2014年10月30日木曜日

鬼ー織田作之助(修正版)

 著者の知り合いの辻十吉という男は、世間では金銭に関しては抜目がなくちゃっかりしている、俗物作家だと思われていました。ですが実際はその逆で、彼は金銭に疎く、生活力のない、所謂ところの仕事人間だったのです。煙草がないと仕事が捗らないからと借金をしたり、身内が危篤でも仕事が終わらぬうちは腰をあげようとしなかったり、挙句の果てに、自分の結婚式には仕事が終わらぬからと2時間以上新婦やその縁者を待たせたりという始末でした。
 ですが、そんな彼も小説の話となると、お金の細かい感情を積極的に出来るのです。ある時、著者が闇市で証紙を売っていたという話を辻に話したところ、いつにもなく熱心に聞いてきました。その様子を著者が不思議に思い、買いにでもいくのかと尋ねると、
「誰が、面倒くさい、わざわざ買いに行くもんか。しかし、待てよ。こりゃ小説になるね」
 と言って、金銭に困った一家が千円分の証紙が出てきた事をきっかけに、家の経済を立て直すといったシナリオの子細を話しはじめます。(※)一体彼は何故、小説の話になると、あれ程興味を持たなかった金銭の話を進んですることが出来たのでしょうか。

 この作品では、〈創作にのめり込めばのめり込む程、自分の嫌いな分野でも興味を持てるようになっていった、ある作家〉が描かれています。

 あらすじにあった問題を解くにあたって、もう一度辻が小説の話をする前の出来事から整理していきましょう。それまで著者たちは、辻のズボラな金銭感覚について話していました。そして闇市で証紙を売っている話になると、彼が熱心に聞いてくるので著者が、
「いやに熱心だが、買いに行くのか」
 と訪ねます。しかし彼は、
誰が、面倒くさい、わざわざ買いに行くもんか。」
 と答えました。ところが次の自分の言葉で、辻の頭は創作活動の事で頭がいっぱいになります。
「しかし、待てよ。こりゃ小説になるね」
 一体この一言の前後で、彼の頭はどのように切り替わっていったのでしょうか。
 それを解くためには、まず作家がどのようなものを創作の対象にしているかについて押さえておかなければなりません。小説というものは当然、人間、或いは人間的な心を持った生物の心の変化やその時々の心情を対象に物語を綴っていきます。そしてそれらを書くためには、人間の気持ちがどんな時にどのように揺れ動くかや、日々の生活をどのような心情を持ちどのように過ごしているのかを知っておかなければならないのです。牛乳嫌いなカフェの経営者が、上質なミルクに拘るように、或いは虫嫌いな児童文学者が、自然の話を書くために虫の事を研究するように、この辻も必要に迫られた故に、問題意識が台頭した際、自分の主観を捨て去り客観的に対象と向き合っていきます。そして小説というフィルターを通して、証紙を見ていくようになっていったのでした。
 同じ証紙や金銭といった対象を見るときでも、それが小説のネタになるのか否かが、辻にとっては大きな問題だったわけです。しかし市井の生活を重視する私たちにとっては、そうした問題意識が働かずどれもが重要に見えるからこそ、彼のこうした行動が滑稽に見えてしまいます。ですがこれもひとつ、私達には違う、別の問題意識が働いているからこそなのです。

課題提出用ブログ;千代女ー太宰治を読んで

 今回から、O君の書いた評論を私がコメントしていきます。以下はその文章です。

❖O君の評論❖
千代女 太宰治

 18歳の女性である和子は12歳の頃雑誌に綴方(作文)を投稿した事をきっかけに周囲の思惑と自分自身の中にある綴方に関する感情に振り回されることと なります。その周囲の思惑も自身の感情も時間と共に変わっていきますが、周囲の思惑に振り回されていった和子自身は次第に「自身に文章を書く才能がない」 という客観的に自分を見たときの頭の像と「もしかしたら一つくらいはいいところがあるかもしれないし自分で文を書いてみたい」という感情的で主観的な頭の 中の像の板挟みになり「頭に錆びた鍋でも被っているような、やり切れないもの」を感じて、「自分で自分がわからなく」なっていきました。

