2014年6月27日金曜日

タナトスの使者ーFile1−2

 来島は早速、安田を「審査」する為に鈴木に連絡をとった。鈴木は彼の右腕とも言える存在で、これまでに幾度となくコンビを組んで仕事をこなしてきた、言わば戦友なのである。来島は彼に基本的な情報を調べさせた。鈴木はその日のうちに、しかも1時間とかからない時間で彼に情報を送ってくれた。それによると、安田は15年前まで大手総合建設業、所謂ゼネコンの役員をやっていた、エリートサラリーマンであることがわかった。また欠勤も退勤も殆ど無く、真面目に勤務していたようである。しかしこれでは彼の事をまだ分かったことにはならない。来島は携帯電話を取り出し、鈴木に電話をかけた。
「もしもし、来島だ。データには目を通した。……ああ、だけどまだ白だとは言い切れない。いつでもいいからうちに来てくれないか。……悪いがよろしく頼む。」
 来島の家からだと鈴木の家はそう遠くはないが、夜も大分更けている。恐らく明日の朝ぐらいにくるだろう。そう来島は考えたが、この彼の計算は少し甘かったようだ。彼の家のインターフォンは、彼が予想していたよりもはやく鳴ったのだ。ため息混じりに玄関のドアを開けにいった。すると、そこには今風の黒縁の眼鏡をかけ、髪の上部のみを染めた、いかにも軽薄そうな男がそこにいた。
「これじゃあ藤堂会長に軽いと言われても、俺は反論できないな。」
「失礼だなぁ。」
 鈴木は笑って反論しているものの、少し心外に思っているらしい。
「善は急げって言うじゃない。仕事に対して実直なだけだよ。」
「……分かったから入れ、珈琲でも入れてやる。」
 鈴木はそう言った軽薄さとは裏腹に、靴をきちんと整えてから上にあがった。彼は見かけと言動とは裏腹に、慎重で細かいのだ。来島はこうした彼の細やかさや慎重さを感心せずにはいられなかった。しかし声に出して褒めたことは一度もない。
「で、あと僕は何をすればいいの?」
「張り込みをして欲しい。依頼人の近くのマンションを借りれる事になっている。」
「期間は?」
「そうだな、2週間ぐらいだな。その間俺は依頼人の奥さんに接近する。」
「どうやって?」
「……まぁ手段ならいくらでもあるさ。だがあまり時間は長くかけたくない。会長からもそう言われている。」
「そうだね、誰かに感づかれないとも限らないし。」
 このような会話をしている間、来島は珈琲をいれて彼の前に出してやった。鈴木は礼を言ってから、一口目をゆっくり味わった。
「……お、やっぱ珈琲だけはお前の方が美味いな。」
「だけとか言うな。それよりも明日からしっかり取り掛かってくれ。」
「へいへい。」
「それから、それ飲んだらさっさと帰れよ?俺だって依頼人とどう接近するか考えないといけないしな。」
「えー、つれないなぁ。折角来たんだし、もうちょっとゆっくりさせてよぉ。」
 人懐っこい声で鈴木は言った。しかし来島は彼を容赦なく突き放す。
「非常識な時間に人の家に来といて何言ってるんだ。大体、今日じゃなくても良かっただろ?」
 そう言われた鈴木の顔が一瞬ニヤついた。来島は彼のこの表情が妙に引っかかった。
「ただ僕が仕事の話をはやく聞きたいが為にきたと思っているなら、それは間違いだよ。」
 そう言うと鈴木は自分の鞄の中から数枚の書類を取り出した。来島はそれを手に取り目を通しはじめた。それは安田に関する、住民票や戸籍標本など、どれも重要な個人情報ばかりであった。
「そこに面白い事実がのってあるよ。」
 やがて徐々に来島の表情が真剣になっていった。それとは対照的に、鈴木は鈴木で愉快そうにそうした彼を見ている。
「……鈴木、調べる価値はありそうだな。」


