2013年1月31日木曜日

日本文学史ー戦後文学

 戦争によって荒廃した文学を立てなおしたのは、プロレタリア文学を継承する〈民主主義〉の人々と〈戦後派〉と呼ばれる人々でした。
 〈民主主義運動〉は昭和20年に宮本百合子を代表とする「新日本文学会」を中心に推進され、より広汎な作家層を集結しながら、民主主義運動の展開を目指しました。しかしコミンフォルムが『日本の情勢について』(昭和25)という論文を発表し、日本共産党の方針を根底から否定したことによって、民主主義文学は分裂期を迎えます。やがて共産党政治局が公表した『「日本の情勢について」の所感』をめぐって、党内は所感を支持する〈所感派〉とコミンフォルムを支持する〈国際派〉とに分かれ抗争をはじめたのです。その中で〈所感派〉は雑誌「人民文学」において「日本文学会」と激しく対立し、特に宮本百合子に対しては歿後まもなくだというのに、彼女を誌内で悪罵しました。そしてこれを端緒とする「日本文学会」との応酬は、次元の低い、不毛の論争に終わっていき、今後の課題を残す形となりました。
 一方〈戦後派〉は、マルキシムズの崩壊期に青春を形成した世代の作家によって担当され、戦争による共通の被害意識を発想の前提に据えて、戦後社会の混乱と苦悩を反映した独自の文学を築いていきました。ところが政治と文学、革命文学の方法、戦争責任論など、運動の再生期に提示されたさまざまな主題があまりにも性急だったこと、観念的な処理の仕方によって本質がくらんでしまった事が仇となり、結果として〈民主主義〉文学から既成文壇にいたるまでの左右両翼からの挟撃、内部批判によって衰微していきます。
 そして〈戦後派〉が衰退してまもなく、その時期を通過した〈第三の新人〉が登場します。彼らはかつて伝統に後退したと思われていた私小説に接近し、日常と詩を往復して独自に変貌させていきました。またそれと同時に、彼らの出現こそ、文学の新しい質と方向を必然的に決めていったのです。

日本文学史ー昭和文学

 昭和初期の文学は、主に〈新感覚派〉を代表とする〈モダニズム文学〉、政治と文学が癒着した〈プロレタリア文学〉、更にこれまで活躍してきた〈旧文壇派〉によって構成されています。
 まず新感覚派ですが、はじまりは大正13年に文藝春秋の編集同人、寄稿者たちが文芸時代という雑誌を発行したことがきっかけでした。彼らは知的に意匠化された感覚表現を特徴として、言語によるさまざまな実験を試みました。しかし発想の内的必然性をも表現技術にまで解体する形式主義に陥ったこと、マルクス主義文学の影響による内部瓦解によって、昭和初期にその短い活動を終えることとなり、横光利一や川端康成等の強力な個性しか後の世に残ることはできませんでした。しかし彼らのひいいた〈モダニズム〉の命脈は、新興芸術派や新心理主義に継承され、昭和10年台に肉化されていくことになります。
 次にそれと対立する形で登場した、〈プロレタリア文学〉ですが、彼らは社会民主主義を支持する労芸と、共産党を支持するプロ芸と前芸との対立問題を残しながらも、全文壇を席巻(せっけん)する程の強大な勢力に成長していきました。ですが、外からの弾圧の強化と政治主義による内部のひずみから徐々に勢力が衰えていき、プロレタリア作家たちはその転向を余儀なくされてしまいます。しかし、それを恥とした多くの作家たちは、その転向によってこそ、共産主義の正当性を確信していくようになっていきます。
 そして昭和初期を彩った2つの巨大な派閥の勢力が衰えた時、沈黙を続けていた〈旧文壇派〉の作家たちが再起することとなります。そして世界をとりまく戦争を匂わせるファシズムの台頭によって、彼らを中心に〈モダニズム〉、〈プロレタリア〉の三派が鼎立。世代を超えた集結をもたらすのでした。

日本文学史ー大正時代

 明治後期の文学において、反自然主義がその幅をきかせていた時、そのグループから大正文学を担うひとつのグループが誕生することになります。〈白樺派〉(白樺、明治43出版)の登場です。彼らは武者小路実篤に代表される、個性や生命力をあくまで肯定し人間の意思と未来を信じるという理想主義、自我哲学をバックボーンとして、それを完璧に表現しようとする制作態度を持っていました。そしてその制作態度は、実社会においても新しき村という理想郷として現れます。これは第一次世界大戦の最中でありながらも、それとはほとんど無縁に、その独自の思想を世間の人々に啓蒙し集らせていったのです。
 また、自然主義を継承する〈奇跡派〉(奇跡、大正1出版)の存在も見逃すことはできません。彼らは規模としては巨大ではなかったものの、作品のリアリティを、仮構された文学世界の固有の法則や質感によってではなく、作家の生身が生きて浮沈する実生活のリアリティによって支えられている、〈私小説〉というジャンルを築きました。
 そしてこの〈私小説〉を、徳田秋声や〈白樺派〉の志賀直哉が発展させて、〈心境小説〉という更に新しいジャンルを築いた事もこの時代の特徴と言えるでしょう。