  この作品では、<周囲との関わりによって、自分の頭の中で膨れ上がった文章に対する異なる頭の像が葛藤を起こし、動けなくなっていく女性>が描かれています。

 この作品では和子が綴方や小説などに向ける感情の変化を周囲との関わり合いと共に描いていますが、その変化は作中の時間の経過と共に大きく1.12歳頃 の雑誌への投書をきっかけに綴方が嫌いになった時期。2.女学校に進学して最終的に綴方をすっかり忘れることができた時期。3.小学校時代の担任や叔父、 母の思惑の影響で自分の現状と欲求に板挟みになっている時期(現在)の三つに時系列順、あるいは環境毎に分ける事ができます。そしてこの時間の流れの中で 一貫している事は『綴方に関して父親を除いたほぼ全ての人間が和子が雑誌で先生に大変褒められたことばかりを見ていたこと』、『和子自身は自分に文章を書 く才能がないと自覚していること』の二点です。

 1.の時点では偶然にも投書が雑誌に載ってしまい、『投書が雑誌に載って選者の先生から高い評価を受けた事実』ばかりが不当に賞賛されてしまい、担任の 先生や学友などの周囲からの視線が変わり、自身に綴方の才能がないことに自覚がある故にそのことが非常な重荷になり、性格も臆病になった上に綴方や小説に 関して嫌悪感を感じるようになっていきます。その後、小学校から女学校に進学し、環境が大きく変化したことで周囲の視線と自身の才能から生まれる苦しさか ら抜け出し、最終的に小説を読むことや綴方をすすめる叔父がとあるきっかけから和子に近づかなくなったことによって、一度は綴方のことをきれいに、忘れ て、日常の仕事や勉強をこなしながら張り合いのある日々を送れる位にまで精神的な健康を取り戻すことができたのです。しかし、その後小学校時代の担任が家 庭教師に来たことをきっかけに和子が文章の才能を活かすことに未練のあった母や生活が苦しくなったその先生の思惑に和子は家族ぐるみで振り回され、結果 「小説でも、一心に勉強して、母親を喜ばせてあげたい」という感情さえ出てくるようになるのですが、同時に、「文才とやらははじめからなかったのです」と 再び自分に才能がないという自覚を新たにもしてしまうのです。さらに、昔の担任との関わりが切れた後に、18歳の女性が小説で名前を挙げたことを知った叔 父が和子を小説家にしようと意気込んで家を訪ねてくるようになります。しかしながら、現在の彼女が書いた文章を読んだ叔父は書かれた文を半分も読まずに 「才能が無ければ駄目」だと言い出すのです。ここに来て12歳の頃から和子にあった文章の才能がないという自覚が他人から告げられることによって主観と客 観が一致することになります。しかしながら和子の心の中には文章を「書いてみたいとも思う」という感情が既に存在しているために、矛盾している二つの頭の 像、つまり現実的に存在する『文章を書く才能がない』という頭の中の像と欲求として存在する『文章を書きたい』という頭の中の像が葛藤を起こしてしまいま す。そして女学校を卒業するという環境の変化も相俟って急に人が変わってしまい、二つの頭の像の争いが大きくなっていくにつれて、自分で自分がわからない 状態として「頭に錆びた鍋でも被っているような」感覚を自覚し、12歳の頃に雑誌に自分の綴方を選んだ先生に助けを求めるまでに精神的に追いつめられたの です。

❖コメント
 私の評論の構成は、あらすじ→一般性→論証となっており、どうやらO君はそれに則って今回書いてくれているようです。ですので、この構成が評論においてどのような役割を果たしているのかを見ていくとともに、彼の作品自体がその役割を適切に果たせているのかを見ていきましょう。

