の疑問を解くにあたって、何故女房は決闘を行わなければならなかったのか、というところから考えていきましょう。彼女は夫の不倫を知った時、その怒りの矛先を彼にではなく、相手の女学生に向けています。この時、女房は女学生に「侮辱」されたと考えているようです。恐らく、これは自分の知らないところで密かに愛する夫を奪われたという思いからきているのでしょう。そして侮辱された儘では気が済まない彼女は、堂々としたした形で夫を奪い合う事で自分の名誉を保とう考え、決闘への決意を固めていったのです。
 ところが、その結果は女房の予期せぬ方向に向かってしまいます。もともと彼女の計画では、その決闘で女学生に殺されて、夫との関係を明け渡す覚悟でいました。ところが女学生は死に、女房は生き残りました。ここが彼女にとって悲劇のはじまりだったのです。生き残った彼女は、はじめは女学生を殺した喜びに浸りきっていました。しかし、徐々に冷静さを取り戻していくにつれて、ある不安が彼女の脳裏をよぎり出します。それは、果たして人を殺してしまった自分が、夫や子供の前で人を殺す前のように振る舞えるのか、ということです。彼女の出した結論は否でした。彼女は人を殺した罪悪から、どうしても夫や子供の前で自然に振る舞う自分が想像できず、その代わりにそれまでの関係が壊れていく様を思い描かずにはいられなくなっていきます。その結果、彼女は夫の傍に帰る事なく自殺を心に決めていったのです。