2013年12月24日火曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年9月4日

 ヘレンも漸く、人の気持ちになって考えるということが分かりかけてきたようです。
 ある時、彼女は自身の叔父であるケラー博士から貰った手紙を赤ちゃんのミルドレッドにくしゃくしゃにされてしまいました。憤慨したヘレンは手紙を引ったくり、その小さな手をピシャリと叩いてしまったのです。そこでサリバンは彼女を落ち着かせて、何故怒ったのか、理由を探ろうとしました。彼女は予め、ミルドレッドに手紙は大切なものだということを(指文字で)念を押して伝えていたのにも拘わらず、くしゃくしゃにされたから手を叩いたのだと主張します。しかし、当然満足に歩くことも出来ない赤ちゃんが、ヘレンの指文字を理解できるはずもありません。サリバンは彼女にそのことを伝え、赤ちゃんには優しくしてあげなければならない事を教えてあげました。するとヘレンは、ミルドレッドに悪気がなかったこと、考える事が出来ない事をその立場に立ち、瞬時に理解したのです。彼女もまた、数カ月前まではミルドレッドと同じように、考える事ができず、善悪の判断がつなかった少女だったわけですから、赤ちゃんの気持ちになることは難しくはなかった事でしょう。
 ですから、彼女は自分の行いを反省した後、数カ月前、ものを片っ端から壊していた頃の自分を想起し、破っても良い手紙をミルドレッドの為につくってあげたのでした。

2013年12月19日木曜日

レポート;ヘレン・ケラーははどう教育されたか1887年8月28日

 ヘレンはこの頃、性の誕生について、興味が尽きない様子。「生まれたばかりの仔犬」「生まれたばかりの子牛」「うまれたばかりの赤ちゃん」、それらがどこから来たのかについて知りたがっているのです。
 こうした質問を子どもたちにされた時、私達大人はとても動揺してしまいます。それは言い方ひとつでそれらの問題が軽々しく、卑猥なだけのものだと子供達思われてしまうことを懸念しているからに他なりません。ですがサリバンは、そうした問題に対して特別扱いし、コウノトリが赤ちゃんを運んでくるといった嘘、またそうした問題を扱うこと自体をタブーにするといった対処はとりませんでした。彼女曰く、子供達のそうした純粋な質問が彼らの口から発せられる事は当然の事なのだといいます。ですので、それをタブーにしたり嘘をついたりして、説明する責任から逃れる事は、子供を教育をするにあたって、やってはならぬことだと考えたことでしょう。
 そこでサリバンは性の誕生における男性と女性、雄と雌の役割を、植物の雄しべと雌しべの受精に例えてできるだけ優しい言葉を選んで説明しました。ただし人間においては、そこに「愛」というものが重要な働きをすることも付言しています。
 子供に説明できない問題を扱う場合、そうした質問をする子供に非があるわけではなく、それをうまく伝えられない教育者の側に責任があるのです。

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年8月21日

 今回、ヘレンはことばの使い方で決定的な進歩を遂げたようです。彼女は先日、サリバンとハンツヴィルの近くにあるモンテサノ山の頂上までドライブした事をお母さんに話していました。この時、ヘレンはサリバンが自分に山の景色を説明したそのまま、一字一句変えずに話していたと言います。恐らく彼女の頭の中では、そうした景色のようなもの(ヘレンは視覚聴覚がないため、頭の中に描かれる映像も、私達とは質的に違うのだということを押さえておかなければなりません。)ぼんやりとおぼろげながらにもかすかに見え、またそうかと思えば再び霞み、そうかと思えば見えはじめという流れが繰り返されていた事でしょう。ところがある時点から、以前よりもそうした景色が明確なものとして現れてくる瞬間があったはずです。それが見えた時、ヘレンはお母さんに「とても高い山ときれいな雲の帽子」を見たいかと尋ねました。事実括弧書きの表現は、サリバン自身、一度も彼女に話したことはないといいます。
 この体験から、ヘレンは目が見えない、耳が聞こえないなりの、感覚的な、彼女なりの表現を手に入れかけたと見てよいでしょう。

2013年12月15日日曜日

レポート;レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年7月31日

 ヘレンは近頃、あらゆることに対して、「なぜ?」、「どうして?」という疑問が尽きないようです。サリバン曰く、こうした問は、「子どもたちが理性と内省の世界に入る扉」なのだと言います。
 ヘレンはこのように物事の仕組みに興味を持つことによって、周りの大人達から、或いは自分で経験しながらそれらを自分の頭の中で埋めていこうとするでしょう。時には子供ながらの感性故に、失敗をこすことも多々あるかとは思います。ですが、そうした積み重ねこそが、彼女に正しい知性と理性とを与えることになるのです。

2013年12月13日金曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年7月3日

 この日の朝、ヘレンはひどい癇癪を起こし、ヴィニーをひっかいたり掻きむしったり噛んだりしました。恐らくヴィニーは彼女に何かちょっかいを出したのでしょう。そしてヘレンはこれに腹を立て、今まで大人しくさせていた野獣のようなむき出しの感情を彼女に向けてしまったのです。
 というのも、これまでヘレンが他人に危害を加えなかったのは、「こういう理由があるからこそ、危害を加えるべきではない」という倫理的な理由からではなく、「先生が危害を加えるべきではないと言ったから加えるべきではない」という道徳的な価値観からそうしていたに過ぎません。ですから、彼女はヴィニーにちょっかいを出された時に、感情を抑えることなく攻撃してしまったのです。
 そこでサリバンは彼女とスキンシップをとることを拒み、暫く一人にして危害を加えてしまったことについて考えさせました。彼女ははじめの方こそ、自分は悪くないのだということを主張していましたが、徐々にその事が彼女の頭の中で膨らんでいき、やがて「どうやらこんな惨めな気持ちになるということは、自分が悪かったようだ」と反省するようになっていったのです。
 こうして彼女は道徳的な価値観から、「他人に危害を加えると自分が惨めになる、悪い子になってしまう」といった、素朴ながらも倫理的な価値観への過程を経て、これまでよりも寛大な少女となっていったのでした。

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年6月19日

 ここではヘレンの、主にその記憶力と理解力について触れられています。サリバン曰く、彼女ははじめの頃と変わらない熱心さを今もなおもっているそうです。
 現在の彼女は新しい単語はすぐに覚え、一度会った人々の事は決して忘れません。そして片言だった話し方は“Helen wrong,teacher will cry.”“Give Helen drink water”といったように、随分と流暢になりました。また手紙という、自身にとっては新たな表現方法に関しての興味も尽きないようです。

2013年12月11日水曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年6月15日

 この日の前夜に雷雨があり、ヘレンはこれに興味をもったようです。彼女はいよいよ、他の子供達と同じように、自分の身の回りで一体何が起こっているのかについて知りたがり、サリバンに雷雨についての質問を次々と浴びせていました。

2013年12月10日火曜日

レポート;ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年6月12日

 熱い日が続き、ヘレンもどうやらその暑さにやられてしまっているようです。
 ですが、サリバン以外の人々(恐らく文中から、医者などの人々の事ではないかと考えられる)はどういうわけか、彼女がくたびれている原因が暑さのせいではなく、その熱心過ぎる頭脳活動のせいだと考えています。一体この2つの見方の違いはどこからきているのでしょうか。
 そもそもサリバン以外の人々は、耳と目が見えない事からヘレン・ケラーを普通の子どもとして捉えてはいません。ですから彼らはヘレンがサリバンの教育を受ける以前は、彼女に魂があるとは考えておらず、また彼女が言葉を覚えたかと思えば、頭の働かせ過ぎであると診断してしまっているのです。
 彼らの人間観というものは、普通かそうでないか、人間としてのこころがあるのかないのかという平面的な構造でしかありません。ですから、現場でヘレンを教育しているサリバンのように、ない状態からある状態へという過程構造を捉える事が出来ず、同じ人間を扱っているはずなのに突拍子のない、的外れな見解を述べることになってしまうのです。そしてサリバンはこれを強く批判し、寧ろヘレンの唯一のエネルギーの発散方法である頭脳を使うことによって、暑さの気晴らしをしたのでした。

2013年12月6日金曜日

雑記;実家について

 書き物のジャンルが多くなってきましたので、今回から雑記、評論といったように、タイトルの前にそれぞれの属性をつけていきたいと思います。定期的に読まれている読者の方々、今後もよろしくお願い致します。


 さて、ここからは私の近況となるのですが、現在関西を少しの間離れ、高知から執筆をしています。といいますのも、私の母が腸閉塞を患ってしまい、家の方でもいろいろと不都合が生じるだろうからと考えたからです。しかし私の予想とは裏腹に、母は食事制限がついているものの、仕事に行ったり料理をつくったりと平生となんら変わらない生活を送っています。
 彼女は10年前ぐらいに子宮を全摘出して以来、度々こうした病気にかかっているので、恐らく本人自身としてはうまくその要領を得て対処しているのでしょう。しかし他の家族は我が身ではないだけに、かえって気を遣ってしまうようなのです。父は母が再び腸閉塞と診断された時、慌てて私に電話し、私も急に心配になり一週間ばかり休みをとって帰ってきました。
 ですがだからといって、それらの心配が全くの杞憂であったとも言い難いことも事実です。母は無理をし過ぎると寝こむ時もあると言いますし、父は父で母がいない間にカップ麺を大量に買っていたのでした。
 そして私の急な帰郷は、私の家族に思わぬ変化をもたらしています。母は私が夕飯をつくっていると嬉しそうにしているのです。私は素直ではありませんので黙って料理をつくります。普段口数の少ない父は、とてもくつろいだ表情で箸をとりながら団欒に交じってくるのです。そして弟は、なんだかんだといって私のつくったものを食べませんでしたが、今では黙って箸をつけ、残した時は「ごめん」と一言いいます。
 土佐の潮風は冷たい冬の中をのんびりゆったり吹いて、私達の村を包んでいます。そしてそれは私達の心の中をも通り、あらゆるものもを取り払い、調和だけをそこに残していくのです。






余談;最後に先日友人と宇佐というところに行き、貝を食べてきましたので、その画像を添付しておきます。場所は南国から宇佐へ、国道23号線を走らせたところにある、「萩の茶屋」というところです。ここで私は、「トコブシ」(高知では「ナガレコ」と呼ぶ方が一般的です。)と呼ばれる貝を推薦しておきます。これはアワビと同じ種類の貝なのですが、栄養価はこちらの方が高いそうです。食感はアワビと同じく弾力のある歯ごたえをしており、焼いても美味しいですし、煮物にして食べるところもあります。こちらでは特性のタレにつけて食べることが出来ます。



次にこれは宇佐から帰る途中に見つけた、龍馬空港の近くにある喫茶店(場所は分かりづらいところにある為、あらかじめインターネット等で調べて行かれる事をお薦めしておきます。)、「えんのお菓子屋さん」のかぼちゃのタルトとアッサムです。ここは店内がとても静かで、特にいつも通勤時間電車に乗っていたり、人が絶えることのないチェーン店で働いている方々にとっては、そうした忙しさを忘れさせてくれるはずです。私が行った時だけかもしれませんが、そこにはお店のおばさんがお菓子づくりをしながら聞いているラジオの音しかしませんが、それがかえって高知ののどかさを演出してくれています。そして肝心のお菓子の味は、控えめな甘さですが、かぼちゃの甘さはそれでも十分に口に広がっていました。付け合せのシャーベットもさっぱりしているので、紅茶や珈琲は砂糖がなくともその香りや苦味を堪能できるでしょう。

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年6月5日

 ヘレンはここのところ、自身の掌の中で卵からひよこがかえる瞬間を観察して以来、生命の誕生について興味をもちはじめたようです。そして、それらは「豚の赤ちゃんは卵の中で大きくなるの?たくさんの殻はどこにあるの?」といったように、大人の私達でも用意には答えられないものばかり。恐らく、彼女が自身の誕生の起源について興味を持ちはじめる時も、そう遠くはないでしょう。

2013年12月2日月曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年6月2日

 ヘレン・ケラーの勉強に対する意欲と能力には目を見張るものがあります。彼女は夜中でも寝る間を惜しんで読書をしようとし、知らない単語を文章全体の文脈から掴んでくる力も持ち合わせているのです。
 しかしその一方で、サリバンは人々のそうしたヘレンに向けられる眼差しに注意を払っています。彼女は自身がこれまで教育してきたヘレンを、「神童」にはしたくないのだというのです。結論だけ見れば、確かにヘレンは目が見えず耳が聞こえず、他の子供達よりも非常に大きなハンデを抱えています。だからこそ、彼女のそうした熱意や能力の高さに、人々は目を引かれてしまいます。ですが、ここまで本書を読んだ読者の方なら分かるかとは思いますが、彼女のそうした才能というものは、教育というそれなりの必然性、合理性があってこそのものなのです。サリバンが一番懸念しているのは、それら、つまり彼女の教育論そのものが無視され、神童ヘレン・ケラーという結果だけが後世に残っていってしまうことに他なりません。
 ヘレンが神童となっていったのは、決して彼女側の条件だけが優れていたのではなく、教育によって成し得られた業績の結果なのだという事は、何よりも一番押さえておかなければならないでしょう。

2013年11月30日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年5月22日

 現在のヘレンは、野性的な段階から人間的な段階へと進化していっていますが、「物を壊す」という癖については中々なおらないようです。これは、彼女がこれまでそうしてそれがなんであるかということを確かめてきた、壊すことによって自身の感情をコントロールしてきたという習慣からきています。ですがサリバンの教育によって、彼女はものを壊さずとも、征服されることによって自分の感情をコントールする術を身につけてきましたし、文字を書いたり読んだりすることで子供特有の有り余るエネルギーを発散することだって今では出来るのです。あとは「物を壊す」という形式を捨てさせれば良い事になります。
 そこでサリバンは友人が新しい人形を持ってきてくれた事を機会に、ヘレンに人形を叩きつける動作をさせて、「だめ、だめ、ヘレンはいけない子だ、先生は悲しい」と綴り、悲しそうな表情をしました。またその後、彼女に人形を愛撫させ、キスさせた上で、「ヘレンは良い子、先生は嬉しい」と綴り、サリバン自身の笑った表情に触れさせました。こうする事で、ヘレンの頭の中に、自身のすべきではない像とそうあるべき像を描かせようとしたのです。これは、彼女はまだ自身のあるべき理想の像というものをうまく描けないという事情からそうしています。そして彼女自身もサリバンのこうした試みをよく理解したらしく、洋服ダンスの一番上の棚にのせ、その後は全く触ろうとはしませんでした。