日本文学史ー明治時代 三好行雄著 『日本の近代文学』

 日本の近代文学の原型は、成島柳北(りゅうほく)の柳橋新誌(明治7)などの戯作やつしの文学、所謂洒落本、談義本でした。それが西洋からきた改良主義の流れ、またその流れの影響を受けた外山正一や坪内逍遥(しょうよう)等の知識人達により、日本の文学は庶民の手から離れ、より芸術的な意味合いを強めていきます。
そうした文学上の大きな変化から明治18年に誕生したのが、『小説神髄』(坪内逍遥著)でした。この無償の文学性を理論化し、その理論を創作方法とする知識人の出現を明確にした『小説神髄』の存在は、二葉亭四迷や森鴎外等、後の文学界を担う人々に大きな影響を与えました。というのも、四迷に関して言えば、彼の傑作である『浮雲』(明治18)の一部は逍遥との共著ですし、鴎外に関して言えば、後に登場する2つの大きな文学的主流派の将来をかけた論争をするきっかけとなったのですから。
 やがて『小説神髄』後から登場した作家たちは、現実をありのままに模写、再現を創作方法とする〈写実主義〉なる系譜を築いていきます。そして〈写実主義〉は悲惨小説、観念小説、政治小説など様々なジャンルを生むことになりますが、形式主義による傾斜を免れる事ができず、衰微していきます。
 そんな『小説神髄』からはじまる〈写実主義〉が行き着いた場所こそ、ゾラの実験小説論を適応した〈前期自然主義〉でした。ですが、その適応が性急すぎた事と、作家主体が未成熟だった為に、結果この系譜から日本の散文精神は生まれることはなく、通俗小説へと傾斜していってしまったのです。
 しかし、この当時には〈写実主義〉以外にも大きな主流派が登場することになります。それこそが森鴎外からはじまる、〈浪漫主義〉です。これはドイツに留学した鴎外が日本に持ち帰ったもので、秩序と理論に反逆する自我尊重、感性の開放を主情的に要求する、というものでした。また鴎外は、坪内逍遥に対し、ロマンティシズム抜きのリアリズムにはじまった近代文学の動向に対して、ロマンティシズムからの強力な訂正要求を行います。所謂没理想論争(明治25~26)です。この論争の後、〈写実主義〉は上記にもあるように、ロマンティシズム抜きにはじまった日本文学のひとつの限界を迎え、衰微していきました。
 一方浪〈浪漫主義〉は、作家たちの自己転身により、主情性を基本とする〈後期自然主義〉をおこすことになります。これは〈前期自然主義〉とは、〈写実主義〉からはじまっていないこと、ゾラの実験小説論を適応していないことから、全くの別物です。そして彼らの代表的な作品と言えば、真っ先に島崎藤村の『破戒』(明治39)が挙げられます。『破戒』は出生の秘密を負う青年知識人の苦悩する内面に光をあてたもので、散文の未来に大きな可能性を残しました。ですがその未来は、作者自身の手によって塞がれてしまいます。その一年後に登場した田山花袋の『蒲団』は、その大胆な告白手法によって、多くの反響を呼びました。そして藤村もその作者の影響を避ける事はできませんでした。こうして明治の後期におこった〈自然主義〉は、作者たちの実生活の赤裸々な告白を創作方法とした風俗小説へ転落していったのです。
 そんな〈自然主義〉が急速な発展と転落を迎えた頃、そのあり方に意義を唱えはじめた作家たちが多く出現したのもこの時期でした。こうして文学の主流は、北原白秋の「昴」、永井荷風の「三田文学」、夏目漱石を師事する「木曜会」らの〈反自然主義〉の人々の手に渡りました。この中でも、漱石の「木曜会」は特殊なものでした。明治の文学青年たちの文学上の進路として、日本文学をしたければ〈自然主義〉、西洋の文学をしたければ、「三田文学」や「昴」などの〈反自然主義〉といった選択肢がありました。ところが「木曜会」はこのどれにも属しません。そもそも「木曜会」とは、正岡子規からなる〈写生文〉を継承した漱石の強力な個性が引力となって、人々をひきつけて成り立ったものなのです。そしてこの強力な個性の周りには、その後日本独自の文学を生んだ芥川龍之介、文藝春秋の創始者となる菊池寛、心境小説を完成させることになる志賀直哉などの強力な個性が集い、或いは影響を受けていき、その後の文学を担うことになっていったのです。