 はじめにあらすじですが、当然ここではその文学作品がどのようなものか、はじめて読む人々に簡潔に説明する必要があります。そして単に説明するだけではなく、次の一般性→論証への足がかりをつくっておかなければなりません。以上の観点から見た時に、果たして今回のそれは条件を満たしているのでしょうか。
 結論から申しますと、どうやらO君は後者の条件ばかりに気を取られて前者の条件が抜け落ちているようです。というのも、文中のはじめにある、「18歳の女性である和子は12歳の頃雑誌に綴方(作文)を投稿した事をきっかけに」という一文ですが、これでは作中の主体的な人物が、18歳の女性にあるかのような書き方になっています。ですが、この物語は12歳の少女の頃の出来事が中心にあるのであり、18歳の彼女はそうなっていった過程を綴っているに過ぎないのです。
 また次に、「周囲の思惑と自分自身の中にある綴方に関する感情に振り回されることと なります。」と続いていますが、一体周囲とは誰と誰の事なのでしょうか。これは単純にもう少し具体的な事を書けと述べているのではなく、周囲が誰なのかを明確にすることで、作品の雰囲気が明確になることだってあるのです。
 例えば「友達の思惑と自分自身」と書けば、少年少女の他愛もない自慢や好奇心を扱っているのか、と読書は思うでしょうし、「周囲の大人と自分自身」と書けば、自分の力ではどうすることも出来ないが、1つの立派な人格が形成されつつある過程が描かれているのか、と思うことでしょう。
 あらすじとは、物語を整理するためだけにあるのではなく、はじめて読む人にも、その作品の魅力や雰囲気を伝える為に書かなればいけないことを承知しておいて下さい。

 次に一般性ですが、ここではこの作品を「一言で言うと」どのようなことが書かれているのかを明示しなければなりません。O君の出してきた一般性はこうでした。

<周囲との関わりによって、自分の頭の中で膨れ上がった文章に対する異なる頭の像が葛藤を起こし、動けなくなっていく女性>

 どうやら、あらすじの部分で、「周囲」、「女性」といった部分を不明瞭にしてしまった為に、その「女性」の問題が何処にあるのかが、いまいち分からない印象があります。例えば、成人した女性でも、自分の文章が上手いと思っていたのに、友達から悪文と思われていた事が発覚し書けなくなっていったと言う事は十分あり得るではありませんか。矢張り、あらすじと関連して、どの年代の、どのレベルでの悩みなのか、というところが希薄になっています。

 そして論証ですが、ここでは上記の一般性をもとに、何故その「一言」なのか、というところを論じていきます。O君はこの作品を、

1.12歳頃 の雑誌への投書をきっかけに綴方が嫌いになった時期。
2.女学校に進学して最終的に綴方をすっかり忘れることができた時期。
3.小学校時代の担任や叔父、 母の思惑の影響で自分の現状と欲求に板挟みになっている時期(現在)

の3つの時系列に分け、一貫している箇所を見つけてそこから問題を明らかにしていこうとしているのです。それが下記に当たります。

◯『綴方に関して父親を除いたほぼ全ての人間が和子が雑誌で先生に大変褒められたことばかりを見ていたこと』
◯『和子自身は自分に文章を書 く才能がないと自覚していること』

 更に彼はこの2点を明記した上で、時系列を追って作品全体の変化を捉え、和子の問題を解こうとしています。
 ところが、O君の論証には致命的な点があるのです。それは、「『文章を書く才能がない』という頭の中の像と欲求として存在する『文章を書きたい』という頭の中の像が葛藤を起こしてしまいま す。」とあるように、和子は積極的に文章を書きたいという思いを強くしていったと考えているところにあります。どうやら彼は文中の、「小説でも、一心に勉強して、母親を喜ばせてあげたい」という一文を見てそう思ったようです。ところがこれは、書けるものなら書いてみたい、という感情の表れとして書かれているのではなく、寧ろ自分に文才がないことを自覚している故に書かれている「皮肉」に過ぎません。しかしどういう形にしろ、和子が途中から自分の意思で文章を書くようになっていったのは事実としてあります。では、それは何をきっかけにしてそうなっていったのでしょうか。ヒントは下記にあります。