2013年11月25日月曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年5月16日

 ヘレンが言葉を使いはじめてからというもの、彼女はサリバンとの会話を楽しんでいるようです。そしてサリバンはそのような彼女との授業をすすめていくうちに、「ことばと思考」の関係について着目していくようになります。
 私達が会話をする時、まず現実の物事や現象と向き合い、それを頭の中(思考)で整理し、その上で言葉として表現するものです。そしてこれらは思考から言葉へ、また言葉から思考へと互いに移行しあっています。例えばヘレンがサリバンと波止場のそばにあった泉を「感じた」時、「リスのカップ」(squirrel-cup)と表現しました。これはリスがここに水を飲みに来るというサリバンの話から、彼女はリスの水飲み場という意味を込めてそう言ったのでしょう。ここで注目して頂きたいのは、ヘレンは泉や水飲み場といった適切な表現を使わずにカップと言いました。恐らくこれは適切なことばを知らなかったことと、彼女の詩的な世界観がこのような表現を生み出したのです。まさに彼女の思考が彼女独自のことばを生み出しています。
 ですが現段階でのヘレンの表現が拙いのも事実です。そこでサリバンは彼女の表現した言葉を受けて、単語や文章を補います。こうすることで彼女の思考は新たな単語や表現で満たされていくのです。つまりこれは先程の思考から言葉への逆の流れを辿っています。
 そしてこうした交通を経ることによって、ヘレンの思考はより豊かになり、語彙も増えていくことでしょう。ですからサリバンは、「ことばが思考を生むとは何てすばらしいことでしょう!」と述べていたのです。

2013年11月22日金曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年5月8日

 今回の手紙において、サリバンは自身の教育論について、ある確信を得ます。それは、幼稚園の教具や教室の中での箱庭的な教育は必要ない、という事です。つまりビーズやカードであそんでみたり、優しい声で生徒と一緒に積み木遊びをするよりも、子どもの好奇心にまかせて現実の出来事に触れてみる方が子供の成長がはやい、と彼女は考えています。
 どうやら、彼女はビーズ遊びや教室での教育が現実の一面を切り抜いてつくりあげられた理論の総体である、ということに問題を感じているようです。というのも、それらは一面では現実に即しているものの、別の一面から見れば誤謬も含まれています。またある場合には、理論そのものが適切でない時だってあるのです。よってそうした教育を受けてきた子供達が現実の対象と向き合った時、「あれ?今まで習ってきた事と何か違うぞ」と違和感を覚え、混乱してしまう可能性があります。
 例えば医療関係者やある専門分野において仕事をされている方なら頷いて頂けると思うのですが、これまで習った看護論、介護論、教育論がその儘実践で使えるのかを考えてみれば分かりやすいかと思います。多くの場合、まずどの理論を適応すれば良いのかで混乱し、次に適応しても、もしそれが失敗した時、何が間違っていたのか分からず混乱するでしょう。
 しかしここで注意して頂きたいのが、「やはり何事もやってみなくてはわからないものだな。だから理論なんていらなかったのだ。」という経験主義的な考え方に陥らない事です。そうして取り出してきた理論が間違いである場合も十分にあるのですから。
 そしてサリバンの場合も、やはり経験主義的な立場からそのような事を言っているのではありません。彼女はあくまでこれまで培ってきた教育論をもとにして、現実のあり方をヘレンに正しく教えているのです。

2013年11月19日火曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年4月24日

  前回の手紙では、ヘレンは言葉が話せそうで話せない、ちょうど曖昧な段階にありましたが、今回の手紙では拙いながらも言葉でサリバンと会話している様子が綴られています。そしてこのヘレンの教育成果から、以下の2つの事が読み取れるでしょう。
 ひとつはヘレンの理解できる範囲に合わせて彼女に話しかけてきた、サリバンの目とその方針の確かさ。
 そしてもうひとつは、ヘレンが動物的な段階から完全に決別し、人間的な社会性を身につけつつある、ということです。サリバンはこれをひな鳥が空を飛ぶことに例えて、たった一文で説明しています。
 私達が人間の社会で生きていく上で最も重要な能力とは、コミュニケーション能力に他なりません。それは学校で友達と話す時、仕事で依頼を請け負う時、買い物をする時、家族に自分の意思を伝える時等、人間として暮らす上では欠くことの出来ない能力なのです。しかしヘレン場合、これまで自分の意思を一方的に汲み取らせる事で、その必要性を無視してきました。否、知ることもなかったはずです。ですがサリバンとの数週間の暮らしによって、服従という社会関係を学んできた事によって、自分のやり方以外で交渉する術を学ばなければならないことを自然と知っていったのでしょう。これは力関係が自分よりも上の者とやりとりする場合、相手の意図を知り、従う必要があるからです。
 また指文字の存在も忘れてはなりません。サリバンは事あるごとにヘレンの掌に指文字を書き、そのものの名前や現象を教えていました。そして、ヘレンがそれを言葉として受け止めた時、今度は指文字で話しかけはじめました。このようにして、サリバンはヘレンに言葉の存在とその使い方について教えていったのです。
 こうしてヘレンは自然と自分とは違った交渉の仕方を学んでいく過程の中で、言葉というコミュニケーションのあり方にいきついたのでした。

2013年11月17日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年4月10日

 ヘレンが言葉の存在を知って以来、その興味は尽きることがない様子。彼女にとって、最早全てのものは名前を持っていなければならないのです。
 しかしとは言うものの、彼女は未だ自分から言葉を話した事はありません。ですがここで注意しなければならないのは、だからと言って彼女は喋れないだとか言葉を理解できていないだとかいう事ではないということです。彼女は自身が話したいと思うまで、話す必要がある時まで、言葉を自身のうちに留めています。そして時が来れば、サリバンのこれまで使ってきた言葉を自分も使ってみようと思い、模倣する時がくるはずです。ですからサリバンは彼女の興味について探り心を刺激し、彼女の理解できる範囲で話しかけるよう努めていったのでしょう。

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年4月5日

 今回の手紙では、遂にヘレンは全てのものには名前があることを理解した、ということが綴られています。
 それでは早速、その内容を見ていみましょう、と言いたいところですが、その前にヘレンの「認識」では、これまで物質(現象)と名前にどのような繋がりを持っており、どのように変化していったのかを整理しながら見ていきたいと思います。

 はじめ彼女は直接的に自身の興味のあるものについての名前を指文字で習い、うまく書ければサリバンからそれらを受け取っていました。この時点ではヘレンは個々別々の指文字のあり方や形式を区別出来ていなったはずです。また指文字は何らかの記号や彼女の好きなものをあげるサインか何かだと捉えられ、書く行為自体が自身の好きなものと直接的に結び付けられていたことでしょう。

 ですが徐々に彼女の覚える記号が多くなるにつれて、aに触れればA、bに触れればBというように、あるパターンのようなものがぼんやりと概念として浮上してきはじめます。こうして記号と物質の繋がりは徐々に強くなっていきます。

 ところがそんな中、ある例外が発生してしまいます。彼女は湯のみに入ったミルクを、ミルクと湯のみとにうまく分離し区別出来なかったのです。そこでサリバンは井戸小屋に湯のみを持った彼女を連れて行き、水の出口に湯のみを持った手がくるよう誘導してやりました。やがて水は湯のみを満たし溢れだしてきます。この時サリバンはヘレンのもう片方の手に水(Water)と書いてやりました。この瞬間、ヘレンは湯のみを落とし、立ちすくんでしまいます。この時、ヘレンの頭の中では湯のみと水やミルクといった液体を分けて考える事が出来たのです。同時に彼女は、「このようなものにまで記号が存在するのであれば、もしかすると全てにあるのかもしれない。」という仮説を持ったことでしょう。事実、彼女はその後様々な物の名前を聴き覚えてしまったのです。

 こうして彼女は物質(現象)と記号の結びつきを強くし、それぞれを比較し区別していく中で、言葉の存在を知っていったのでした。

2013年11月15日金曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年4月3日(修正版)

 今回の手紙では、ヘレンとの一日の大まかな暮らしぶりが綴られています。その中でサリバンがヘレンの観察、教育を一瞬たりとも怠っている時間はありません。「でも、私が彼女に単語を綴るのがこの時間だけとはお考えになりませんように。」「それに、きめられた時間より、折にふれて彼女に物事を教える方がずっと容易なことを知っていますので。」等の言葉からも理解できるように、いうなれば、彼女たちにとっては、いついかなる状況でもそこが教育の現場になり得るのです。彼女たちの生活は、教育の上に成り立っていると言っても過言ではないでしょう。

2013年11月11日月曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月28日(修正版)

 今回の手紙でも、ヘレンの内面における劇的な変化が綴られています。
 彼女はこれまでナプキンをまともにつけず、顎に挟んで食事をとっていました。ところが今回サリバンとある交渉をしたことによって、ちゃんとつけるようになったのです。そして重要なのは、その交渉の内容にあります。これまで彼女は自分流のやり方でのみ、欲しいものを手に入れてきました。それは一番はじめの3月6日の手紙を読んでも明らかです。

 その日、サリバンは彼女に人形(doll)と綴らせた後に、人形を与えようとしました。ところが指文字どころかサリバンのしようとしている事すらも分からないヘレンは、人形を取り上げられてしまうと思って急に怒りだしてしまいました。これは彼女の交渉の手段が非常に限られており、彼女の望む回答以外の行動だった為にそうなってしまったのです。

 しかし今回はどうでしょうか。ヘレンはナプキンをつけることを拒んだ後に、指文字の授業をしていました。その最中、彼女は何かを閃き、ナプキンをつけてケーキを催促しはじめます。ケーキをくれればいい子になると言っているのです。これは大きな変化と見てよいでしょう。何故なら、これまで自分のルールでしか交渉してこなかった彼女が、何か言う事をきけば自分の好きなものをくれるという、サリバンのルールを自ら採用したのですから。
 こうしてヘレンはサリバンに服従したことによって、以前よりもはるかに、簡単に、自分の好きなものを手に入れる事が出来るようになっていったのです。

2013年11月9日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月20日(修正版)

 前回の、ヘレンの止むを得ないとも言える模倣は、ついに彼女の精神にも影響を及ぼすようになっていったようです。あれほど暴れまわっていた野生動物は、今では晴れやかで幸福そうな顔つきで編み物をしたり膝の上に乗ったりするのだと言います。これは恐らく、サリバンとの征服する、されるという社会関係が明確になっていく中で、あらゆる動作における社会性というものも、同時に理解していったのでしょう。
 実際、ヘレンは自身の家で飼っている犬に対して、サリバンが自分にしたのと同じように、指文字を教えようとしていました。これは自身とサリバンとの社会性をある一定のレベルまでは理解している、証拠のひとつとして挙げても良いでしょう。つまり彼女はサリバンの「分からない人に何かを教える」(文字を教わっているとは、この時点では理解してはいません。)という表現をある段階までは理解したのと同じように、他人に笑顔を向けたり膝の上に乗ったりといった表現についても、同じレベルで理解していったのです。

2013年11月6日水曜日

淡路自転車旅行のお礼など

 先月に続き、今月もコメント者とその親戚の方々とで淡路に行ってきました。旅行に参加された皆さん、自転車に不慣れであるとはいえ、私が思っている以上のご迷惑をお掛けした事でしょう。また同時に、後方から漕いでくる私をいつも暖かく迎え励ましてくれたにも感謝しています。特にコメント者は私につかず離れずで共に走ってくださっていました。自転車の走行中以外にも、様々な場面でフォローをして下さったようにも存じます。お恥ずかしながら、なんと表現して良いのか、分からない程です。

 旅とは、私達が普段過ごしている日常を離れ、別の観点から日常を見つめる事だと思います。今回の旅で、私は改めて自分が思っている以上に他人に助けられていることに気づきました。まずは自分の目の前の課題をひとつひとつこなしていくことで、恩を返していきたいと思います。
 最後になりましたが、何かと不出来な人間ではありますが、これからも自身の身には大き過ぎる夢に邁進してゆくことを記し、筆を置きたいと存じます。

2013年11月5日火曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月13日(修正版2)

 前回のサリバンの思いきった舵取りは、どうやら順調に進んでいるようです。というのも、彼女たちはこの日と前日において、なんのいさかいも起こしていません。これはサリバンが力によってヘレンをうまく服従させていることと同時に、ヘレンが欲求を抑えはじめている事を意味します。
 また「つたみどりの家」に来て以来、彼女の内面にある小さくも大きな変化がある事も見逃してはなりません。ヘレンは、サリバンには分からない、いろいろな身振りをするようになっていったのです。サリバンはこれを、「つたみどりの家」のいろいろな人たちを表す動作なのだと推察していきます。
 恐らくサリバンに服従していく中で、彼女は有り余る体力を持て余していくようになっていったのでしょう。ですがこれまでの方法ではサリバンに強制的に止められてしまいます。そこで彼女は自然と、自分と同じ人間であろう人々の行動を、興味を抱きながら真似ていったのでしょう。(※ここで注意しなければならないのは、ヘレンは目的的に発散の仕方を学ぼうとしたのではなく、あくまで感性的に真似をしようとしただけなのだということです。)そしてサリバンはこれをヘレンに知性が宿る兆しとして見ている様子。その結果がどうなっていったのかについては、次の手紙で見ていきたいと思います。

2013年10月31日木曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月11日(修正版2)

 今回の手紙では、冒頭に2人は「つたみどりの家」と呼ばれている、ケラー屋敷から1/4マイルばかり離れたところにある一軒家に暮らす事になったことが報告されています。というのも、これは、サリバンがヘレンを家族と一緒に暮らした儘では真っ当な意味での教育は望めないと考えたからに他なりません。
 ヘレンを取り巻く家族たちは、家の中に争い事を持ち込みたくないが為に、兄のジェイムズ以外、これまで誰も彼女の意思に本気で逆らおうとはしませんでした。彼女と家族との社会関係というものは家族の努力でのみ成立してきたのです。つまりヘレンの社会性というものは全く育っておらず、彼女はただ欲求を満たすことだけに専念すれば良いことになります。そして、こうした環境でいくらサリバンが熱心に教育しようとしても、当然彼女はそれをうまく受け取ることは出来ないでしょう。
 そこでサリバンは、彼女をそうした環境から一度離し、力をもって服従させようとしました。そうすることで、自分の意思だけではうまくいかない、思い通りにならない事、自分と同じ、あるいはそれ以上の意思が存在することを理解させ用としたのです。そしてそれらを理解する中で、彼女は他人や社会というものの存在を徐々に、少しずつ意識していく事でしょう。

2013年10月27日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月月曜の午後(修正版2)

 今回の手紙では、ヘレンとの朝の食事風景が綴られています。そしてその第一文を見ると、彼女の作法はあまりに凄まじく、それをサリバンが力づくで抑えようとした為に大喧嘩をしたというのです。もし本書を一読した読者がいたなら、前回の手紙にあった、ある2文をここで想起するのではないでしょうか。

 力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。

 上記の2文では、ヘレンを基本的には力づくで教育するつもりはないが、必要な場合は服従させることもある、ということを述べています。
 ではその線引は一体どのように行なわれているのでしょうか。前回の手紙を見る限りでは、サリバンの手から鞄を取り上げようとした時、紙の上やインクなどに手を突っ込んだ時などは、決して力づくで教育しようとはしませんでした。しかし今回の食事の件は、サリバンから見た時にとても容認できるものではなかったようです。一見、表現だけ見ればどれもヘレンが単純に自身の欲求を満たしているだけに見えてしまいます。ですが、鞄の時もインクの時も、同じ欲求でも、「鞄の中には何があるのかな」、「壷の中はどうなっているのかな」といった、好奇心という人間らしい感情があることも押さえておかなければなりません。
 しかし今回の食事の件はどうでしょうか。そもそも彼女の作法というものは、他人の皿に手をつっこみ、勝手にとって食べ、料理の皿がまわってくると、手づかみで何でも欲しいものをとる、というものでした。恐らくこの時の彼女の頭の中は、ただ「食べたい」という動物的な欲求でいっぱいだったことでしょう。そして彼女はこうした作法と欲求を、生まれてから約7年の間、持ち続けてきました。つまり彼女の食事作法の土台というものは、動物的な欲求と、それからくる荒々しい食べ方によって出来上がってきつつあるのです。ですからこの後、幾ら歪んだ土台の上から教育しようとしても、崩れ落ちるのは目に見えています。だからこそサリバンは、ヘレンの作法を土台から改善すべく、力づくで教育しようとしたのです。