 安田奈保子は、いつものように行きつけのスーパーで買い物を済ませて家路につこうとしていたところ、荒々しい男達の声を耳にした。声の主たちはどれも若そうではあったが、どれもお世辞にも上品とは言えぬ台詞を吐いていた。声は自然と奈保子の方へと向かってきた。心臓が脈打ってきたのが自分でもよく分かった。が、彼女は平生を保てる自信も同時に持ち合わせていた。やがて、裏路地から1人の男の影がうっすらと見えてきた。春らしく涼しそうなスーツを身につけているが、20代ぐらいだろうか。必死の形相をして走ってきた。その後ろから、髪を金色に染めた者や、髪を好き放題に伸ばしピアスをつけている者、そうかと思えば、綺麗に毛を抜いた者まで実に派手やかで柄の悪そうな集団が血眼にスーツの若者を追ってきた。若者は決して捕まらんとここまで頑張ってきたようだが、やがて賑やかな男たちの迫力に負けたのか、足を絡ませて七転八倒した。その様子を見た集団は下品な声で嘲笑し、その中の1人が男を蹴りはじめた。
「だっせぇなぁ、おい!!!!え!??」
「ねぇねぇねぇねぇ、何に躓いたの??んん??」
 1人に続いてもう1人、更にもう1人と罵声を浴びせながら、集団は蹴手繰り出す。奈保子はすかさすバッグから携帯電話を取り出し、「ちょっと!!」と大きな声で集団に向かって言った。しかしそれに狼狽したのは奈保子の方ではなくて、賑やかな男たちの方であった。誰か奈保子の手の中にある機械の存在に気づくと「やべっ、見られた!!」と言い、仲間の背中を叩いて逃げ出した。他の仲間もそれに従う形で次々と逃げていった。彼らが逃げると、奈保子はすかさずスーツの青年の方に走り寄った。
「大丈夫なの?」
「え、ええ、大丈夫です。」
 見ると青年の唇の横あたりが少し腫れており、新しく買ったばかりと思わしきスーツは埃にまみれ、靴の跡がいくつもついていた。
「怪我してるじゃない。お洋服もボロボロ。あたしの家でゆっくりしていったら?」
「いや……でも…。」
 青年は明らかに躊躇していた。自分に遠慮しているのだろうと奈保子は思い、やさしい口調で諭そうとする。
「何処に行くつもりかは知らないけれど、その格好では駄目だよ。遠慮せずに……ね。」
「……すみません、何から何まで。」
 それから2人は安田家へと向かい、そこで青年は傷の手当をしてもらい、顔を洗わせてもらった。その間、青年は自分の事について色々と話した。名は宮田と言い、就職活動中の大学生らしい。そして先程の男たちには、目を合わせた瞬間に誤解されたらしく、追いかけられる羽目になったというのだ。
「しかし安田さん、息子さんも僕ぐらいの年頃じゃないですか?」
 奈保子はにこやかな表情で答えた。
「そうね、産んでいればそれぐらいかな。でも、残念ながら主人とあたしには子供はいないから。」
 青年はほんの一瞬、目が鋭くなった。しかし奈保子は全く気づかなかった。
「そうなんですか、ところでご主人さんは今はお仕事をさているんでしょうか。急にお邪魔させてもらった手前、挨拶なしにはちょっと……。」
「ごめんなさいね。」
 奈保子は先ほどの調子とはやや違い、俯きボソボソとした口調で言った。
「家にいるんだけど、今癌でね。滅多に人には会いたがらないの。だからごめんなさいね。」
「……そうでしたか。」
 察するように青年は続けた。
「僕の父も癌で療養してて、今は実家の兄が週に何度か病院に通っています。」
 奈保子の目は少し大きく開いた。
「まぁそうだったんだ。お兄さんも大変じゃない。」
「ええ、でもこの前なんか、親父は病気になっても我儘で困るって愚痴を零していました。」
「そうなんだ。」
 奈保子の表情が少し和らいだ。それを見た青年も笑みを浮かべた。
「安田さんのご主人さんって、どんな方なんですか?」
「んー、堅物で根っからの仕事人間ね。そして仕事仕事かと思えば、今度は病気して家にこもりっきり。全く、人の気も知らないでね。」
 そう語る奈保子の顔は夫に対する憎さと怒りとの表情に満ちているように、青年には見てとれた。しかし、奈保子は青年のそうした真剣な眼差しに気づくとはっとした。
「あっ!!ごめんなさい。なんだか愚痴っぽくなっちゃって。」
 今度は困ったような笑いを浮かべた。対する青年は愉快そうに答えた。
「ごめんなさいはこっちのほうなのに、なんだか安田さんの方が謝ってばっかりだ。」
「あら、あの状況で助けないわけにはいかないから、そんな気にすることないとおもうけど?」
「もう行かなきゃ。長居し過ぎました。」
 そう言うと青年は立ち上がり、帰り支度をはじめる様子を見せた。
「あら、じゃあまた暇な時に寄っていって。こんな時間ばかりを持て余した老婆の相手を良かったらしに来てね。」
「いえいえ、安田さんは気持ちもお若い。それじゃあお世話になりました。」
 青年は安田家をあとにすると、ポケットから携帯電話を取り出し、あるところに電話をかけた。
「もしもし、鈴木。さっき出てきた。」
「おお、どうだった?」
 電話の向こうの鈴木と呼ばれた男は興味津々といった感じで青年の話に食いついた。
「安田氏の事を嫌っているようにも見えなくはない。」
「おまえ……それどっちだよ。」
 鈴木は呆れたような声を出した。
「今の時点ではまだ分からん。だがあの夫婦に何らかの亀裂がある事は確かだな。」
「そりゃあ、あれ以外にないんじゃない?」
「結論を出すのははやい。お前の方はどうだ?」
「退屈なもんさ。話もなんかこう、店員さんとお客さんのやりとりみたいに、「お身体拭きましょうか」、「うん」、「ご飯にしましょうか」、「うん」ぐらいなもんだよ。あとは時々爺さんが咳き込む声が聞こえてくるだけ。」
「収穫なし、か。あとで食い物買っていってやるから、欲しいものがあればメールをくれ。」
「おう、流石に腹へったわぁ。頼んだよ、来島。」
 青年は通話を切り、急ぎ足で何処かへと歩いていった。