柏木の叔父さんだけは、醒めるどころか、こんどは、いよいよ本気に和子を小説家にしようと決心した、とか真顔でおっしゃって、和子は結局は、小説家になる より他に仕様のない女なのだ、こんなに、へんに頭のいい子は、とても、ふつうのお嫁さんにはなれない、すべてをあきらめて、芸術の道に精進するより他は無いんだ等と、父の留守の時には、大声で私と母に言って聞かせるのでした。母も、さすがに、そんなにまで、ひどく言われると、いい気持がしないらしく、そうかねえ、それじゃ和子が可哀想じゃないか、と淋しそうに笑いながら言いました。
 叔父さんの言葉が、あたっていたのかも知れません。私はその翌年に女学校を卒業して、つまり、今は、その叔父さんの悪魔のような予言を、死ぬほど強く憎んでいながら、或いはそうかも知れぬと心の隅で、こっそり肯定しているところもあるのです。

 一体何故彼女は、叔父のこうした酷い言葉を強く否定しながらも、心の何処かでは肯定してしまったのでしょうか。それこそが、彼女が現在、自分の文章とどのような形で向き合っているのかの答えになっているはずです。

2014年10月23日木曜日

タナトスの使者ー安田隆一の場合


 肌を突き刺すような風がやわらぎ、桜の葉が優雅に空を舞う季節になった頃の事である。小鳥たちが生命の息吹を祝福し、人々が新しい生活に向けて清々しく太陽の下を歩いているにも拘らず、安田隆一だけはただ1人、薄暗い家の中で悶々としていた。彼は布団に潜り込み、自分はいつ死ねるのかという事ばかりを暗中模索しているのである。医者から癌という告発を受けて2度目の春になるが、彼の心中では既に遥か遠い昔の事のように思えた。それ程までに癌による痛みと苦痛は彼の心身を蝕んでいたのである。最早、生にすがる意欲を失い、死が甘美な囁きとなって彼を誘惑してくるのだ。いっそのこと手元にある薬を飲んで死んでしまおうとさえ考えた事もある。しかし、いざやろうと思っても妻の顔がちらつく。ただでさえ自身の看病で苦労をかけているのに、非常識な死に方をして最後まで困らせるような事は安田には到底出来なかった。
 何かうまい死に方はないものか。そうした事を考えていると、以前に自殺を専門に取り扱ってくれる団体に連絡をとったことをふと思い出した。誰から聞いたのかはもう忘れてしまった。が、そこに連絡すれば、死を望んでいる人間に対して、安らかな眠りをもたらしてくれるというのだ。はじめは安田自身、巷で下らない噂話が横行しているものだなという風にしか思っていなかったのである。しかし彼の死への羨望が徐々に膨らんでいくに連れて、そうした与太話を信じる気になっていった。ところが電話で連絡がとれ、死にたい旨を伝えたかと思えば、相手はそのまま受話器を切ってしまい、其の侭音沙汰はない。それから暫くの間、彼は自分の愚かさに羞恥した。が、電話が繋がった事は紛れもない事実として安田の脳裏に鮮明に焼き付いていた。もしかすると、という淡い思いは今でも彼の胸の内で燻っているのである。