2013年10月24日木曜日

秋深きー織田作之助

 医者に肺が悪いと診断されてしまった著者は、病気を癒すために温泉へと旅立ちます。
 そんな彼はその旅行先で奇妙な夫婦に出くわすのでした。というのもこの夫婦、妻は妻で夫の事を、教養がなく下劣であると影で罵ります。一方の夫は妻のことを、不幸話で男の気を引こうとするろくでもない女だというのです。しかし彼らはこうもお互いの事を嫌いながらも、別れようとはしない様子。寧ろ、彼らは子どもをつくるために、著者と同じ温泉に来ているのですから。(※)
 そしてそんな夫婦と出くわし、振り回される中で、著者はお互いが嫌っているにも拘わらず、離れないこの夫婦の謎を自然と理解していくのでした。


 この作品では、〈お互いの欠点を知りすぎているあまり、かえって離れられなくなっていった、ある夫婦〉が描かれています。


 上記の謎を解き明かしていくために、もう一度2人の欠点を整理してみましょう。

夫;教養がない。
妻;不幸話で男の気を引こうとする。

 そしてこれらの欠点は、作中を見る限りでもよく表れています。夫は肺には石油が効くのだという、なんら根拠もない事を自慢するかのように著者に聞かせ、執拗にすすめてくるのです。
 一方妻も、そんな不出来な夫の事を話し、自分を不幸だと言って著者の気を引こうとしている節が見受けられます。
 では何故彼らはここまでお互いの欠点をよく知っているにも拘わらず、一緒にいるのでしょうか。それはそこまでお互いの事を知っているからに他ならないのです。これは妻の下記の台詞に顕著に表れています。

「何べん(結婚を)解消しようと思ったかも分れしまへん。」
(中略)
「それを言い出すと、あの人はすぐ泣きだしてしもて、私の機嫌とるのんですわ。私がヒステリー起こした時は、ご飯かて、たいてくれます。洗濯かて、せえ言うたら、してくれます。ほんまによう機嫌とります。」

 彼女は自分がどういう行動をとれば、夫がどのような行動をとるのかを深く理解しているのです。それが分かるまでは、夫の欠点というものが嫌で嫌で仕方がなかったことでしょう。ですがある時点から、「私がこう動けば、夫はこうするのではないのか」という像がだんだんと明確になっていき、自然と対処できるようになっていきます。そして気持ちの面でも、そうした行動にいちいち「またか」と呆れながらも、どこかでは「いつもの事だろう」と思うようになっていくのです。その証拠に、あれ程お互いを罵り合っていたにも拘わらず、作品の最後では、2人はあたかも打ち合わせをしたかのように、オーバーなリアクションで著者に別れを告げています。そしてこの様子を見ていた著者は、良くも悪くも「似合いの夫婦」と評さずにはいられず、この光景を客観的に見ている読者は、滑稽さを感じずにはいられなくなっていくのです。

注釈
※妻の話では、その温泉は子どもをつくるのに良いとのこと。子宝に恵まれていなかった夫婦は、そのためにそこを訪れていたのです。

2013年10月19日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版5)

 ヘレン・ケラーという人物は幼い時に重い病気を患って以来、視界を遮られ、音すらも聞こえない、現実との接触を極端に制限された世界の住人となってしまいました。両親の方でも、そんな彼女を哀れんで、彼女の言うことはなんでも聞いてしまいます。その結果、彼女は孤独な世界の暴君となってしまったのです。
 そんなヘレンを多くの人々が暮らす、色と音のある世界へと導いていった人物こそ、彼女の教育係として任命された、アン・マンスフィールド・サリバンその人でした。サリバンはヘレンの教育係になってたった2年のうちに、言葉というものの概念、色や音の存在、話すという事を教えてしまったのです。それらは全て、多くの人々が彼女に求める事は不可能と考えていたものばかりでした。
 ですが、サリバンは一体どのようにしてヘレンを教育していったのでしょうか。ここでは本書を通して、サリバンが具体的にどのような方法によって彼女を教育していったのか、どのような指導論のもとにその方針を立てていったのかを見ていきたいと思います。

 ヘレンとサリバンがはじめて出会った日、ヘレンはサリバン目掛けて勢い良く突進し、次の瞬間には彼女の服や顔やバッグを触り、バッグを取り上げて中を見ようとしました。これは以前、家に来客した人々がバッグにヘレンへの飴やお菓子等のお土産を入れていた事からそうしているのでしょう。ですがここで注意しなければならないのは、彼女は単純に飴やお菓子が欲しいからバッグを開けようとしたのではなく、バッグの中には自分の好きな何かが入っているのではないかという好奇心から開けようとしているのです。
 しかし彼女のお母さんはそんな事などつゆ知らず、バッグを取り上げようとしました。これにはヘレンも腹を立てます。ですが、彼女が何故バッグを開けようとしたのかを見抜いたサリバンは、バッグの代わりに腕時計を差し出し、彼女の好奇心を満たしていったのです。この思惑はうまくいき、騒ぎは静まったのでした。

 こうした経験からサリバンは、ヘレンを教育するにあたっての最大の問題というものは、物理的な面ではなく、精神的な基質、未熟さに問題があるのではないかと考えていきます。先ほどの場面で好奇心を抑えられず、否、抑える事を知らずバッグを見てしまったのはまさに良い例でしょう。
 ですが、果たして本当に精神的な問題だけだとこの時点で判断する事は正しかったのでしょうか。表現だけ見れば、ヘレンは知的障害を抱えた、物理的な欠陥をもった少年少女たちとあまり変わりません。もしも私達がなんの予備知識もなく、ヘレン・ケラーのような、人のバッグを勝手に取ったり手であちこちを触っている少女を目の当たりにした時、まず脳の障害を疑う事でしょう。

 しかしサリバンの問題の絞り込み方は、次の場面を読んだ時、正しいものであったと私達は理解するでしょう。ある時、彼女は幼稚園で使うビーズを思い出し、ヘレンと共にビーズを通す仕事をします。ヘレンはこの仕事を素早くやってのけたといいます。
 またこのとき、サリバンはわざと糸の結び目を小さくつくり、ビーズを通してもスルスルとぬけるようにしておきました。ですが、ヘレンは糸にビーズを通した後、それを結んで問題を解決していったのです。彼女には私達と同様に、物事の構造を理解し、十分に扱う能力があります。もし彼女の脳に欠陥があるのであれば、糸にビーズを手際よく通したり、ビーズを結んで問題を解決する事が出来なかったでしょう。

 よって、ヘレンの教育における問題というものは、好奇心を抑えられない、社会性が乏しく誰がきても自分の我儘を通そうとする精神的な基質にあるのです。

2013年10月17日木曜日

琵琶湖自転車旅行のお礼など

 不肖ながら、先日コメント者とその親戚の方々との自転車旅行に参加させて頂いた事を、読者の方々に報告します。またそれと同時に、旅行に携わった方々へのお礼をこの場を借りてさせて頂きます。

 今回は琵琶湖を1泊2日でまわりました。空は晴天に恵まれ、風は秋らしく涼やかに吹いており、湖は穏やか、といったように実に素晴らしい環境で走ることが出来たのでした。
 道中の道は険しいものではありませんでしたが、日頃運動不足の私はついていくのがやっとで、メンバーには多少の迷惑をかけたのかもしれません。ですがそんな事を少しも気にもせず、(私の事だけではなく)様々なミスやアクシデントを笑って済ませてくれる、そんな人柄にあらゆるところで大いに救われました。
 又、病気を患っておられながらも、ホテルの前で出迎えてくれたHさんとK夫人。夫人とHさんのお陰で、長い道のりをかけてホテルに着いた私達の喜びは更に大きいものになりました。

 そして私にとって今回の旅行というものは、そうした良き思い出をつくれた反面、心身共に課題を発見できたものでもありました。
 幾らメンバーの人柄に助けられたとは言え、基礎的な体力づくりを怠っていい理由にはなりません。まずは休日の朝にランニングをすることを習慣づけるところからはじめる事を、ここに言明しておきます。
 更に、旅先での自己の管理、安全の確保には物事を見る力(認識論)が必要不可欠です。よって、現在課題として与えられている、『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』を誰よりも深く理解し、年内に終わらせる事も記しておきます。

 最後になりましたが、今回誘って頂いたコメント者と、いつも粗末な文章を読んで下さっている読者への感謝を述べて、締めくくります。

2013年10月8日火曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版4)

 この著書ではタイトルにもなっている通り、ヘレン・ケラーを実際に教育していったサリバンのはじめの約2年間の実践記録(※1)を中心にまとめられています。
 皆さんも御存知かとは思いますが、ヘレン・ケラーという女性は幼少の頃に重い病気の為に、唖、盲、聾という3つの障害に心身共々苦しめられ、人間的な生活を阻まれてきました。ところがサリバンが彼女の教育を担当してから、たった2年間のうちにそれらを乗り越えてしまい、殆ど不可能だと思われていた言葉を話すまでに至りました。これは単純に彼女とサリバンとの相性が良かったからではなく、サリバンの人間観、及びその指導方法が人間一般を正しく理解していた事、更にヘレン・ケラーの、普通の子供とは違う特殊な面を正しく捉えられていた事によるものなのです。
 そこでここでは、サリバンがどのように人間一般を、ヘレン・ケラー個人を理解しており、そこからどういう指導を具体的に施していったのかを見ていきたいと思います。

 彼女が生涯の生徒とはじめて出会ったのは1887年の3月3日の事でした。この時、サリバンは熱い期待を密かに感じながら、ケラー家の門をくぐっていったのです。
 すると突然、何者かが突進してきました。ケラー大尉が抑えてくれていたから良かったものの、何もなしでは突き飛ばされていたところでした。これがヘレン・ケラーその人でした。そしてサリバンは彼女に突進された瞬間に、ある大きな違和感を感じたことでしょう。というのも、彼女はヘレンに会う以前、ローラ・ブリッジマンがパーキンス盲学校にきた時の事をハウ博士が書いたレポートを読んでいます。そこから彼女は、ヘレン・ケラーを「色白くて神経質な子ども」ではないのかと想像していたのでした。つまり、彼女はそれまで仮定してたヘレン・ケラーという少女における仮設と、それへの対策をこの時点において殆どなくしてしまった事になります。

 ですがサリバンはなおもヘレンを観察し、彼女には「動き、あるいは魂みたいなものが欠けている」(人間的な表情のつくり方、仕草ができない。めったに笑わない等。)事を発見します。どうやら彼女における問題というものは、身的なもの以上に、心的なもののほうが欠けているからこそ、起こっているようなのです。
 そこでサリバンは、「ゆっくりやりはじめて彼女の愛情をかちとる」という大まかな方針を立てて問題に対処しようとしました。はじめて出会った日が3月3日で手紙の日付が3月6日ですから、驚くべき速さで解決していっている事が理解できます。ですが、何故殆ど人間的な感情を持ち得ない彼女に対して、ゆっくりやっていけば愛情を勝ち取れるのか、大きな疑問です。

 更に別の疑問が頭をよぎります。サリバンは上記の方針を打ち立てた後、ヘレンに指文字を教えようとします。ヘレンが彼女の持ってきた人形に興味を持とうとしている時、手にゆっくりと「doll」と書きました。そして人形を指して頷き、「あげる」と合図したのです。(※2)彼女はやや混乱しながらも書きかえし、人形を指しました。そこでサリバンは人形を手に取り、もう一度綴れらせてから与えようとします。ところがヘレンは急に怒りだしてしまいました。彼女の情報というものは、その障害の為に物理的に大きく制限されています。そこでその交渉の手段も、結果として大きく制限されてしまい、彼女の望んでいる反応以外のもは拒否のものと捉えれてしまい、人形を取り上げられると思い込んでしまったのでしょう。
 こうして手に付けられなくなっていった彼女を、サリバンは別の方法によって教育していこうとします。人形を返さない儘、今度はケーキで同じことをしたのです。ヘレンは、はじめこそ強引に取ろうとしたものの、真似をしないと貰えないことを察するとすぐに回答を示し、ケーキを平らげてしまいました。ですが彼女は何故、はじめと同じように暴れてでも、自分のやり方を突き通さなかったのでしょうか。(仮説としては、その次の日でも、似たようなやり取りが行われ、この時もヘレンは不満ながらもサリバンの要求をのんでいます。恐らく、欲しい、食べたいという欲求が従いたくないという欲求と葛藤した末に言うことを聞いているのではないでしょうか。)
 事実、彼女の方でも言うことは聞いたものの、いつもとは違いうまくいかない事にもやもやしはじめたのか、階段をのぼり、その日降りてくることはなかったといいます。

 最後にサリバンは彼女とともに、糸にビーズを通す仕事をしました。サリバン曰く、速いスピードで通し、問題も自身で解決していった(※3)といいます。彼女の知能というものは、私達のそれとはなんら変わりはないのです。

 こうした事をゆっくりやっていくことで、サリバンは彼女の愛情を少しずつ勝ちとっていこうとした(?)のでしょう。

脚注
1・リバンの母親代わりである、ホプキンス夫人に宛てた手紙。

2・ヘレンの交渉において、頷くということはあげることを意味します。

3・サリバンがわざと大きな結び目をつくらずするするとビーズが抜けていっていました。そこでヘレンはビーズを通しそれを結んで解決したのです。

2013年9月29日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版3)

 1887年3月3日。この日、アン・サリバンは熱い期待の中、生涯の生徒となるヘレン・ケラーとはじめて顔を合わせました。そして彼女はヘレンと同じ時を過ごしていくうちに、ある違和感を感じていきます。というのも、ヘレンには普通の7歳前後の子供と比べて、「動き、あるいは魂みたいなもの」が欠けていたのです。つまりサリバンは、彼女の表情が乏しさ、何かぼんやりしたところがあるところをここで指摘しています。そしてこの違和感はすぐさま彼女の問題意識として浮上し、そこから彼女の教育に対する重大な欠陥を見つけていったのでした。

 それは「身体的な障害という物理的な障壁があるために、子供らしい内的な衝動を抑える、発散する術がない」というところにあります。通常7歳前後の子供というものは、自分の足で思いっきり大地を蹴ったり、自転車を力いっぱい漕いだりして、自身の内から湧き出てくる衝動を発散する事ができます。ところがヘレンの場合、盲、聾という障害の為に、それが出来ないどころか、知る事もできません。
 またそればかりか、そうした障害は彼女の「内的な衝動」を間接的にも発散させにくくさせてしまっています。というのも、ヘレンの世界観というものは、障害がある為に外界からの情報が極端に制限されている故、私達よりも非常にぼんやりとした、観念的なもので出来上がってしまっているのです。(彼女の表情が乏しいのはその為です。)ですから、彼女の表現方法も私達のそれとはかけ離れた、極端なものになってしまっています。
 例えば、彼女がサリバンの持ってきた人形に興味を示した際、サリバンは彼女の掌に「doll」と綴り、人形を指して頷きました。ヘレンの表現では、頷くというのは「あげる」ということを意味します。そして彼女はサリバンの真似をして「doll」と綴り人形を指さしました。その後、サリバンは人形を手に取りましたが、彼女曰く、もう一度上手にかけたらあげるつもりでいたのです。ところがどういうわけか、ヘレンは人形を取り上げられると思い、急に怒りだしました。これはヘレンの表現の範囲が非常に狭く、彼女の望む範囲の表現以外は全てノーとして捉えられてしまうという性質からきています。もしこれが私達であれば、自身の理解できない表現を見てとった時、「これは何を意味するのだろう」と多少なりとも考えるのでしょうが、彼女には外界の人々の反応を知るすべがあまりにも少ないので、彼女のなりの、かなり限られた表現の中で他人の行動を受け止めていくしかなのです。