2014年6月15日日曜日

ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜4月3日(修正版5)

1・躾期

1887年3月6日ーヘレンの欠点とはどういうものか

 アン・マンスフィールド・サリバンはヘレン・ケラーという7歳前後の少女と出会う以前、彼女の事を「色白くて、神経質な子供」だと思っていました。これはハウ博士が書いた、ローラ・ブリッジマンのレポートを読んだ上で、彼女との教育を予め想定した事が由来しています。
 ですが実在のヘレンはそのような人物ではありませんでした。彼女はこれまで両親に、なんの制約も制限も受けてこなかった為に、活気溢れる健康的な子供へと育ってきたのです。じっとしていることは殆どなく、子馬のようにうごきまわっています。
 ですが、そうした教育方針が仇となっている面もあるのです。ヘレンとはじめてあったサリバンは、彼女の突進を受けて、危うく地面に頭をぶつけそうになりました。そればかりか、彼女はサリバンのバッグを勝手に開けて、なんと中身を確認しようとしたのです。一体何故彼女はもうすぐ7歳の少女とは思えない、幼稚で無作法な行動をとってしまうのでしょうか。
 先程も述べておいたように、彼女は両親によって「自由に育てられて」きました。例えそれが子どもとして、人間としてやってはいけない行動であっても、障害を持って生まれた子供への同情から、子供故の純粋な気持ちから来ていることを察している事から、それらを容認してきたのです。またヘレンの側でも、他人のしている行動や行為が物理的に見えない、聞こえないという事情から、外界からの情報が殆どはいってはきません。ですからヘレンは私たちの原始的な感情たる快不快の感覚だけが極端に発展させていき、社会性を持たない子供へと成長していってしまったのです。
 そこでサリバンは自身のはじめの仕事として、教育以前の、人間の土台となり得る躾の部分から手をつけようと考えたのでした。