2013年1月16日水曜日

橋の下ーフレデリック・ブウテ(森鴎外訳)

 お気に入りのものを相手に見せて、あまり芳しくない反応が返ってきて、少し恥ずかしい思いをしてしまった、という事は多くの方が少なからず経験している事だと思います。しかし以下のような反応が返ってきた時、あなたならどう思うでしょうか。
 ある時、私も他の方がそうするようにさりげなく、ある友人に当時買いたてだった財布をみせました。その財布というのは、トランプが何枚か重なっているような絵柄をしていて、少し変わったデザインをしており、私自身そうしたところが気に入っていました。ところが友人は私の財布を裏表と返しながら、少しの間まじまじと見た後、「安い」と一言。そして以降はその財布について、何も述べる事はありませんでした。一応ことわっておきますと、その友人の「安い」とは値段のわりにつくりが安いだとか高いだとか言うことではなく、素材やブランドが「安い」という事を言っているのです。そしてその言葉を聞いて、私は友人と自分とのものの見方に、大きな隔たりを感じずにはいられませんでした。
 今回は、そうしたあるものの見方にまつわる話を扱っております。

評論
 片手をあえて袖に通さず人の同情を買い物乞いをする乞食、「一本腕」は、ある橋の下で、身なりの汚い1人の痩せ衰えた老人と出会います。そして「一本腕」はその老人と話していくうちに、彼が世界に2つとないダイヤモンドという宝石を持っていることを知るのです。それを知った「一本腕」はどうにかしてその宝石を売り、大金を老人と山分けしようと考えはじめます。ところが老人自身、そうした考えは一切ありません。それどころか、彼は誰にも渡さずそれを持ってそのまま死のうといているのです。やがて老人は、「一本腕」が自分のダイヤモンドを狙っている事を知ると橋の下を離れ、次の寝床を探すため、深く積もった雪の道を破れた靴で歩いて行くのでした。

 この作品では、〈ダイヤモンドの価値を理解しすぎるあまり、かえってかつえ死ぬ道を選ばなければならなかった、ある老人〉が描かれています。

 あらすじを見て頂くと理解できるように、この作品は「一本腕」と老人とのダイヤモンドの価値観の違いによって成り立っています。「一本腕」は老人が持っているダイヤモンドを金銭の対象、つまり道具としての側面から見ているのです。ですから彼の目的意識は、ダイヤモンドをいかにして自分の生活に用いるか、お金にするかというところにあります。
 一方、老人の方はどうでしょうか。彼は「一本腕」とは対照的に、ダイヤモンドを売ろうとはせず、寧ろその美しさを楽しんでいる節があります。彼はダイヤモンドを鑑賞物としての側面から見ています。つまり老人の目的意識はダイヤモンドを使うことにはなく、見ること、所有することそのものにあるわけです。
 また老人の不幸は、まさにダイヤモンドの価値をそうした道具意外のところに見出してしまったところにあります。というのも、この老人というのは身なりや生活を考えると、とても裕福だということはお世辞にも言えません。寧ろ私達が彼の立場なら、「一本腕」のようにダイヤモンドを売ることを考えることでしょう。しかしそうした環境にあるにも拘わらず、あえてしない程に、老人はダイヤモンドに鑑賞物としての価値を見出しています。そして老人のそうした姿勢が私達に、ダイヤモンドの価値が老人程に分からないながらも、崇高めいたものを感じさせているのです。

2013年1月13日日曜日

猫吉親方(長靴をはいた猫)ーシャルル・ペロー

 むかしあるところに、3人の息子をもった、貧乏な粉ひきがありました。やがて男は死に、息子達は財産をそれぞれ分配されます。ですが兄たちが風車とロバといったような実用的な遺産を相続したのに対し、末の息子だけは一匹の、一見あまり役にも立ちそうにない猫を相続する事になってしまいました。こうしてつまらない財産を相続してしまった末息子は、途方に暮れてしまいます。するとその様子を見ていた猫は突然、自分に一足の長靴をこしらえて貰えれば彼をお金持ちにすることができると言い始めました。末息子は半信半疑なものの、猫の言うとおり長靴をくつってあげることにしました。
 こうして猫はたった一足の長靴を貰ったことにより、末息子をお金持ちにさせていきます。では、猫は一体どのような方法を用いて末息子を成功に導いていったのでしょうか。

 この作品では、〈人は自分の事になると、本質的価値を気にするが、相手の事になると、外見的価値を気にするものである〉ということが描かれています。

 シャルル・ペローという作家は作品をつくるにあたり、予め教訓、つまりここで言う一般性を設定して創作しています。そしてこの作品においても、彼は下記の2つの一般性を作品の末尾に書いています。