 こうした事情からサリバンはヘレンを教育するにあたって、「彼女の基質(内的な衝動)を損なわずに、どうやって彼女を訓練し、制御するか」という目的論を獲得していきました。そして辿り着いた方法論というものが、「ゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとる」というものでした。これは即ち、ヘレンのこうした極端な表現方法を正しく理解しながらも、人間的な表現や振る舞いといった社会性を教え身につけていってもらう、ということを意味します。そうして社会性を身につけていく中で、サリバンはヘレンが自然と人間的な感情を自身に向けてくれる事を期待しているのでしょう。
 またここで注意しなければいけないのは、この時の教育の「主体」というものは、あくまでヘレンにある、ということです。というもの、サリバンは自身の方法論を述べた後、こう付言しています。

力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。

 第2文で、あまりにも人間の土台から逸れた行いには力をもって制御するとは言いながらも、サリバンの基本的な指導方針は第1文にもあるように、あくまでもヘレンの側に教育の主体はあります。

 よってここでのサリバンの大まかな方針としては、ヘレンの意思を基本的には尊重しつつ、彼女を理解していきながらも、社会性を身につけていく、というものなのです。

2013年9月24日火曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版2)

 サリバンがヘレン・ケラーとはじめて出会ったのは、3月3日の事でした。驚くべきことに、彼女はこの日のうちにヘレンの教育に対する重大な欠陥を見つけ出し、多くとも数日のうちに大まかな方針を決めていったのです。

 そしてその重大な欠点とは、精神的な部分にあるのでした。というのも、彼女は他人の荷物を勝手に覗く、触れる、触るものはなんでも壊す、その表情は魂みたいなものが抜け出ている、虚ろである等といった、とても7歳前後の少女とは思えない奇行をとるのです。
 こうした事実からサリバンは、彼女が「子供特有の内から湧き出る衝動」によって振り回されていることを指摘しました。通常、彼女のぐらいの年齢の子供達は、世界のあらゆるものごとをその小さい身体で力いっぱい感じ取る事ができます。例えば、広々とした公園や学校のグラウンドを駆けまわったり、ブランコを大空へ飛び込むように大きく漕ぐことによって、世界の大きさを体感しようとします。まるで、彼らの小さな身体に潜む、大きな何かに突き動かされるようにエネルギーを使い果たそうとするのです。ところがヘレンの場合は、そうした衝動が他の子供達と同様にあるにも拘わらず、それをうまく発散することができません。またそれを知る術もないのです。ですから「彼女の休息を知らない魂は暗黒の中を手探りする」しかありません。それがどのようなものか、なんの為に使うのかを知る事もできないままに……。ですから、彼女は空虚な表情で、あらゆるものを手で触り、壊すことしかできないのです。

 そこでサリバンは、ヘレンの「内的な衝動を失うことなく、効率よく発散させていく」(※)という目的論を立てて、問題の解決に取り掛かっていったのでした。そしてその解決方法が下記にあたります。

 私はまずゆっくりやりはじめて、彼女の愛情をかちとろうと考えています。力だけで彼女を征服しようとはしないつもりです。でも最初から正しい意味での従順さは要求するでしょう。

 彼女は上記での目的論に対して、「ゆっくりやりはじめて愛情をかちとる」という方法論にたどり着きました。そしてその方法論の前提として、ヘレンの従順さ、服従する事が要求されています。
 ここで注意しなければならないのは、この「服従」という言葉に含まれれる「認識」というものは、普段私達がイメージしているそれとは異なった内実になっている、ということです。ここ述べられている「服従」とは、虐待している親たちのような、全面的な降伏を意味するのではありません。あくまでも、人間の社会的なルールに逸れた場合、それを強制するといった意味で使われています。ですから彼女の「服従」とは、暴力や支配が目的になっているのではなく、最低限の社会性をヘレンに持ってもらうことが目的になっているのです。
 そうして培っていった社会性は、彼女の人間的な感情の土台にもなっていきます。何故なら、私達の感情というものは、社会を生きていきた中で育まれてきた、経験的なものなのですから。例えば、ある時点までは、「子供を大切だと思っている親が、自分を叱る」という事ができなかったとしても、何度も親に叱られ続けたり、自分がその当時の親の立場を経験していく中で、「大切であるからこそ、かえって叱らなければならなかったのだ」ということに気づいていくはずです。そしてこのヘレンも、はじめはサリバンが叱ったり、征服する理由がわからずとも、正しく社会性を身につけていく中で、自身への愛情が裏に潜んでいた事が理解していく事でしょう。

 しかしここで気をつけて頂きたいのは、ここではヘレンを征服することよりも愛情をかちとることが積極面として表れている、ということです。
 この日以降の手記を見ていただければ理解して頂けると思うのですが、ここでのヘレン・ケラーを取り巻く環境というのは、サリバンとヘレンの兄のジェイムズ以外、彼女に逆らうものが何もありません。よって、彼女の身の回りには、彼女の現在のあり方を変えようとする環境と現在のあり方を受け入れようとする環境とが存在していることになります。そしてこの2つの環境のうち、果たして彼女はどちらを選ぶでしょうか。この続きは、3月11日の手記にて論じさせていただきたいと思います。

脚注
※本文中では、「彼女の基質をそこなわずに、どうやって彼女を訓練し、制御するかがこれから解決すべき最大の課題です」とある。

2013年9月14日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月13日(修正版)

 前回の手記では、ヘレン・ケラーの社会性があまりにも未発達な為、彼女の内的な衝動を抑えてく事が困難である。だからこそ征服していくことで強制的に人間的な土台を形成していく必要がある、という事が書かれてありました。
 そして今回のそれでは、どうやらこの試みはうまくいっているようです。彼女は「つたみどりの家」に出入りしている人々の仕草や身振りを、徐々に真似をしていっていることがそこには書かれてあったのでした。

2013年9月7日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月11日(修正版)

  前回までの手記では、これまでサリバンが持っていた〈ゆっくりと教育していく中で愛情を勝ち取る〉という方法論にどうやら問題があるため、ヘレンの教育は滞っている、という事が書かれていました。そして今回彼女は、ある大きな決断を下す事になるのです。
 なんと彼女はヘレンを親元から離し、2人だけで「つたみどりの家」という場所で暮らすことにしました。そしてこの決断はサリバンの内面を考えても大きな 決断であったと言っても過言ではありません。と言いますのも、これまで持っていた方法論を完全になげうって、ヘレンを〈服従させる〉為に「つたみどりの 家」にうつったのですから。彼女曰く、そうする事こそが知識と人間的な精神を勝ち取る為の大きな一歩だというのです。

 しかし多くの読者からしますと、ある疑問が浮上してくるのではないでしょうか。それは、何故ヘレンを〈服従させる〉事がそれらに繋がっていくのか、ということです。
 ここでひとつ訂正させていただきたいのですが、以前の考察(1887年3月6日の記事)において、私はヘレンが服従を覚える事がサリバンへの愛情(人間的な感情)が芽生える直接的な原因になる、というような書き方をしていたかとは思いますが、それは間違いでした。ではこの問題を解くにあたって、はじめに私たちはどのようにして愛情を、人間的な精神を培っていったのかということを考えなければなりません。
 結論から申しますと、私たちはそれらを社会に関わっていく中で培っています。例えば小学生にも満たない年齢の子供達は、自分の知らない他人が近づいてくるとよくお母さんやお父さんの後ろに隠れてしまいますが、あれははじめて対峙する人物にどのようにして関わればよいのかわからないからこその反応でしょう。またちらちらと親の態度を伺いながら、少しずつ関わっていこうという態度を見せる場合もあります。これは、子供達は親とその他人の関係を自分達なりに見極める事によって、他人との関わり方を学んでいっているのです。
 事実、私は両親の振る舞いを見ていた為に、幼少の頃、祖父の事が嫌いでした。両親は本人の前では口をつぐんではいたものの、家の中では祖父への愚痴を常々こぼしていました。そして私の方でも、はじめの頃は祖父の事を好いていましたが、徐々に両親と祖父との社会的な関係が見えはじめるにつれて、一緒に遊ぶことをなんとなく断ってみたり、突然避けたりしていたように思います。その中でいつしか私の心の中では、祖父という人物は私の両親を困らせる悪者であるという像が深まっていき、両親と同じく祖父を避け、或いは両親以上に直接的に祖父を嫌っている態度を示していったのです。(もっとも、今思えば少々可哀想な態度をとってしまったとは思いますが。)
 ここで注意して頂きたいのが、私の両親の祖父に対する表現というものが、私個人に対する認識に非常に大きく影響していている、ということです。どうやら子供というものは両親をはじめとする周りの人々の振る舞いや態度を見て、それらをはじめは表現をそのまま受けとり、次にその内実(認識)を埋めていっているのです。

 そして、サリバンも恐らくは子供のこうした性質を知っていた上で、はじめはヘレンもこうした子供らしい敏感さによって、彼女が自分にどのように働きかけているのかを少しずつ理解していってくれると考えていたのでしょう。ですが、ヘレンがあまりにも社会とかけ離れ、長い間、家族に守られた自分だけの世界に篭っていた為に、そうした能力すらも欠如していたのです。ですからサリバンとしては、一度そうした環境から離し、服従させる事で、強制的に自身の表現を模倣させる必要があったのでした。果たして彼女のこの試みはうまくいくのでしょうか。

2013年8月31日土曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月11日(未完成)

 前回までの手記では、これまでサリバンが持っていた〈ゆっくりと教育していく中で愛情を勝ち取る〉という方法論にどうやら問題があるため、ヘレンの教育は滞っている、という事が書かれていました。そして今回彼女は、ある大きな決断を下す事になるのです。
 なんと彼女はヘレンを親元から離し、2人だけで「つたみどりの家」という場所で暮らすことにしました。そしてこの決断はサリバンの内面を考えても大きな決断であったと言っても過言ではありません。と言いますのも、これまで持っていた方法論を完全になげうって、ヘレンを〈服従させる〉為に「つたみどりの家」にうつったのですから。彼女曰く、そうする事こそが知識と人間的な精神を勝ち取る為の大きな一歩だというのです。

 しかし多くの読者からしますと、ある疑問が浮上してくるのではないでしょうか。それは、何故ヘレンを〈服従させる〉事がそれらに繋がっていくのか、ということです。
 上記の質問に答える為には、まずは現在の私達の人間的な精神というものが「どのように生成されていった」のか、という事を考えなければなりません。「生成」というからには、当然のことながら人間の精神というものが、人間が誕生した時点から私達の現在の精神のあり方がはじめからあった、或いは神様からある日突然授かったものであるということを主張したいわけではありません。それは猿から人間に近い猿へ、そこから人間へと物質的に進化していく過程の中で、精神もまた物質の必然性を受けて発展していったに違いありません。

 例えば、人間がまだ誕生して他の類人猿とそう変わらない生活をしていた頃、日本ならば無政府社会の時代においては、集団で狩りをしてはいたものの、たまたまその場にいた者同士が狩りをして生活をしていただけの単純な社会性しかありませんでした。ですので複雑な事を考える能力は低く、表情も動物に近かったのかもしれません。
 ところが、小国分立時代になると水田耕作がはじまります。そうなると人々は隣の者同士と協力し合い、作物を耕さなければなりません。ですから、個人個人がこれまでのように自由気ままに暮らしていては食料を枯らしてしまいかねませんので、他人を意識しながら暮らす必要がでてきたわけです。ここまできて、はじめて社会の土台ができはじめてきたと見て良いでしょう。そして隣の人々との関係を意識しはじめたことで、個人も相応の振る舞いをする必要が出てきます。体調が多少悪くても、作業が進んでいなければ仕事に出なければならない日があったのかもしれません。自分の家の食料が潤っていても、他の人々の食料がなければ働きにいかなればならない日があったのかもしれません。
 そして、こうした事情は時代が進むとより複雑になっていった事でしょう。小国がある程度大きくなると、今度呪術によって他の小国を支配しはじめます。当然支配されていった小国の人々としては、大きな顔をして歩いているわけにはいきません。例え、この頃の奴隷が非道な扱いをされていなかったのだとしても、支配している側の人々に譲らなければいけない場面も多少なりともあったはずです。この時、支配されている側の気持ちとしては、多少の苛立ちや腹立たしさがあったのかもしれません。
 このようにして、私達の精神というものは歴史による物質的な条件、社会の発展の中で徐々に生成されていったのです。そしてこれは個人においても同じことです。私達の現在の表情というものは、周りの大人達の模倣をすることで、その場に相応しい表情、振る舞いというものを学んでいき、徐々に自分のものとして取り込んでいきます。

 ところが、ヘレンの場合はこれまで自由気ままに生きてきた為に、他人の真似をするということはなく、あくまで自分流のやり方でものごとを進めようします。これでは人間の精神が彼女に宿るはずもありません。幾らゆっくりやろうとも、サリバンへの愛情が生まれないのもその為だったのでした。そこでサリバンは彼女を両親のもとから離し、強制的に模倣させることで人間の精神を育んでいこうとしたのです。果たして、彼女のこの試みは上手くいくのでしょうか。

2013年8月29日木曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月月曜の午後(修正版)

 前回の手記では、サリバンがヘレン・ケラーと出会った数日間の出来事と、その間に固められていった、〈子供の内的な衝動を効率よく発散させる為に、訓練を行う中でゆっくりと愛情を勝ち取っていく〉という彼女に対する教育方針とが記されていました。そして今回は、実際の彼女に対する教育の様子が描かれています。

 それは朝の食事風景が舞台となっていました。というのも、ヘレンの食事作法というものは凄まじいもので、自分のもの他人のものに拘らず、気に入ったものが出てこようものなら手づかみで漁る、と言うものだったのです。そしてサリバンとしては、こうした彼女の衝動を抑えながら人間的な食事作法を教えていく必要があります。
 ところがサリバンが彼女の皿に手を伸ばすことを許さなかった為に、ヘレンは衝動を抑えるどころか爆発し、蹴ったり叫んだり、サリバンの椅子の足を引っ張ったりしました。しかしサリバンもサリバンで、彼女がいかに喚こうが叫ぼうが、絶対に自身の皿に手を入れさせる事はありません。またナプキンをたたむ際も、同じような事が起こりました。ヘレンはナプキンをたたむ事なくその場を去ろうとしたので、サリバンが彼女に自らそれをたたませようとしたのです。

 上記の事件があった後、サリバンはベッドに身を投げ出し、思う存分泣いて気分を晴らしたといいます。この時、彼女の脳裏では、それまで自分が考えた〈ゆっくりと愛情を勝ち取っていく〉という方法論が崩れかけていった事でしょう。それは下記の引用を見ればよく分かるかと思います。