1887年3月月曜の午後ー人間的に躾けるとはどういうことか

 ですが、サリバンの言うところの躾とは、どのようなことを指すのでしょうか。この手紙を書いた日、彼女はヘレンと激しい喧嘩をしています。原因はヘレンの食事作法にあったのですが、それが目の前のものは全て手づかみでとり、欲しいものは例え他人の皿でも勝手に取るといった、すさまじしいものでした。ここで「成程、流石にこれは誰でも怒るだろう。」と思った方も多いでしょう。ですがサリバンは単純に、その作法の汚さ見苦しさから怒った訳ではありません。
  私たちはどのようにして便器で用を足すことを学んだのでしょうか。どのようにしてお風呂で体を洗い、清潔を保つことを習慣化させていったのでしょうか。言うまでもなく、自分の両親から「人間として」躾を受け、習慣とさせていったのです。ですがこれが人間以外のもの、例えば狼に育てられたのならば、どうなっていたでしょうか。こう問われると、一部の方々は「アマラとカマラ」を彷彿すると思います。彼女らは狼に育てられた為に、背筋は曲がり、口を食べ物に近づけて食事をし、4本足で歩行したといいます。私たち人間は他の動物とは違い、はじめから人間として完成している訳ではありません。複雑なルールや取り決めのある社会で生きる為に、人間として躾られることではじめて人間と言えるのです。
 ですからサリバンは、ヘレンの、あまりに人間としての作法から離れたこうした食べ方を容認する事は出来ず、躾が必要だと感じ実力で言うことをきかせようとしたのでした。
 しかし大きな課題も残りました。結果的にヘレンは正しく食事をすることが出来ましたが、それまでに両者ともくたくたになるまで争わなければならなかったのです。こうしたことを続けていて、果たしてヘレンの躾はうまくいくのでしょうか。

1887年3月11日〜13日ーそれまでの自分を捨てさせる
 サリバンはそれまでの方針を大きく変えて、ヘレンと「つたみどりの家」ということろで2人暮らしをはじめることにしました。そもそもヘレンがこうなってしまったのは、彼女の独裁を許してきた両親にも責任があるのです。両親は彼女の我儘を受け入れ続けてきた事で、自然とそれを受け入れる心身を手に入れ、環境を整えてしまっていったのでした。ですから彼女が幾ら人のお皿に手をつけようとも叱ったりはせず、泣き喚けば全てを許して彼女に屈服するのです。そしてヘレンの側でも、そうした自分にとって我儘を言いやすい環境が整っていた為に、暴君としての気質を磨いてきました。
 だからこそサリバンは、そうした暴君の存在を許せる環境からヘレンを一度切り離した上で、独裁できない環境で躾けようとしたのです。
 そして、サリバンは彼女の暴君としての気質を失わせるべく、彼女を「征服」することにしました。「征服」と言っても一般的な野蛮な意味ではなく、前回の手紙のように、人の道にあまりにも逸れた行動にのみ、力によって抑えこむことを意味します。これにははじめの方こそ、ヘレンは強い拒否を示し、手がつけられない程でした。ですが「つたみどりの家」がこれまでのような、独裁を許してくれる環境ではないことを悟ると、不本意ながらも言うことを聞くようになっていきます。