①父親から息子へと贈られる
 豊かな財産を受け継ぐのが
 いかに恵まれたこととはいえ、
 ふつう若者にとって、
 世渡りの術とかけひき上手が
 もらった財産より役に立つ。

②粉ひきの息子が、これほど早く、
 王女さまの心をとらえ、
 恋わずらいの目でみつめられたからには、
 衣装や顔かたちや若さが、
 恋心を吹きこむのに、
 無関係ではない証拠。

(※ちなみにこの2つの教訓は、青空文庫から引用したものではありません。詳しくは岩波文庫の『完訳ペロー童話集』(新倉朗子訳)を参照して下さい。)

 そしてこの2つの一般生の繋がりを見ながら作品を読み返し、新たな一般性として挙げたものが上記の括弧書きにあたります。では、一般性①、②がどのような繋がりを持ちどのような事を述べているのか、作品を振り返る中で確認して行きましょう。
 はじめに一般性①ですが、一見するとこれは単なる末息子と猫との姿勢観の違いを論じているように見えるのではないでしょうか。成程、確かに末息子は、自分は貧乏で兄たちよりも劣った財産を相続した事からと途方に暮れていました。一方の猫はそうした状況を冷静に判断し、その巧みな演出と演技で彼を本当のお金持ちにしてみせました。
 長靴を貰った猫は、早速兎を捕まえ殺し、王様に献上しにいきます。その際猫は、自分はカバラ侯爵(末息子)の言いつけで兎を持ってやってきたのだと言いました。また王様と王女様が川に遊びに来た時、猫は末息子を川に浸からせました。そして傍を通った王様たちには、カバラ侯爵が身体を洗っている最中に泥棒に襲われたのだと説明します。するとこの話をすっかり信じ込んだ王様は末息子に立派な着物を与えました。
 このようにして、猫は「本質的」には貧乏である末息子を、「外見的」には裕福なカバラ侯爵に仕立て上げ、やがて「本質的」にも裕福な人物へと出世させていったのです。ここまで話を進めてみると、一般性①の見方もまた違った形で見えてくるのではないでしょうか。人は末息子のように、「本質的」には貧乏だからとくよくよしがちですが、世渡りの術とかけひき(外見的価値を高める事)によって、出世することが出来るのです。
 またこの理由は、一般性②によって示させています。つまり「本質的」価値を気にしているのは当人ばかりで、他人は「外見的」な価値を気にするものなのです。これは私達にも頷ける話ではないでしょうか。一流の職人から見れば、お粗末な機能をもった鞄やメガネケースでも、一流のブランドのロゴが入っていればそれなりの価値があるように見えるのも、私達にそうした性質があるためです。これと同じように、作品に登場する女王様、王様も末息子がどのように貧乏であったとしても、彼の「侯爵」というブランドネームに惹かれ、猫の演出と演技を信じた為に、王様は末息子に王女様との結婚を申し出、王女様も彼を魅力的に感じ結婚しました。
 本当の自分の価値などを気にしているのは自分ばかりで、他人はそうではなくその見え方ばかりを気にしているものなのです。

2013年1月9日水曜日

新年のあいさつ

 コメント者をはじめブログを閲覧してくれている方々、友人方、新年、あけましておめでとうございます。そして昨年末から新年まで、文学の学史研究をしていた為、多くの方に年賀状が出せなかった事、年始めのあいさつが遅れてしまった事をこの場を借りてお詫び申し上げます。

 さて本来このブログでは文芸に関する記事をメインとしてアップしている訳ですが、上記による私の不手際と、最近こちらに記事がなかなかアップできなかったという事情もありますので、この場で新年のあいさつをさせて頂きたいと思います。

 私は去年6月生まれ育った四国を離れ、現在は関西に住んでいる訳ですが、そうした変化の月に、旧友及び職場の同僚達は私を快く追い出してくれました。また関西に出てくれば出てくるで、コメント者をはじめとした、学生時代に親交を深めていった師や先輩、友人が私を迎えてくれた事も昨年の思い出として心に残っています。こうした環境の中で、自身の夢を一身に追いかける事が出来るという事程、心強いものはありません。

 2013年がはじまった2日目の朝、コメント者から封筒が届きました。中を開けてみると、研究資料と簡単な新年のあいさつを書いたメモが入っていました。
そのメモの一文に、「今年も本質的進化を目指して共に頑張ろう!!」という一文がありました。そのあまりにも仰々しさに思わず笑ってしまいましたが、まさにこの一文こそが私とコメント者との数年の修練を支えてくれたものだったのだと思うと、同時に身が引き締まる思いがしました。

 今年も多くの人々、多くの作品と触れ合う中で、自己を磨き、正しき批判者として日々を過ごしていきたいと思います。