 私が教えることのできる二つの本質的なこと、すなわち、服従と愛とを彼女が学ぶまでには、この小さな女性と今日のような取っ組み合いのけんかを何回もやることでしょう。
 さようなら、ご心配なく。私は最善を尽くすつもりです。あとは人間にできないことをうまくやってくれる何かの力にお委せするだけです。

 ここでは以前の彼女の方法論にはなかった、「服従、征服」といった概念が登場してきました。そして前回の手記では力だけで彼女を征服はしないと述べていましたが、この前半の文章では全く対照的なことが書かれています。また、後半にはそれまでの方針を捨て去るような事を示唆する事が綴られているのです。さて彼女のは自身の教育方針をどのように軌道修正していったのでしょうか。それはどうやら次回の日記によって明確に記されているようです。

2013年8月22日木曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日(修正版)

 この作品はタイトルにもある通り、アン・サリバンによるケレン・ケラーへの実践記録(※1)を中心にして、彼女がどのように言語を習得していったのか、またそうした教育を通して、どのように人間としての精神を培われていったのかということが描かれています。というのも、皆さんもご存知の通り、ヘレン・ケラーという女性は幼い頃に重い病気を患ってしまい、以来耳が聞こえず目が目が見えず、よって言葉すらも覚える事が出来ない状態でした。周囲の人々はこんな彼女の様子を見て、きっとそれも仕方のないことであると諦めていたことでしょう。ところが、アン・サリバンが彼女の家に訪問してからたった2年のうちに、その状況は打ち破られてしまうことになるのです。彼女は盲、聾というハンデを乗り越えて、言葉を理解し、更には自分の口で会話する事もできるようになっていったのでした。そしてその背景には、精神的な成長があることも見過ごせない事実のひとつです。ヘレンは言葉を理解する以前は、短期でわがままで自分を抑えることを知らない野生児のような子供でした。それがサリバンの教育を受けていく中で、私達と何ら変わらない、若しくは私達以上の教養ある人々の中の1人として成長していったのです。
 そこでここでは、ヘレンがサリバンの教育を受け、言葉を理解し、自身で使っていけるようになる中で、彼女の精神というものがどのように変化し、人間的なものへと転化していったのかを見ていきたいと思います。

 サリバンがヘレン・ケラーと出会いを果たした1887年、3月3日。彼女はこの日から多くとも数日のうちに、ヘレンの教育に関する重大な欠点を見抜いていました。というのも、ヘレンは他人のバッグやプレゼント(キャンディ)を勝手に触る、探す。活発でとどまる事をしらないけれども、人間的な表情とは少し遠いそれをする等、とても7歳前の子供とは思えない(※2)行動や顔つきをしていたのです。彼女には明らかに精神的な欠陥があるのでした。
 通常、子供というものは外を思いっきり走ったり、友達と遊んだりする事によって、自身の内から湧き出る衝動を発散する事が出来ます。ところがヘレンの場合は、自身の障害の為にそれらの事が出来ないどころか、知ることすらないのです。よって彼女は決して解消される事のない内的な衝動を、自身の気の向く儘に少しずつ発散していくしかありません。また、彼女の両親が道徳的な人物でありながらも、ヘレンの障害が彼女へのしつけを困難にさせている事も見過ごせない点として挙げられるでしょう。

 そして上記を踏まえた上で、サリバンはヘレン・ケラーの教育において、〈彼女の内的な衝動を失わせる事なく、それを彼女自身に制御させ、いかに効率的に発散させていくか〉という目的論を獲得していったのです。ここで一部の人々からは、「内的な衝動が彼女の教育やしつけを妨げているのであれば、それを取り除いた方が良いのでは?」という声もあるやもしれません。確かにヘレンの場合、子供らしい内的な衝動が裏目に出ていることは明白です。ですが、子供のこうした衝動こそが、彼らを教育する上で欠かせない事も事実でしょう。例えば皆さんのうちにも、子供の頃友達よりも多く漢字を覚えて自慢したいという衝動から手が黒くなるまで字を書いた、或いはなかなか出来ない鉄棒の逆上がりを日が暮れるまで練習したといった経験を持っている方は少なくないはずです。子供の内的な衝動そのものが教育にとって害悪なものではなく、彼女の発散の仕方が悪いから害悪になっているだけなのです。
 またサリバンは自身の立てた目的論を達成する為に、力のみで征服しようとするのではなく(ここには、人間の道に逸れた場合にはそうするという含みがあります)、「ゆっくりはじめて、彼女の愛情をかちとろう」という方法論を立てていきました。(ここからは仮説でしかないのですが、)これは恐らく、はじめは内的な衝動を抑える訓練ばかりで不満が募るばかりかもしれないが、やがて正しく解消していく事を覚えれば、自然と自分への愛情が芽生えてくるということなのではないでしょうか。
 例えば、幼い頃に習い事をした事のある方なら共感して頂けるとは思いますが、はじめは両親や先生から嫌々させられていた硬筆や剣道でも、ある日ふと褒められるようになり、やがては自ら先生に自分の字や技を見せるようになっていったという経験はないでしょうか。嫌々していた事でも、「褒められる」等して子供らしい欲求を満たされる事で、それが快感になっていった、という構造がそこにはあります。そして快感に変わっていく過程の中で、それまで怖いだけの教育者(両親、先生)が自分の欲求を満たしてくれる存在へと転化していったのではないでしょうか。そしてサリバンの場合も同じです。はじめは嫌われ、勉強が嫌いになったとしても、彼女はヘレンの「褒められたい」という子供らしい欲求を満たしていく事で、自身への愛情が芽生え自ら進んで勉強していくようになっていくことを期待しているのです。

脚注
1・正確にはサリバンの母親代わりである、ホプキンス夫人に宛てた手紙。彼女は夫人にヘレンの教育の様子をこまめに知らせていたようです。

2・サリバンと出会った時、ヘレンは満7歳になる3ヶ月前であった。

2013年8月1日木曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年4月3日

 今回の手記では、主にヘレンの日頃の様子と単語学習の成果について書かれています。その中でも単語学習について、彼女は動詞を含めた多くの単語をこの時点で知っているというのです。ですがサリバン曰く、彼女の「言葉」という概念は、まだまだ曖昧で、それぞれの意味自体もあやふやなものなのだと言います。彼女が自身から「言葉」というものを理解するには、もう少し時間がかかるようです。

2013年7月29日月曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月28日

 前回までの手記まででは、ヘレン・ケラーはサリバンの征服的な教育を受けることによって、それまで動物的であった「認識」から人間的なものの見方へと移行していっている状態にありました。そして今回のそれでは、その発展が順調良く進んでいる事が綴られているようです。
 ヘレンはそれまで、食事中ナプキンを首にナプキンをつけることを頑なに拒んでいました。これはサリバン曰く、身の回りで何が起こっているのか確かめるべく拒んでいたのだというのです。(彼女にとっては触覚だけが唯一、自分と世界とを繋ぐ器官なのですから、このサリバンの鋭い考察には頷けるものがあります。)以来、彼女はナプキンを首にかけない代わりに、顎でナプキンをとめて食事をとるようになりました。ですがヘレンに人間としての土台を与えようとしているサリバンとしては、ナプキンをかけさせる必要があります。そこで彼女は、ある時、ヘレンにナプキンを首にかけさせることを再び試みました。はじめはご褒美のケーキがない事からそれを拒んでいましたが、その欲求を満たしてあげる事でこの試みは成功しました。ヘレンはとうとう、それまで持っていた野性的な習慣を捨て去り、人間的な習慣を採用していく段階にまできたのです。

2013年7月28日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月20日

 前々回の手記では、サリバンはヘレン・ケラーを「ただ快不快があるだけの動物的な」子供であると規定し、人間的な土台の部分から再教育するといった事が書かれていました。またその際、サリバンは教育を「主体」において彼女を導いていくのではなく、あくまで彼女の「知性」を「主体」とし、教育によってそれを導く立場をとることも述べてしました。そして今回はそれに対する、サリバンの実践の成果が書かれています。
 そこには驚くべきことに、それまで野性的で快不快の感情だけしかなかったケレン・ケラーが、なんと人間的な感情を「獲得していっている」といった事が書かれているではありませんか。(※)ここで注意しなければならないのは、彼女の感情というものは「獲得した」のではなく、まだ発展の段階にある、ということです。
 サリバンと2人で暮らしはじめた頃、ヘレンは彼女の征服に対して執拗に拒否し続けていました。ですが徐々に抵抗をやめていき、受け入れていくことになります。やがて服従を受け入れていった彼女は、サリバンの行動を模倣する事でその方法を学び取ろうとしていったのでしょう。そして前回の手記にあった他人の模倣という行動は、そうした服従の延長にあったという事になります。こうした模倣の結果、彼女は人間的な表情や行動をとるようになっていったのでしょう。つまり彼女の進歩というものは、完全に人間的な感情を獲得したと見るべきではなく、模倣が内実を含み、人間的な感情を獲得しかけていると見るべきなのです。とは言え、これは彼女にとって大きな進歩であるとともに、サリバンの立場とその理論が確かであったことの何よりの証拠になっているのは疑いようのない事実なのです。


※私が手紙を書いていると、彼女は私のそばに坐って、はれやかで幸福そうな顔付きをして、赤いスコットランドの毛糸で長い鎖編みをしています。
※今では私にキスもさせまし、ことのほかやさしい気分のときなら、私の膝の上に一、二分のあいだ乗ったりします。でも、私にお返しのキスはしてくれません。
※彼女は犬のそばに腰をおろすと、犬の足をいじりはじめました。最初は私たちは彼女のしていることが分かりませんでした。でも、彼女が自分の指で「d-o-l-l」と綴っているのを見て、私たちは、彼女がベルに綴りを教えようとしているのだとかわりました。

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月13日

 ここではサリバンがヘレン・ケラーとの2人暮らしにおいて、彼女が自分たちの家を訪問する人々の身振りを真似たり、授業が終わると嬉しそうにしている事等が綴られています。

2013年7月24日水曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月11日

 前回の手記までは、サリバンはヘレン・ケラーを「人間的な感情の機微に欠けている」と規定しながらも、言葉の節々では彼女を普通の少女として教育しようとしていた事が伺えました。


 ところが今回はどうやら事情が違うようなのです。サリバンは彼女と過ごしていく中で、彼女の欲求が成長に連れて大きくなる一方でその癇癪も大きくなっている事、自分の望みが叶えられるまでは決して争うことをやめない事、愛撫する事を拒む事(その他の、彼女のためにする行動は受け入れる)等から、ヘレン・ケラーという少女は子供らしい(人間らしい)感情に訴られるものをひとつも持っていない、ただ快不快があるだけの動物的な人物なのだと規定したのでした。そして彼女は普通の少女と同じく教育するといった方針を改め、ヘレン・ケラーを土台の部分から再教育していくことにしました。ここでいう土台とは、彼女が生まれてから培ってきた、それまでの生き方や教育(?)といったものを指します。つまりサリバンは、ケレン・ケラーを動物的に育ててしまった両親のもとから離し、それまでの土台を捨て去らせ、2人で別の家で生活する事で人間的な土台を形成しようとしたのです。


 そして彼女はまた、こうした手段をとることで、ケレン・ケラーに備わっている「ある能力」を呼び起こそうと考えています。具体的な箇所は下記に記しておきました。

私たちは心のなかにある何か、つまり知識や行動のためにもって生まれた能力を頼りにするほかありません。その能力は、それが大いに必要となるまで、自分たちが持ち合わせていることに気づかなかったものです。

 この箇所は前回私が末尾に書いておいた、「人間にできないことをうまくやってくれる何かの力」と同じ意味を持っています。これらの彼女の言葉から察するに、サリバンはヘレン・ケラーにもともとから備わっている、「知性」を教育によって引き出そうとしているのでしょう。そもそも彼女がこれまでその「知性」を発揮する必要がなかったのは、そうする必要がなかったからに過ぎないのです。彼女の環境というものは、ものを考えたり自分の身体を動かしたりせずとも、召使や両親が大抵の場合、問題を解決してくれていたのでしょうから。そうした意味からも、ヘレン・ケラーはそうした環境から離れ、自身の頭と身体を動かす事によって、「知性」を呼び起こさなければならなかったのです。

2013年7月22日月曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月、月曜の午後

 前回の手記でサリバンはヘレン・ケラーを「知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女である」と規定し、今回のそれでは上記の理論に基づいた実践面について書かれています。
 結論から述べると、サリバンの試みは成功とはとても言えないものでした。彼女はこれまで甘やかされて育てられたヘレンを、普通の子どもと同じく、自分の食事に手を入れようとすれば叱り、またナプキンをたたませることを教育しようとしたのです。ですが、ヘレンはそうした彼女の試みに対して、強い拒否の反応を示しました。かと言って、それが完全な失敗とも言い難いものがあります。拒否をしたのものの、結果としてはヘレンは彼女の食事を食べることは出来ず、彼女の強制力によってナプキンをたたまざるを得なかったのですから。
 こうして今回の実践では大きな課題を残す事になったのですが、ここでサリバンは末尾に何か秘策があるとも感じられる、ある奇妙な一文を記してあります。

「あとは人間にできないことをうまくやってくれる何かの力にお委せするだけです。」

 一体、「人間にできないことをうまくやってくれる何かの力」とは何なのでしょうか。実はこの言葉については、次の日記に明確に記されていありますので、その説明も次回とさせて頂きます。

2013年7月21日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日

 この作品ではタイトルにもある通り、アン・サリバンによるヘレン・ケラーへの実践記録を中心にして、ヘレンがどのように教育されていったのかが描かれています。その中でサリバンは、彼女が人間的な感情を一切持ちあわせておらず、ただ快不快だけがある野生の動物のようであると規定しました。そしてこの野生児を制服をすることで教育の土台をつくり、言葉を獲得させることで知性をあたえていったのです。
 そこで、ここでは具体的にサリバンがどのようにして上記のような方針を固め、具体的な実践に至ったのかを彼女の記録のひとつひとつを見ながら確認していきたいと思います。

 サリバンとヘレンが最初に出会った日、サリバンは彼女がどのような人間であるのかをじっくり「観察」していました。ここで注意しなければならないのは、「観察」というとなんだか受動的な意味合いが強いようなイメージがありますが、彼女のそれはあくまで教育という実践を前提とした積極的なものなのです。というのも、彼女はヘレンに指文字を感じさせたり、ビーズを糸に通させたりして、彼女は何が出来るのか、何について興味があるのかを探し当てようとしたのでした。その結果、ヘレン・ケラーという女の子は知的ではあるが、人間的な感情の機微については他の子ども達に比べて乏しい少女であるという結論に至ったのです。

2013年6月28日金曜日

道は開けるーD・カーネギー

 本書は著者、D・カーネギーが夜間の成人クラスで「話し方講座」を開いている中で、「悩み」について研究し、そこから得た具体的な解決法が記されています。しかしそれらの解決方法は多種多様にあるものの、世にある多くのビジネス書や自己啓発の類のものとは違い、水面下にはある一般性によって繋がっているようなのです。ではその一般性とは、一体どのようなものなのでしょうか。