2・知性の生成

3月20日〜4月3日ー教育の土台の生成

 環境という自身よりも大きなものが変化していったことで、ヘレンの内面もそれに合わせる形で変化を見せているようです。はじめはあれ程「征服」されることを拒んでいたものの、日が経つにつれてそれを受け入れはじめました。そして「征服」されることに慣れてくると、今度はそれを楽なものだと感じるようになっていったのです。またサリバンの側でも、彼女がうまく「征服」を受け入れた時には、好きなものを与えたり頭を撫でたりなどして、「征服」されることを快感とすら思うようにさせていったことが考えられます。
 ですから3月20日というその日を、ヘレンは晴れやかな表情で迎えられたのです。彼女は「征服」を完全に受け入れると同時に、人間として「やってもいい、いけない」という事を学んだのでした。
 しかし彼女はまだ、教育という長い道のりのスタートラインにたったに過ぎません。また更に大きな問題は、彼女は「ことば」というものの存在にすら気づいてはいません。私たちは知識や知恵を「ことば」によって保存し、自由自在に使うことができます。それは「犬」や「猫」といった具体的な概念から、「理念」や「思想」といった高度な概念まで、あらゆるものを「ことば」によって規定し他者との交流に用いるのです。だからこそ、「ことば」というものは、人間社会において他者と交わることにおいて欠かすことは出来ません。ましてや、何かを教えたり自身の考えを伝えたりする教育の場において、それなしには不可能と言っていいほどでしょう。果たして彼女らはこの大きな問題をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。

2014年6月7日土曜日

タナトスの使者 File1−1(修正版)

ただ生きるという以外に
何の目的もなしに
いつまでも生き続け
どこまでも
生を続けていく種族というものは、
客観的には滑稽だし、
主観的には
退屈なものだろうさ

ショウペンハウエル


 他者に死を与える事はいかなる場合であっても、殺人である。それが大量殺人犯であろうが快楽殺人犯であろうが、病気に苦しむ親を酷く思い息の根をとめる親思いであろうが、皆等しく罰せられるのだ。しかしそうした禁忌をあえて犯し、その業苦の人生から人々を救わんとする組織がこの世には存在するのである。彼らはギリシアの「死」の神の名に肖り、「タナロジー学会」と名乗っている。来島明良(くるしま あきら)はそんな死神の使いとなり、人々に死の審判を下していた。彼らとて、誰でも無差別に死を与えているのではない。それは公平なる良心からくるものでなければならないのだ。そして来島はいつ何時もそれを忘れまいと、月に一度の墓参りを習慣としている。手を合わせ目を瞑ると、これまで彼が審判を下してきたものの顔が浮かび上がってくる。皆人生に疲れ果て、生という鎖を断ち切ろうとしたくて堪らないといった表情を浮かべていた。その表情を丁寧に思い出していくうちに、来島は背筋がピンと伸び、全身の筋肉が締まっていくのを感じる。そうした彼の姿はまるで煉獄の亡者達の魂を狩る死神のようにすら見えてしまう。そして目を開けた瞬間には、これから自分が成すべきことが不思議と鮮明に浮かび上がってくるのだ。
 ある時彼がいつものように墓参りを済まし家路につこうとすると、向こうから黒い高級車がゆっくりとこちらに近づいてきた。来島はその車に幾度となく乗ったことがある。やがて車は来島の前でとまりミラーがゆっくり開くと、男の顔が出てきた。この顔とも来島は何度も突き合わせている。
「ここだったか。」
「偶然ですね。」
 来島はわざと白々しくした。この男がなんの用事もなしに彼に会うことなどということはあり得ない。しかしもしかすると、という「淡い期待」も同時に抱かずにはいられなかった。
「毎月来ているんだろう。」
 来島は黙っていた。が、心の中では「やっぱり」という落胆を感じてはいた。
「頼みたい事がある。」
「……仕事ですか。」
 その一言には、彼の精一杯の非難でもあった。「あなたも線香の一本ぐらいあげていってはどうですか」という言葉がそこまで出ていたが、あえて押し黙った。
「それ以外にお前と私とに何がある。すぐに取りかかれ。」
 そう言うと男は彼に一枚の紙切れを渡した。そこには依頼人らしき人物の名前が書かれてある。男は彼が承諾するかしないかを確認もせずに、車を出し去っていった。ひとり取り残された彼は、紙を丁寧に折って財布の中にしまい込み、早速仕事にとりかかることにした。