 徒労とも思える思案に飽きてきた彼は、ふと虚ろな眼で窓をみた。辺りはすっかり暗くなり、月がぼんやりとした光を放っている。ここで彼はある異変に気がついた。窓からひんやりとした風が入ってきているのだ。普段であれば、妻が夕食を終えた後で閉めてくれるのだが、今日は忘れてしまったのかと安田は思った。しかし彼女が窓の傍に寄って閉めているところをしっかりとその目で見ていたことを思い出した。窓をじっと見ていると、更なる異変を感じる。開け放たれた窓の傍に、何者かが立っているのである。しかしこうした非常識な状況においても、生きることに興味を失った安田が冷静さを失うことはなかった。淡い月の光で何者なのかはよくわからない。が、どうやら長身の、恐らくその逞しい肩幅から察するに男である事はよく分かった。彼はゆっくりと無気力に尋ねる。
「誰だ、そこにいるは。」
 そう言うと男は一歩前へ出た。するとうまい具合に月の光が男を照らしだした。彼は女とも思える端正な顔立ちとツンと長い鼻をした青年である。
「申し遅れました、日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。」
 彼は事務的な口調と表情で話した。安田にはなんのことだかさっぱり分からない。そしてこうした怪訝そうな彼の表情を見て、来島と名乗る青年は続けた。
「以前に私たちの団体に電話をかけて下さいましたよね?」
 その刹那、安田の表情がはっとなった。薄暗く先の見えなかった心中に、一点の力強い光が差し込んでくれたような思いがした。彼は目に涙を溜めながら、眼前に現れた神からの使者を見つめた。
「やっと来てくれたか……。」
「ええ、お待たせして申し訳ありません。」
「構わん。で、いつ俺を殺してくれるのだ。」
 逸る気持ちを安田は抑えられなかった。しかしそうした彼とは対照的に、来島は落ち着き払っていた。
「そう慌てないで。まずは貴方を審査しないといけません。」
「何?審査だと!!」
 その言葉を聞いた瞬間、安田の表情は一気に曇った。何か人を小馬鹿にされたような心持ちになったのである。
「ええ、死は誰にでも与えられるものではありません。死を与えるに値する方と判断した場合のみ、処方して差し上げる事が出来るのです。」
 安田の表情はみるみる険しくなっていった。この若造はただ上からの使いでここにきたに過ぎず、自分の事などちっとも理解してくれていない。そう察したのである。
「お前には分からんかもしれんがなぁ、俺は待たされている間の数ヶ月、死にたくて死にたくて仕方がなったんだ!その上に審査だと!!」
 安田の剣幕には、今にも来島の胸ぐらを掴まんばかりのものがあった。しかしそうした勢いに対しても、彼は全く動じなかった。
「ええそうです。理解して頂けない場合、話はここで終わりです。」
「……むぅ。」
 こう言われてしまうと流石の安田も閉口せざるを得なかった。彼は口惜しげに唇を歪めていた。そうした安田を見かねて、来島は安田に問いはじめた。
「一体何故です。貴方は数年前から癌を患っているようですが、もう余命幾ばくとない命じゃないですか。何故私たちに拘るのですか。」
 すると安田の表情はみるみる苦しい者へと変わっていった。元来嘘がつけない安田としては、幾ら嫌悪を抱いている相手であっても表情を偽る事が出来ないのである。彼は俯き、頼りない声でボソッと呟いた。
「………妻だ。あいつにこれ以上迷惑をかけたくないんだよ。」
 その言葉には、安田とその妻奈保子との十数年の気まずい距離感がにじみ出ていた。


 もともと彼らは仲睦まじい夫婦であり、子宝にも恵まれた。名を隆之と言い、彼らは一人息子に溢れんばかりの愛情を注いだ。だが、隆之が小学校に入るか入らないかの年齢に達した頃、その日は強い雨風が吹いていた。妻が目を離した隙に外へ出ていき、川へと落ちてしまったのである。彼がいないことに気がついた妻は、すぐに出張中の夫に電話をした。ところが当時働き盛りであった安田は、出張を優先した。我が子を心配しない親などいるはずがない。しかし仕事に対する責任感が、彼を家には帰らせてはくれなかったのだ。その数日後、隆之は変わり果てた姿になって自分の家に帰ってきた。
 それ以来、夫婦の間には深い溝が出来てしまった。夫は滅多なことでは家によりつかなくなり、妻は妻でお茶の稽古や習字など習い事に専念するようになっていった。しかし、それでも妻は毎朝夫のポットに熱い緑茶を入れることを1日たりとも怠らなかった。家に帰ればいつでも手の込んだご飯が彼を待っていた。こうした彼女の気遣いは、かえって安田の心を痛めた。こうした気配りが、2人の間の歪を浮き彫りにされているような気がしてならなかったのである。
 ところが自分がいざ病気をすると、不思議と今度は妻との関係を何処かで取り戻せる気になってきた。安田は医者の引き止めるのを無視し、通院と入院を拒み、自宅療養を決めた。はじめはぎこちないながらも、妻に話しかけてみたり、彼女の体調を労ったりした。彼女のそれに応じて、慣れないような受け答えをしてみせた。
 だが、数十ヶ月前の事である。安田は自分の不注意で味噌汁のおわんを零してしまった。すかさず妻がそれを片付けている時、彼は見てはならぬものを見てしまったのである。妻の横顔を見た時、全身から冷や汗をかいた。まるで天国にも行けず地獄にも行けず、煉獄にずっと繋がれている亡者のような形相を浮かべていたのである。その顔を見た瞬間、今までの妻の笑みが偽りであったかのように思えた。今では自分が家にいることは妻をいたずらに疲れさせているだけのような気さえするのである。
 隆之が死んだあの日以来、安田は妻にとって邪魔なだけな存在になったことを確信したのである。