 はじめに著者が考える対象、つまり「悩み」とは具体的にどのようなものなのか考えていきましょう。とはいうものの、一般的に私達は「悩み」という言葉を聞くと、自分を不快にさせるもの、考えたくないもの、などのぼんやりとしたイメージを思い浮かべるものの、それがどういうものなのかを明確に答えることは難しいものを感じてしまうのではないでしょうか。ところが本著では、「悩み」についての構造、またそれがどういうものなのかを明確に規定しようとしている箇所があります。

「わたしが思うに、問題をある限度以上に考え続けると、混乱や不安が生じやすい。それ以上調べたり考えたりすれば、「かえって」※有害となる時期がある。」

※括弧書きは私自らつけたものであり、本書にはありません。

 つまり「悩み」とは問題を必要以上に重く受け止め、或いは考え続け過ぎてしまった為に、問題そのものが自分の頭の中で大きく膨らんでしまい、結果として不安や混乱を生じてしまう現象を指すのです。確かに会社の不当な扱いを受け、或いは学校で虐められて家族や友達にも相談できない人々というものはそのような構造を持っている事でしょう。ニュースでそのような話題を私達が冷静に見た時、「誰かに相談すればいいのに」、「そこまで苦しいのであれば辞めてしまえばいいのに」といった感想は心の何処かで持っているはずなのですから。ですがそれが出来ない当人たちは、既に問題が自分の頭の中で膨らみすぎていて、その混乱や不安の為に考えることすら出来ないのです。
 また上記の状態からも理解できるように、この作品で扱われている人々というのは、自身の事を客観視できず、悩みによって冷静な判断を下せなくなっていった、感情的な人々なのだと考えて良いでしょう。そして本書の目的は、こうした人々の不安や混乱を取り除き、冷静な判断を下せる状態まで持っていくことにあるのです。(ここで注意していただきたいのは、あくまでも問題を解決することそのものが目的ではないということです。本書で扱われている事は、あくまで異常な精神状態を正常なところにまで持っていくことにのみ、重きをおいているのですから。)

 では次にこうした対象(悩み)を取り扱うにあたって、それをどうする事、或いはどうさせない事が目的としてあるのかを考えていきましょう。前記しておいたように、本書では精神の異常な状態から正常な状態へ戻すことが目的のひとつとしてあるという事を記しておきました。ではもし仮にこの異常な状態を放置した儘、放っておくと自身にとってどのような損失があるのでしょうか。
 はじめに悩みからくる不安や混乱から、必要以上の付き合いを避け家の中に閉じこもる等して、精神的な健康を損なっていく事が挙げられます。次に思い悩むあまり、睡眠不足、運動不足に陥り、その為深刻な病気に発展していってしまった、等といった肉体的な健康を失っていく事が挙げられるでしょう。そしてこれら2つは独立したものではなく、互いに移行し合う性質を持っています。例えば上記で挙げた運動不足は、精神的に病んでいった結果、外に出なくなった為に起こりうる事もありますし、癌や半身麻痺等の重大な病気が精神に影響を与え、人や太陽を光を避けていくようになっていくということもあり得るでしょう。ですからこれら2つは互いに移行しあうという意味において、「健康を損なう」とまとめても良いでしょう。
 またそれらを悩んでいる時間そのものも、有限であり貴重な人生のそれを割いているという意味において、損失のうちにいれても良いでしょう。
 そしてこれらを損失させないようにするために、私達は悩みを早期的に取り除き、問題と向き合っていく姿勢を取り戻さなければならないのです。ですから本書での目的は、「健康や時間を損失させない」ということにあります。

 ここまで話が進んでるくと、漸くその具体的な方法論に話を移すことになります。冒頭にもお話させて頂いた通り、本書には実に様々な解決方法が書かれてあります。具体項目は下記に記入しておきました。

◯悩みの分析と解決法(紙に書いて悩みを整理する)
◯多くの悩みを締め出すには(もしも、と失敗した時の事を思い浮かべたときは、それがどれぐらいの確率(平均値)で起こるのかを考え、すぐさま追い出す)
◯悩みに歯止めをかけよう(長い時間悩んだときは、それが自分の貴重な時間をこれ以上割いて考えるべきことなのかどうか、再検討する)
◯百万ドルか、手持ちの財産か(自分が持っていないものよりも、もっているものの価値を考える)
◯レモンを手に入れたらレモネードを作れ(不利な条件を最大限に活用し、有利なものへと転じさせる)
◯死んだ犬を蹴飛ばすものはいない(不当な非難はしばしば偽装された賛辞である)
etc…

 一見雑多に見えてしまいますが、これらはどれも上記の対象論、目的論を含んだ上に成り立っています。そしてそれらを踏まえた上でこれらの各方法論をひとつにまとめると、「ものの見方を整える」ということになるでしょう。上記はどれもが、不安や混乱によって大きなっていったものを見方を変えていくことで整理、或いは縮小させていっているのですから。
 
 よって本書に書かれている事とは、〈悩みによって、健康や時間を損失させない為、ものの見方を整える〉ということが記されているのです。

2013年5月31日金曜日

人を動かすーD•カーネギー

  あなたが上司や部活のリーダーなど、人を先導する立場に立った時、或いは自分とは違う立場の人間と意見を交わしている時、部下がなかなか自分の言葉を受け 入れてくれず困ってしまった、話し合いが感情的な口論へと発展していってしまったという経験はないでしょうか。かく言う私自身も、昔大学のサークルで副部 長をつとめていた時に、部長と部活の運営について話していたにも拘らずどういうわけか激しい口論になってしまったこともありますし、現在でも似たような悩 みを抱えていました。
  と言いますのも、私は現在介護士として暮らしの生計をたてているのですが、ある利用者さんが私を含めた職員の誘導を促す言葉(私たちの世界ではこれを「声 かけ」と呼んでいます)をなかなか聞き入れてくれない時があり、その方に右へ左へ左へ右へと振り回されていたのです。半ば途中でその方に振り回されること も仕方がないのでは、と考えてしまうこともありました。
 しかし私は問題を客観的に観察し、「声かけ」に工夫を凝らすことで少しずつ問題を解消していきました。その方自身も(私はその場にいる限りではありますが、)今ではより穏やかな毎日を過ごしているように思います。
 ところで私が上記の問題に対して解決していった過程には、今思えばこの『人を動かす』の一般性が大きく横たわっていたのです。そこで今回は、若輩者の数少ない経験を踏まえながら本書を論じていきたいと思います。

 はじめに結論から言いますと、本書では〈人に意欲的に動いてもらうよう、相手の欲求を満たす〉と言う事が論じられています。

  この一般性というものは、フローレンス•ナイチンゲールの『看護覚え書き』の一般性にならい、抽出しました。この著書は彼女の看護経験から看護士が何を 扱っているのか(対象論)、それをどのような状態にもっていくのか(目的論)、またどのようにそうするのか(方法論)、という看護のあり方を一般化し、そ れに基づいて衛生看護を中心とした方法論が論じられています。そしてその一般性を下記に記しておきました。

〈生命力の消耗を最小にするよう、生活過程をととのえる〉

 次に私はこれらを対象論、目的論、方法論に分け、この形式を本書に適応させていったのです。

対象論→生命力
目的論→消耗を最小にする
方法論→生活過程をととのえる

対象論→人
目的論→意欲的に動いてもらう
方法論→相手の欲求を満たす

  ここで私が読者の方々に注意して頂きたいのは、この対象論にあたる「人」というのは人類すべての人々を指している訳ではありません。本文に「およそ人を扱 う場合に、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得てお かねばならない。」(p.28参照)とあるように、理性的な人々は対象としておらず、感情的な人々、ごく一般的な人々を対象として書かれているのです。
 そして私が携わっている利用者も、否、特に心身の崩壊が目に見えはじめている彼、彼女らは、通常の人々とは違い、理性による抑制がきかず、より感情的で落ち着いて考える事ができない人々と言わざるを得ません。
 
 次に、こうした人々に私たちはどのようになって貰いたいのか、つまり目的論について考えていきましょう。安直にタイトルのみを見れ ば、「動かす」ということに終止してしまうます。しかし本書には他にも、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」といった同じ概念の項目があ る事は見過ごせません。そしてこれらの項目は各その中にある章を見て察するに(笑顔を忘れない、心からほめる、議論をさけるなど)、方法論の束になってい るようなのです。またそれらは人に強制していない、結果的に他人が自分たちの思惑通りに動いた、誰かの意思によって動いているのではなくその人の意志で決 定し動いている、という点で共通しています。こうした点から、本書で述べられている目的 というものは、相手に「意欲的に動いてもらう」ことにある、という事が理解できます。

  ところが現実はなかなかそうはなりませんね。何故なら私たちの要望の中に、相手が不快に感じたり相手の立場や環境がそれを拒否させてしまったりするからな のです。本文の中にも、ショップ店員という立場から返品お断りを客に厳守させようとする女性や、こちらの強制的なもの言いに言う事を聞かない子供などが登 場します。
  私の場合もやはり同じでした。職員という立場から、私たちはその方につい強いもの言いで強制したり、こちらの都合ばかりを相手に述べてしまっていました。 ですから結果的にその方はほんらい私たちがその方に望んでいる姿を拒否するばかりか、一番望んではいない行動(他の利用者を非難する、暴言を吐くなど)を とっていくのでした。

 ではこれらの人々をどのように目的どおりの人に近づいてもらうのか、その方法について考えなければなりません。それは本文に明確な形で記されてありました。

「人を動かすには、相手の欲しているものを与えるのが、唯一の方法である。」

  今思えば、私はこれを読む以前に、問題の利用者さんに自然とそれを行っていたのです!まずその方が何を望んでいるのか、冷静に日頃の台詞を考えノートに書 き出しました。次に相手の不快な感情を起こさせる言葉は極力さけるように努めていったのです。例えば、「どうしてそういう事をするんですか?」や「私たち のいう事をきかないからそうなるんです!」といった台詞がそれに該当します。
そ して相手に自分がその方を気にかけている事を言葉や仕草で表現していきました。これは本文で言えば、1-2「重要感を持たせる」にあたります。その方は読 書と映画の話、家族の話が大好きでしたので、私は興味ありげに何度も同じ話を投げかけました。途中自分が話に飽きないように、質問の内容を変えたり、話す 感覚をあける工夫をしたこともあります。これは、2-1「誠実な関心を寄せる」の項目にもありました。このように私はあらゆる方法を尽くして相手の欲求を 満たし、現在ではお互いが不快ない関係を築けていけています。

 人を動かす為には、ただ自身の望みを強要するのではなく、逆に相手が自分に何を望んでいるのかを知り実行する事こそが重要だったのです。

2013年5月14日火曜日

羅生門ー芥川龍之介

 ある雨の日のこと、主人から暇をだされて行き場をなくしたある下人は、荒廃した羅生門(※1)で雨宿りをしていました。彼はそこで自身の行く末について、盗人になって生き長らえるか、この儘何もせずに死をまつかで悩みあぐねています。そうして右往左往と歩きながら考えていると、老婆が死人の毛をむしり取る光景が目に飛び込んできました。彼女はそれをかつらにして売るつもりなのです。下人はその老婆に憎悪を感じ、成敗しようとします。しかし彼女の言い分を聞いているうちに、どういうわけか彼は盗みを働く「勇気」が内から湧きあがった為に老婆の服を脱がし走り去ってしまうのでした。

 この作品では、〈悪事を憎むあまり、かえって自らも悪事を働いてしまったある男〉が描かれています。

 ここで読者たる皆さんは、「何故悪に対して嫌悪感を感じていた下人は、自らも盗みを働いてしまったのか」という疑問を持つことでしょう。その疑問を晴らすためには、はじめに彼が具体的に何を悩んでいたのか、ということについて考えなければなりません。そもそも彼が悩みあぐねていた内容とは、下記にある理性(対象化された観念)と本能(自由意志)との矛盾にあります。

理性;悪いことをしてまで生きるべきではない。
本能;悪いことはせずに生きたい。

 つまり彼の中での葛藤は、悪い事をするのか否か、ということにあると言えます。(※2)そしてその葛藤の解消のきっかけは下人の行動を見るに、老婆の言い分の中に含まれていたと理解する事ができるのです。その内容が下記にあたります。長いものですが、この作品の根幹を成す台詞ですのであえて注釈には入れませんでした。

「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に 買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた 事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女 は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」

 老婆は自分の行動に正当性を持たす為に、大きく分けて2つの理由をここで述べています。ひとつ目は悪人は悪事を誰かから受けても仕方のない存在であるということ。そしてもうひとつは生きるために成す悪事は同情するに値し許される、ということです。さて下人はこれを自身のうちでどう聞き入れたのでしょうか。恐らく、前者にも後者にも同意したことでしょう。それ以前は、悪による反発から彼女を斬りつけようとしていたわけですし(※3)、毛をむしり取らなければ死ぬかもしれない老婆に多少の同情をよせて聞いていたわけですから。(※4)また彼女の言い分は、同時に彼の「盗む事は悪である」という論法を打ち砕くのに十分な破壊力を持ち得ていました。最早、悪人たる老婆に悪事を働いたとしても、彼女は相応の対象なのであり、生きるために悪事を働く行為は悪ではないのです。ですから彼は老婆の話を自分に照らしあわせて考えた結果、「では、引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」と言って老婆の服をはがしてしまったのでした。まさに悪人たる老婆の言い分の中にこそ、彼に悪の道を進ませる要因があったのです。

注釈
1・旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。

2・選んでいれば、築士の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

3・ その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。

4・「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」

2013年5月11日土曜日

人を動かすーD・カーネギー 1・人を動かす三原則ー1盗人にも五分の理を認める

 本章では、〈他人を指導したり議論する時、その人の気持ちを受け入れる事がいかに重要であるか〉が論じられています。
 というのも、私達がものごとに対して問題を発見した場合、他人のせいにしてしまいがちな傾向があるならにほかなりません。それはどうやら自分に原因がある場合でも、また他人に原因がある場合でも関係ないようです。そしてそうした性質は問題の解決に向かうどころか、かえってお互いを避難し合い、本質的な問題とは別のところで新たな問題を生み出してしまう可能性があります。
 例えばあなたはこれまで仲良くしていた部活の友達、会社の同僚と部のあり方や仕事に関して議論していたにも拘わらず、いつの間にか激しい口論になってしまっていたという経験はないでしょうか。そしてそうなってしまえば、次回その人と何か重要な事を話さなければならなくなった時、あなたはその問題よりも前に相手との関係を気にする事でしょう。
 ですから私達が問題とぶつかり他人を指導したり意見を交わさなければならなくなった場面では、まず自分の側から相手を受け入れる態勢をつくっておくことが重要なのです。こうしておけば例え相手の自分を受け入れる態勢が整っていなくても、平行線になることはないでしょう。相手が自分の意見をなかなか受け入れてくれない場合、自分にもそうさせている要素があることを肝に銘じておかなかればならないのです。