 安田隆一にとって最早日常というものはただ死を静かに待つだけの、無意味なものとなってしまった。10年以上前に会社を定年し、多くの友人をあらゆる病気で亡くし、そして自らも2年前からガンに全身を蝕まれて生きる気力を殆ど失っていたのだ。もう待つことも疲れ果てた彼は、いつしかいかにはやく死ねるかということばかりが頭を巡るようになっていった。やがてふと、以前に友人から聞いた、違法で他人の死を専門に扱う団体に連絡をしたことを思い出す。なんでもそこに頼めば、自分の一生を簡単に終わらせてくれるらしい。しかし待てど暮らせど今日までなんの音沙汰もない。
「そんなうまい話があるわけないか。」
 彼はそんな独り言を漏らしため息をついた。その時である。窓のあたりから冷たい風が吹いているのを感じた。(可笑しいな、妻が締めていったはずなのだが……。)虚ろな眼差しで庭の窓に目を向ける。すると窓は開け放たれているばかりか、そこには季節外れにもトレンチコートを着た、若く背の高い男が立っていた。安田は何者?と思うと同時にもしや!とも思った。そして安田が自分に気がついた事を知ると、男は静かに口を開いた。
「遅くなって申し訳ありません。日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。
 安田にはそれだけで一切が分かった。ついに自分を殺してくれる悪魔がこの場に舞い降りてきてくれたのだ。安田はやっとかという疲れきった表情を浮かべた。
「随分遅かったじゃないか。」
「来るには来ていましたよ。」
 この一言に安田は腹を立てた。幾ら向こうにとっては仕事だとはいえ、なんだか自分の生き死にをこの若造が安く見積もっているように思われてならなかったのだ。彼の聞きやすく、透き通った声の調子もかえってそうした感情を助長させた。
「何だと!どういうことだ!!」
「落ち着いて下さい。私は何も貴方を怒らせに来たわけではありません。」
「当たり前だ!」
 来島は落ち着き払って、安田の怒りを鎮めようとした。だがその様子が更に彼を苛立たせるのだ。
「私たちにも事情というものがあるのです。それに貴方だって、誰かに自分が死ぬところを止められるのは困るのでしょう。」
「こんな老いぼれの命を誰が気にするんだ!保険会社か!!」
 こうした安田の態度に来島は呆れながらも、これから自分たちが社会的にどのような事をやろうとしているのかを説明していく。
「……いいですか、私たちがやろうとしていることは立派な犯罪です。それは刑法202条(※1)にも定められています。捕まれば、私は一生檻の中でしょうし、貴方だって死ぬ前に余計な汚名がつくことになるんですよ。」
 これには流石の安田も狼狽した。が、彼にとって法の存在など死の前では取るに足らない事は変わりなかった。
「……では、その調査とやらが終わったらすぐ殺してくれ。その方が君も警察に捕まることもあるまい。」
 何かを圧し殺すかのようにこう述べた。一方、来島の口調は変わらず、ただ業務的に、しかし何処かでは安田を挑発するかのように話を続ける。
「警察の事などではありません。これでも医者ですから、下手は打ちませんよ。問題は私達の活動を面白いように思っていない人々もいるということです。貴方が見つけたくらいだ。もしかすると、もうすぐそこにまで来ているかもしれません。」
 来島は窓の方に目をやった。すると、安田も食い入るように窓の外を見はじめた。
「安心して下さい。今は大丈夫ですよ。」
 安田は今度は顔を赤くして下を向いた。そしてそれを隠すかのように、こう述べた。
「……しかし、お節介な奴らもいるものだ。尊厳死は誰しも認められた、平等な権利とばかり思っていたがな。」
「平等な権利なんかありませんよ。そもそも尊厳死というのは患者の希望で延命治療を中止することしか意味しません。これからやることはあなたにとっては自殺、私にとっては殺人、それ以上でも以下でもありませんよ。」