2013年5月2日木曜日

『智恵子抄』レモン哀歌ー高村光太郎

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

 この作品は、〈千恵子の死に際を思い出すあまり、かえって自分の生活の中に彼女の匂いを探さなければならなかった、ある詩人〉が描かれています。

 この作品は大きく分けて、2つの時間軸によって構成されています。はじめの行から最後の3行までが千恵子が死ぬ直前の出来事、そして最後の2行は現在の詩人の生活の一部を描写しているのです。では、これら2つの時間というものは、お互いにどのような繋がりを持っているのでしょうか。
 精神分裂を患っていた千恵子は、レモンをかじる以前は意識が朦朧としているのか、或いは常軌を逸した行動をしていたのか、兎に角異常な状態にあったようなのです。ですが、詩人光太郎からレモンを受け取りかりりと噛むと徐々に〈ほんらいの〉彼女を取り戻していきました。それが光太郎にとっては〈本当の〉彼女と過ごした最後の時間となってしまったのです。
 ここで彼はレモンをかじり意識を取り戻した千恵子を見て、後にレモンに対して2つの印象を持つことになっていきます。ひとつは異常だった彼女を正常な意識に戻したということ。そしてもうひとつは、彼女と自分とが共有できた最後の思い出の象徴としての側面。
 そしてこれらの2つの印象から最後の2文に至っているわけなのですが、では彼はどのような心持ちで桜の花かげにレモンを置いているのでしょうか。勿論、最後の思い出の象徴として、レモンを写真に添えているのですが、その思い出というものの中に、レモンを齧った異常な千恵子が正常なものなっていったという側面があることを忘れてはなりません。つまり彼は写真の前にレモンを添えることであの時のように彼女が息を吹き返すのではないかという、淡く儚い思いを抱いていたのです。
 こうして毎日写真の前にレモンを添えることで、彼は彼女の死を意識していくと同時に、彼女の死を受け入れられず、死んではいないのではないかという思いとの板挟みになっていったのでしょう。私達から見ればその2文というものは何気ないものに見えてしまうかもしれませんが、そこにこそ妻に先立たれていった詩人の受け入れがたい苦悩が存在しているのです。

2013年4月23日火曜日

メールストロムの旋渦ーエドガー・アラン・ポー

 ノルウェー北部に発生するメールストロムという大渦を越えて魚を捕っていた漁師、「私」とその2人の兄弟はある台風の時、「私」のちょっとした不注意でそれに呑まれてしまいました。やがてその3人のうち、弟は自分を縛っていた船の帆ごと強風によって飛ばれてしまいます。そして残った兄と「私」は、この大自然の大いなる潮流を目の当たりにして、絶望を感じていくのでした。
 ところが「私」は大渦に近づくにつれて死を覚悟してゆく中で、なんとある時点からそれが「かえって」自身に落ち着きを取り戻させてくれたというではありませんか。更に驚くべきことに、冷静さを取り戻していった彼は自分を死の淵に追いやっている渦そのものに対して興味を抱きはじめていったのです。そうして渦を観察していく中で、彼は渦に砕かれている物体と全くいたんでいない物体がある事を発見し、そうした法則性を利用する事で脱出に成功したのでした。
 ですが彼は何故、自分が窮地に追いやられていったにも拘わらず、落ち着きを取り戻し脱出することが出来たのでしょうか。

 この作品では〈渦に呑まれて絶望するあまり、かえって客観的に物事を見なければならなかった、ある漁師〉が描かれています。

 「私」が主観を失う直前(※1)、彼はこれまでに見たことのないような自然の脅威と偉大さを目の当たりにします。その光景は、彼にはとても現実のものとは思えず、あたかも神話の世界にでも迷い込んだような印象を持たせたのでしょう。そしてこうした事実が現実に起こっているにも拘わらず、それが日常の風景とは大きく異なった場面であった為に、彼は客観性を持つことに成功したのです。
 それは、私達が親しい人々の死に直面した時の心情と少し似通ったところがあるのではないでしょうか。というのも読者の方の中には、友人や家族の死が衝撃として強すぎる為に実感としては受け止められず、何か面白い冗談を聞いたようについ笑ってしまった事はないでしょうか。どうやら私達の心には、主観としては受け止められずとも、客観的に全体を見渡す事で事実を受け入れようという働きが存在しているようです。
 そしてこの作品に登場する「私」も目の前で起こっているありのままの光景、そこにいる自分というものを受け止められないために「どうやら自分はここで死ぬのだろう」と、あたかも他人ごとのように考えるほかなかったのでしょう。そして一度冷静になった彼は、次に自分の置かれている立場を理解する為、あたりを観察しようとします。
 ここで重要なのは、彼が必ずしも主観を捨て客観性を持ち得たのではなく、主観的に死を承知しすぎているからこそ、客観性を持たなければならなかったということです。ですから主観は消滅したのではく、この後も主観的に恐れたかと思えば冷静さを取り戻し、そうかと思えば再び畏怖しはじめるといった複雑な心理状態に陥っていきます。やがてそうして機微に心を変化させていき観察していく中で、彼は自分の置かれている状況を整理していき、渦から脱出することが出来たのでした。自分の置かれている状況の恐ろしさを実感すればする程、より冷静にならなければならなかったのです。

 注釈
1・船は左舷へぐいとなかばまわり、それからその新たな方向へ電のようにつき進みました。(中略)その右舷は渦巻に近く、左舷にはいま通ってきた大海原がもり上がっていました。それは私たちと水平線とのあいだに、巨大な、のたうちまわる壁のようにそびえ立っているのです。
 奇妙なように思われるでしょうが、こうしていよいよ渦巻の顎に呑まれかかりますと、渦巻にただ近づいているときよりもかえって気が落ちつくのを感じました。

2・胸が悪くなるようにすうっと下へ落ちてゆくのを感じたとき、私は本能的に樽につかまっている手を固くし、眼を閉じました。何秒かというものは思いきって眼 をあけることができなくて――いま死ぬかいま死ぬかと待ちかまえながら、まだ水のなかで断末魔のもがきをやらないのを不審に思っていました。しかし時は 刻々とたってゆきます。私はやはり生きているのです。落ちてゆく感じがやみました。

初めはあまり心が乱れていたので、なにも正確に眼にとめることはできませんでした。とつぜん眼の前にあらわれた恐るべき荘厳が私の見たすべてでした。しかし、いくらか心が落ちついたとき、私の視線は本能的に下の方へ向きました。

2013年4月14日日曜日

村の学校ーアルフォンス・ドーデ

 世界大戦の後のこと、フランスはドイツとの戦争に負けて、アルザス・ローレイヌ州を奪われてしまいます。その為、それまでフランス語を学んでいたアルザスの子供達は、戦後ドイツ語を学ばなければならなくなってしまったのです。
 そしてアルザスにある「私」たちの小さな学校にも、フランス人のハルメ先生の後任として、情け容赦ないドイツ人教師、クロック先生がやってきました。彼はどうのような理由が生徒にあろうとも、自身の規律に従わない者には、体罰を与えます。その為、学校の子供達からはひどく恐れられていました。
 しかし8歳の時に両親をなくし、勉強をこれまでほとんどしなかった少年、ガスパールだけはこの恐ろしい教師に対して反抗的な態度をとっていました。そんな彼はある時、クロック先生や他の子供達と牧場へ遊びに出かけた事をきっかけに脱走を謀ります。ですが、か弱い10歳の少年は冷徹な、ドイツ人教師によって自分の家に帰っているところを呆気なく発見されてしまいました。ところがガスパール本人は、脱走した事に対して悪びれる様子もなく、「あゝ、さうだよ。ぼくはにげて来たんだよ。二度と学校にいきたくないんだよ。ぼくはドイツ語なんか――どろぼうの、人殺しの言葉なんか、話さないよ。父さんや母さんのやうに、フランス語を話したいんだよ。」と反抗してみせました。しかしいざ大人たちが彼を拘束し、馬車に乗せられると悲しいアルザスの方言で「放しておくれよ、クロック先生。」と哀願しはじめます。そしてその哀願は、傍で聞いていた「私」の耳から夜通し離れる事はありませんでした。

 この作品では、〈母国語を学ばなかった故に、かえって他の人々よりも母国語への思いを強くしていった、ある少年〉が描かれています。

 この作品の主体性というものは、言うまでもなく、ガスパースのドイツ語を学ぶことに対する、他者よりも強い拒否の姿勢から成り立っています。では彼は(フランスがドイツに負けたとは言え、)何故そこまで強くドイツ語を勉強する事を拒否しなければならなかったでしょうか。それはガスパールが両親を失っている事と、これまでまともにフランス語で勉強をしてこなったという2つの要素が大きく関わっているようです。
 彼は「父さんや母さんのやうに、フランス語を話したいんだよ。」という台詞からも理解できるように、どうやら両親という存在とフランス語を強く結びつけています。恐らく、ガスパールは日頃から両親と同じようにアルザスのフランス語を話すことによって、過去の遠い記憶の彼らとの結びつきを強く感じていたのでしょう。また彼はその他でフランス語を用いたり、勉強したりする環境がありませんでした。そうした要素が彼のフランス語と両親との結びつきをより一層強くしているのです。
 ところが彼が幾らドイツ語を拒絶し、フランス語を話して両親との距離を縮めようと試みようとも、ドイツ人による支配が彼の思い出を奪っていってしまいます。この作品のラストで、ガスパールが「放しておくれよ、クロック先生。」とアルザスの方言で訴えるシーンはその事への象徴なのです。そして、こうした「ドイツによるフランス侵略への苦悩」は、この作品に登場するフランス人の誰もが感じている問題でもあります。だからこそ、「私」はガスパールの悲しい訴えがその日の夜離れる事はなかったのです。

2013年2月3日日曜日

変な音ー夏目漱石

 著者は自身が入院している時、一人一人仕切りで隔たれた部屋で、おろし金をすっているような奇妙な音を耳にします。どうやらそれは彼の隣から聞こえてくるようです。ですが気にはなっているものの、そこまで大した事でもないと判断したために、彼はそのままにしておくことにしました。
 それから著者はめでたく退院できたものの、体調が再び悪くなってしまい、再び入院することになりました。しかし前回入院した時以上にその体調は深刻だった為に、彼は心身共に弱っていき、自分と立場が近いであろう、死を間近にした人々の事を考えはじめます。ところがそうした彼の考えとは逆に、体調は快方に向かっていきました。
 そんなある時、著者は以前入院していた時、例の変な音を出す患者を担当していた看護師と遭遇します。話を聞いていると、例の音はやはり看護師が胡瓜を擦っている音で、その胡瓜で足の火照りを冷やしていたといいます。そしてどうやら例の患者も、著者が毎朝革砥(かわど)を磨いでいる音を気にしていた様子。ですが隣の患者は、それを運動器具を動かしている音だと勘違いして羨ましがっいたのだといいます。そしてその患者は退院した後、すぐに亡くなってしまったそうです。しかしこの話を聞いた後、著者は、自分が胡瓜を擦る音に焦らされた事と、例の患者が自分の革砥の音を羨ましく思い死んでいった違いについて考えずにはいられなくなっていきます。では、その違いとは一体なんだったのでしょうか。

 この作品では、〈他人の存在を感じようとするあまり、かえって孤独感を深めていってしまった、ある男〉が描かれています。

 上記の問題に答える為に、まずは著者と変な音の患者に共通していた事を整理してみましょう。2人は病気によって入院しており、ほぼ個室のような部屋にいました。そしてそれぞれがそれぞれの、生活音にある程度の興味を示していました。つまり彼らは一人一人が隔離された空間の中で、その孤独や不安を埋めるように、自分以外の他人がそこにいることを感じようとしたのです。そして著者の側は病状もそこまで深刻ではなかった為に、自分以外の人間が同じように入院している事にある程度の親近感をもって受け入れていました。
 しかし、隣の患者の場合はどうだったでしょうか。彼はそこまできている自分の死を悟っていました。それは彼がその時、見ていたもの、聞いていたものはその先関係なくなってしまう事を意味しています。そしてそうした事への孤独や不安は、著者以上に強かったはずです。この事情こそ、著者が音によって自分の存在を主張している事を、通常とは逆に作用させてしまっていたのです。つまり隣の患者は死を受け入れているあまり、彼の発する音を運動器具を動かす音という、現在の彼とは最も程遠いの部類の音と勘違いしてしまった事により、著者に対して親近感を持つどころかかえってその孤独感を増してしまっていたのです。また彼は著者のそうした音を聞く度に、そうした思いを募らせていったのでしょう。他人を感じることが、かえって孤独感を増すことだってあるのです。

2013年1月31日木曜日

日本文学史ー戦後文学

 戦争によって荒廃した文学を立てなおしたのは、プロレタリア文学を継承する〈民主主義〉の人々と〈戦後派〉と呼ばれる人々でした。
 〈民主主義運動〉は昭和20年に宮本百合子を代表とする「新日本文学会」を中心に推進され、より広汎な作家層を集結しながら、民主主義運動の展開を目指しました。しかしコミンフォルムが『日本の情勢について』(昭和25)という論文を発表し、日本共産党の方針を根底から否定したことによって、民主主義文学は分裂期を迎えます。やがて共産党政治局が公表した『「日本の情勢について」の所感』をめぐって、党内は所感を支持する〈所感派〉とコミンフォルムを支持する〈国際派〉とに分かれ抗争をはじめたのです。その中で〈所感派〉は雑誌「人民文学」において「日本文学会」と激しく対立し、特に宮本百合子に対しては歿後まもなくだというのに、彼女を誌内で悪罵しました。そしてこれを端緒とする「日本文学会」との応酬は、次元の低い、不毛の論争に終わっていき、今後の課題を残す形となりました。
 一方〈戦後派〉は、マルキシムズの崩壊期に青春を形成した世代の作家によって担当され、戦争による共通の被害意識を発想の前提に据えて、戦後社会の混乱と苦悩を反映した独自の文学を築いていきました。ところが政治と文学、革命文学の方法、戦争責任論など、運動の再生期に提示されたさまざまな主題があまりにも性急だったこと、観念的な処理の仕方によって本質がくらんでしまった事が仇となり、結果として〈民主主義〉文学から既成文壇にいたるまでの左右両翼からの挟撃、内部批判によって衰微していきます。
 そして〈戦後派〉が衰退してまもなく、その時期を通過した〈第三の新人〉が登場します。彼らはかつて伝統に後退したと思われていた私小説に接近し、日常と詩を往復して独自に変貌させていきました。またそれと同時に、彼らの出現こそ、文学の新しい質と方向を必然的に決めていったのです。

日本文学史ー昭和文学

 昭和初期の文学は、主に〈新感覚派〉を代表とする〈モダニズム文学〉、政治と文学が癒着した〈プロレタリア文学〉、更にこれまで活躍してきた〈旧文壇派〉によって構成されています。
 まず新感覚派ですが、はじまりは大正13年に文藝春秋の編集同人、寄稿者たちが文芸時代という雑誌を発行したことがきっかけでした。彼らは知的に意匠化された感覚表現を特徴として、言語によるさまざまな実験を試みました。しかし発想の内的必然性をも表現技術にまで解体する形式主義に陥ったこと、マルクス主義文学の影響による内部瓦解によって、昭和初期にその短い活動を終えることとなり、横光利一や川端康成等の強力な個性しか後の世に残ることはできませんでした。しかし彼らのひいいた〈モダニズム〉の命脈は、新興芸術派や新心理主義に継承され、昭和10年台に肉化されていくことになります。
 次にそれと対立する形で登場した、〈プロレタリア文学〉ですが、彼らは社会民主主義を支持する労芸と、共産党を支持するプロ芸と前芸との対立問題を残しながらも、全文壇を席巻(せっけん)する程の強大な勢力に成長していきました。ですが、外からの弾圧の強化と政治主義による内部のひずみから徐々に勢力が衰えていき、プロレタリア作家たちはその転向を余儀なくされてしまいます。しかし、それを恥とした多くの作家たちは、その転向によってこそ、共産主義の正当性を確信していくようになっていきます。
 そして昭和初期を彩った2つの巨大な派閥の勢力が衰えた時、沈黙を続けていた〈旧文壇派〉の作家たちが再起することとなります。そして世界をとりまく戦争を匂わせるファシズムの台頭によって、彼らを中心に〈モダニズム〉、〈プロレタリア〉の三派が鼎立。世代を超えた集結をもたらすのでした。

日本文学史ー大正時代

 明治後期の文学において、反自然主義がその幅をきかせていた時、そのグループから大正文学を担うひとつのグループが誕生することになります。〈白樺派〉(白樺、明治43出版)の登場です。彼らは武者小路実篤に代表される、個性や生命力をあくまで肯定し人間の意思と未来を信じるという理想主義、自我哲学をバックボーンとして、それを完璧に表現しようとする制作態度を持っていました。そしてその制作態度は、実社会においても新しき村という理想郷として現れます。これは第一次世界大戦の最中でありながらも、それとはほとんど無縁に、その独自の思想を世間の人々に啓蒙し集らせていったのです。
 また、自然主義を継承する〈奇跡派〉(奇跡、大正1出版)の存在も見逃すことはできません。彼らは規模としては巨大ではなかったものの、作品のリアリティを、仮構された文学世界の固有の法則や質感によってではなく、作家の生身が生きて浮沈する実生活のリアリティによって支えられている、〈私小説〉というジャンルを築きました。
 そしてこの〈私小説〉を、徳田秋声や〈白樺派〉の志賀直哉が発展させて、〈心境小説〉という更に新しいジャンルを築いた事もこの時代の特徴と言えるでしょう。

日本文学史ー明治時代 三好行雄著 『日本の近代文学』

 日本の近代文学の原型は、成島柳北(りゅうほく)の柳橋新誌(明治7)などの戯作やつしの文学、所謂洒落本、談義本でした。それが西洋からきた改良主義の流れ、またその流れの影響を受けた外山正一や坪内逍遥(しょうよう)等の知識人達により、日本の文学は庶民の手から離れ、より芸術的な意味合いを強めていきます。
そうした文学上の大きな変化から明治18年に誕生したのが、『小説神髄』(坪内逍遥著)でした。この無償の文学性を理論化し、その理論を創作方法とする知識人の出現を明確にした『小説神髄』の存在は、二葉亭四迷や森鴎外等、後の文学界を担う人々に大きな影響を与えました。というのも、四迷に関して言えば、彼の傑作である『浮雲』(明治18)の一部は逍遥との共著ですし、鴎外に関して言えば、後に登場する2つの大きな文学的主流派の将来をかけた論争をするきっかけとなったのですから。
 やがて『小説神髄』後から登場した作家たちは、現実をありのままに模写、再現を創作方法とする〈写実主義〉なる系譜を築いていきます。そして〈写実主義〉は悲惨小説、観念小説、政治小説など様々なジャンルを生むことになりますが、形式主義による傾斜を免れる事ができず、衰微していきます。
 そんな『小説神髄』からはじまる〈写実主義〉が行き着いた場所こそ、ゾラの実験小説論を適応した〈前期自然主義〉でした。ですが、その適応が性急すぎた事と、作家主体が未成熟だった為に、結果この系譜から日本の散文精神は生まれることはなく、通俗小説へと傾斜していってしまったのです。
 しかし、この当時には〈写実主義〉以外にも大きな主流派が登場することになります。それこそが森鴎外からはじまる、〈浪漫主義〉です。これはドイツに留学した鴎外が日本に持ち帰ったもので、秩序と理論に反逆する自我尊重、感性の開放を主情的に要求する、というものでした。また鴎外は、坪内逍遥に対し、ロマンティシズム抜きのリアリズムにはじまった近代文学の動向に対して、ロマンティシズムからの強力な訂正要求を行います。所謂没理想論争(明治25~26)です。この論争の後、〈写実主義〉は上記にもあるように、ロマンティシズム抜きにはじまった日本文学のひとつの限界を迎え、衰微していきました。
 一方浪〈浪漫主義〉は、作家たちの自己転身により、主情性を基本とする〈後期自然主義〉をおこすことになります。これは〈前期自然主義〉とは、〈写実主義〉からはじまっていないこと、ゾラの実験小説論を適応していないことから、全くの別物です。そして彼らの代表的な作品と言えば、真っ先に島崎藤村の『破戒』(明治39)が挙げられます。『破戒』は出生の秘密を負う青年知識人の苦悩する内面に光をあてたもので、散文の未来に大きな可能性を残しました。ですがその未来は、作者自身の手によって塞がれてしまいます。その一年後に登場した田山花袋の『蒲団』は、その大胆な告白手法によって、多くの反響を呼びました。そして藤村もその作者の影響を避ける事はできませんでした。こうして明治の後期におこった〈自然主義〉は、作者たちの実生活の赤裸々な告白を創作方法とした風俗小説へ転落していったのです。
 そんな〈自然主義〉が急速な発展と転落を迎えた頃、そのあり方に意義を唱えはじめた作家たちが多く出現したのもこの時期でした。こうして文学の主流は、北原白秋の「昴」、永井荷風の「三田文学」、夏目漱石を師事する「木曜会」らの〈反自然主義〉の人々の手に渡りました。この中でも、漱石の「木曜会」は特殊なものでした。明治の文学青年たちの文学上の進路として、日本文学をしたければ〈自然主義〉、西洋の文学をしたければ、「三田文学」や「昴」などの〈反自然主義〉といった選択肢がありました。ところが「木曜会」はこのどれにも属しません。そもそも「木曜会」とは、正岡子規からなる〈写生文〉を継承した漱石の強力な個性が引力となって、人々をひきつけて成り立ったものなのです。そしてこの強力な個性の周りには、その後日本独自の文学を生んだ芥川龍之介、文藝春秋の創始者となる菊池寛、心境小説を完成させることになる志賀直哉などの強力な個性が集い、或いは影響を受けていき、その後の文学を担うことになっていったのです。

2013年1月16日水曜日

橋の下ーフレデリック・ブウテ(森鴎外訳)

 お気に入りのものを相手に見せて、あまり芳しくない反応が返ってきて、少し恥ずかしい思いをしてしまった、という事は多くの方が少なからず経験している事だと思います。しかし以下のような反応が返ってきた時、あなたならどう思うでしょうか。
 ある時、私も他の方がそうするようにさりげなく、ある友人に当時買いたてだった財布をみせました。その財布というのは、トランプが何枚か重なっているような絵柄をしていて、少し変わったデザインをしており、私自身そうしたところが気に入っていました。ところが友人は私の財布を裏表と返しながら、少しの間まじまじと見た後、「安い」と一言。そして以降はその財布について、何も述べる事はありませんでした。一応ことわっておきますと、その友人の「安い」とは値段のわりにつくりが安いだとか高いだとか言うことではなく、素材やブランドが「安い」という事を言っているのです。そしてその言葉を聞いて、私は友人と自分とのものの見方に、大きな隔たりを感じずにはいられませんでした。
 今回は、そうしたあるものの見方にまつわる話を扱っております。

評論
 片手をあえて袖に通さず人の同情を買い物乞いをする乞食、「一本腕」は、ある橋の下で、身なりの汚い1人の痩せ衰えた老人と出会います。そして「一本腕」はその老人と話していくうちに、彼が世界に2つとないダイヤモンドという宝石を持っていることを知るのです。それを知った「一本腕」はどうにかしてその宝石を売り、大金を老人と山分けしようと考えはじめます。ところが老人自身、そうした考えは一切ありません。それどころか、彼は誰にも渡さずそれを持ってそのまま死のうといているのです。やがて老人は、「一本腕」が自分のダイヤモンドを狙っている事を知ると橋の下を離れ、次の寝床を探すため、深く積もった雪の道を破れた靴で歩いて行くのでした。

 この作品では、〈ダイヤモンドの価値を理解しすぎるあまり、かえってかつえ死ぬ道を選ばなければならなかった、ある老人〉が描かれています。

 あらすじを見て頂くと理解できるように、この作品は「一本腕」と老人とのダイヤモンドの価値観の違いによって成り立っています。「一本腕」は老人が持っているダイヤモンドを金銭の対象、つまり道具としての側面から見ているのです。ですから彼の目的意識は、ダイヤモンドをいかにして自分の生活に用いるか、お金にするかというところにあります。
 一方、老人の方はどうでしょうか。彼は「一本腕」とは対照的に、ダイヤモンドを売ろうとはせず、寧ろその美しさを楽しんでいる節があります。彼はダイヤモンドを鑑賞物としての側面から見ています。つまり老人の目的意識はダイヤモンドを使うことにはなく、見ること、所有することそのものにあるわけです。
 また老人の不幸は、まさにダイヤモンドの価値をそうした道具意外のところに見出してしまったところにあります。というのも、この老人というのは身なりや生活を考えると、とても裕福だということはお世辞にも言えません。寧ろ私達が彼の立場なら、「一本腕」のようにダイヤモンドを売ることを考えることでしょう。しかしそうした環境にあるにも拘わらず、あえてしない程に、老人はダイヤモンドに鑑賞物としての価値を見出しています。そして老人のそうした姿勢が私達に、ダイヤモンドの価値が老人程に分からないながらも、崇高めいたものを感じさせているのです。

2013年1月13日日曜日

猫吉親方(長靴をはいた猫)ーシャルル・ペロー

 むかしあるところに、3人の息子をもった、貧乏な粉ひきがありました。やがて男は死に、息子達は財産をそれぞれ分配されます。ですが兄たちが風車とロバといったような実用的な遺産を相続したのに対し、末の息子だけは一匹の、一見あまり役にも立ちそうにない猫を相続する事になってしまいました。こうしてつまらない財産を相続してしまった末息子は、途方に暮れてしまいます。するとその様子を見ていた猫は突然、自分に一足の長靴をこしらえて貰えれば彼をお金持ちにすることができると言い始めました。末息子は半信半疑なものの、猫の言うとおり長靴をくつってあげることにしました。
 こうして猫はたった一足の長靴を貰ったことにより、末息子をお金持ちにさせていきます。では、猫は一体どのような方法を用いて末息子を成功に導いていったのでしょうか。

 この作品では、〈人は自分の事になると、本質的価値を気にするが、相手の事になると、外見的価値を気にするものである〉ということが描かれています。

 シャルル・ペローという作家は作品をつくるにあたり、予め教訓、つまりここで言う一般性を設定して創作しています。そしてこの作品においても、彼は下記の2つの一般性を作品の末尾に書いています。

①父親から息子へと贈られる
 豊かな財産を受け継ぐのが
 いかに恵まれたこととはいえ、
 ふつう若者にとって、
 世渡りの術とかけひき上手が
 もらった財産より役に立つ。

②粉ひきの息子が、これほど早く、
 王女さまの心をとらえ、
 恋わずらいの目でみつめられたからには、
 衣装や顔かたちや若さが、
 恋心を吹きこむのに、
 無関係ではない証拠。

(※ちなみにこの2つの教訓は、青空文庫から引用したものではありません。詳しくは岩波文庫の『完訳ペロー童話集』(新倉朗子訳)を参照して下さい。)

 そしてこの2つの一般生の繋がりを見ながら作品を読み返し、新たな一般性として挙げたものが上記の括弧書きにあたります。では、一般性①、②がどのような繋がりを持ちどのような事を述べているのか、作品を振り返る中で確認して行きましょう。
 はじめに一般性①ですが、一見するとこれは単なる末息子と猫との姿勢観の違いを論じているように見えるのではないでしょうか。成程、確かに末息子は、自分は貧乏で兄たちよりも劣った財産を相続した事からと途方に暮れていました。一方の猫はそうした状況を冷静に判断し、その巧みな演出と演技で彼を本当のお金持ちにしてみせました。
 長靴を貰った猫は、早速兎を捕まえ殺し、王様に献上しにいきます。その際猫は、自分はカバラ侯爵(末息子)の言いつけで兎を持ってやってきたのだと言いました。また王様と王女様が川に遊びに来た時、猫は末息子を川に浸からせました。そして傍を通った王様たちには、カバラ侯爵が身体を洗っている最中に泥棒に襲われたのだと説明します。するとこの話をすっかり信じ込んだ王様は末息子に立派な着物を与えました。
 このようにして、猫は「本質的」には貧乏である末息子を、「外見的」には裕福なカバラ侯爵に仕立て上げ、やがて「本質的」にも裕福な人物へと出世させていったのです。ここまで話を進めてみると、一般性①の見方もまた違った形で見えてくるのではないでしょうか。人は末息子のように、「本質的」には貧乏だからとくよくよしがちですが、世渡りの術とかけひき(外見的価値を高める事)によって、出世することが出来るのです。
 またこの理由は、一般性②によって示させています。つまり「本質的」価値を気にしているのは当人ばかりで、他人は「外見的」な価値を気にするものなのです。これは私達にも頷ける話ではないでしょうか。一流の職人から見れば、お粗末な機能をもった鞄やメガネケースでも、一流のブランドのロゴが入っていればそれなりの価値があるように見えるのも、私達にそうした性質があるためです。これと同じように、作品に登場する女王様、王様も末息子がどのように貧乏であったとしても、彼の「侯爵」というブランドネームに惹かれ、猫の演出と演技を信じた為に、王様は末息子に王女様との結婚を申し出、王女様も彼を魅力的に感じ結婚しました。
 本当の自分の価値などを気にしているのは自分ばかりで、他人はそうではなくその見え方ばかりを気にしているものなのです。

2013年1月9日水曜日

新年のあいさつ

 コメント者をはじめブログを閲覧してくれている方々、友人方、新年、あけましておめでとうございます。そして昨年末から新年まで、文学の学史研究をしていた為、多くの方に年賀状が出せなかった事、年始めのあいさつが遅れてしまった事をこの場を借りてお詫び申し上げます。

 さて本来このブログでは文芸に関する記事をメインとしてアップしている訳ですが、上記による私の不手際と、最近こちらに記事がなかなかアップできなかったという事情もありますので、この場で新年のあいさつをさせて頂きたいと思います。

 私は去年6月生まれ育った四国を離れ、現在は関西に住んでいる訳ですが、そうした変化の月に、旧友及び職場の同僚達は私を快く追い出してくれました。また関西に出てくれば出てくるで、コメント者をはじめとした、学生時代に親交を深めていった師や先輩、友人が私を迎えてくれた事も昨年の思い出として心に残っています。こうした環境の中で、自身の夢を一身に追いかける事が出来るという事程、心強いものはありません。

 2013年がはじまった2日目の朝、コメント者から封筒が届きました。中を開けてみると、研究資料と簡単な新年のあいさつを書いたメモが入っていました。
そのメモの一文に、「今年も本質的進化を目指して共に頑張ろう!!」という一文がありました。そのあまりにも仰々しさに思わず笑ってしまいましたが、まさにこの一文こそが私とコメント者との数年の修練を支えてくれたものだったのだと思うと、同時に身が引き締まる思いがしました。

 今年も多くの人々、多くの作品と触れ合う中で、自己を磨き、正しき批判者として日々を過ごしていきたいと思います。