「むう……。」
 安田は誤解していたようだ。彼らが来てくれれば、すぐに、しかも簡単にその一生を閉じれるものと思っていた。しかしどうやら事は彼が考えているほど、単純ではないようである。
「……私はあと、どれほど待てばいいのだ?」
「そうですね、調査の上に、貴方を審査しなければならない。と言っても心配いりません。少しの間だけです。」
「審査だと?」
「私達が扱っているのは“死”です。“死”はだれにでも平等で公平なものでなければなりません。その為に、私達にも会則というものが存在します。まずはその会則に違反しているかいまいか審査し、それが通った時、はじめて死ぬことが出来るのです。」
 安田の中で一旦収まっていた怒りが再び蘇ってきた。彼らはまるで自分の痛みに無頓着な気がしてならなくなっていった。
「おい、神様か何かにでもなったつもりか!!人を何だと……。」
「従って頂けなければ、話はこれまでです。」
 話の途中、来島は力強く割って入った。そして安田はまたしても閉口してしまったのである。彼はまたも俯き、汗をかきながら考えてごとをしているようだった。
来島もその様子を暫く眺めてはいたが、やがて静かに口を開いた。
「……何故貴方はそこまでして私達に拘るのです?ガンだとは聞いていましたが、この様子だとどの道先は長くないでしょうに。」
 そう言って来島は部屋を隅々まで見渡した。安田のベッドの周りには医療機器と思わしき機材が取り囲むようにして置かれていたのである。
「そうだ、もうリンパ節にまで移転していてステージⅢBだ。だが余命半年と医者から宣告されて、2年半にもなる。ここまでくればもう打つ手はないだろう。私も多くの友人をガンで亡くしているが、皆最後は体中に管を散々巻きつけられた挙句、痛み止めで意識が朦朧とした状態で、家族に別れも告げられない儘この世を去っていったよ。そんな死に方は嫌だとは思わんかね?」
「……お気持ちはわかります。しかし……それでは…何故です?」
 来島は慎重に言葉を選ぶかのように答えた。
「君も医者なら分かるだろう。私以外の家族への負担、妻への普段だよ。彼女以外家族はもういない。子供もいないしな。だが、もう限界らしい。ちょうど君たち学会に連絡をする2週間前の話だよ。私は妻の介護で晩飯を食っていたら、ちょっとした不注意で味噌汁を零してね。妻がおわんをとろうとした時だ。妻の横顔が私の知っている女の横顔ではなかったんだよ。私は何かの見間違いかと思ってまじまじと凝らしたよ。するとどうだい。目に力はなくなり皺も余計に増えて、表情には生気が感じられん。妻は私という地獄の鎖に繋がれているのだよ。このままでは、彼女に生き地獄を見せ続けることになる。……思えば妻は明るく社交的な性格でな。私がこうなる前は書道の先生をしていて、それもなかなかの評判だったんだが、病気をしてからはそれもぱったりやめてしまった。だからもう一度、妻には妻の人生を生きて欲しいんだ。その為に私は邪魔なのだよ。」
 見ると安田はシーツをギュッと握りしめ、全身からは汗が噴き出るように出ていた。しかしそんな安田の様子に、来島はあろうことか涼しげな笑みを見せた。
「いや、つい感動してしまいました。その意思は死を処方するに値します。」
 安田はシーツをより強く握りしめた。どうしてもこの男が気に喰わないのだ。
「……では、殺してくれるのだな。」
「いや、審査はまだ続きます。心配いりません。貴方のメフィストフェレスはすぐに参上することになるでしょう。そのときまでしばしの別れです。」
 そう言うと来島はトレンチコートを翻らせながら、相手の返事も聞かない儘に窓から去っていってしまった。


脚注
※1ー人を教唆し、若しくは幇助(ほうじょ)して自殺させ、又は人をその属託を受け、若しくはその承諾を得て殺した者は6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。