 安田は下を向いた儘、一向に来島の方を見ない。ただぼんやりと何処を見ているわけでもなく、空虚な考えに耽っているようにさえ見えた。そんな安田を見ていた来島は、一瞬冷たい視線で彼を見下し、唇に笑みを浮かべた。が、安田に悟られる前にすぐにもとに戻し、無表情の儘、矢張り事務的に話した。
「成る程、奥さんの負担を考えての上での判断という訳ですか。ですが審査はさせてもらいます。安心して下さい。近いうちに必ずきますよ、奥さんの為にも。」
 最後の言葉を聞いた瞬間、安田は漸く来島の方を哀願の表情で向き直した。来島は穏やかな笑みでそれに応じた。
「本当なのか、嘘じゃないだろうな?」
「ええ、近いうちにお会いしましょう。審査はすぐに終わりますよ。」
 そう述べると、来島は一歩下がり、出てきた窓を跨いで闇の中へと消えていった。残された安田は、まるで夢の中にでもいるような顔で、暫くその窓を眺めていた。


 来島が来て以来、何か変わった事があったかと言えば何もなく、安田家は太平を保ち、奈保子はいつものように夫の看病をし、その夫はいつものように看病を受けながら床についていた。
 ところが唯一、安田の内面だけはそれを許さなかったのである。彼の心はあの男が来てからというもの、嵐が吹き荒れたかのようになるかと思えば、快晴の空の如く、穏やかな時もあった。またある時は曇天の空模様のようにズンと沈む事もある。彼の中では来島が来たことによる安心感と、もし彼が自分と殺してくれなかったらという不安とが常に葛藤していたのだ。
 しかし自分にはそのような度胸がないという事を、後の彼は思い知ることになる。それは深夜に用を足しに行って自分の部屋へ帰ろうとしている時である。彼はふと奈保子の様子が気になった。普段であれば夜中に音を立てて妻を起こすことが申し訳ないように思い、さっさと自室へ戻るところではあるが、死期が近いかもしれぬ事を思うと今一度妻の寝顔を見たい気持ちになっていったのである。くるりと車椅子の向きを器用に変えて彼女の部屋へと向かった。
 部屋の前まで来ると、なんと襖の向こうに何やらぼんやりとした灯りがともっているではないか。彼は、妻は起きているのではないかと躊躇したが、こんな遅い時間にまさかという思いと、どうしても寝顔を見たいという思いが彼に襖を開けさせた。どうやら灯りの正体は蝋燭であり、彼女は何かに手を合わせているようであった。彼に気づく様子はない。更に目を凝らすと、どうやら観音様に祈っているようである。それは安田が昔旅先で買い、彼女にお土産としてあげたものだ。観音様は介護に疲れた哀れな妻を、慈悲の篭った眼で見つめているようであった。一方、その肝心の妻の表情であるが、蝋燭の火が小さくうまい具合に見えそうで見えない。しかしそ火が風によって揺れた時、安田はしっかりと我妻の顔を捉えた。またあの表情、味噌汁を零して片付けていた時と、同じような顔をしている。丹精で整っていた嘗ての顔は皺がすっかり多くなってしまい、精気に満ちた輝かしい瞳は光を失い、『蜘蛛の糸の先にある天上』※を見つめるかのようであった。
 それを見た安田は、心臓を射抜かれたような思いがした。妻に気づかれないように、襖を閉め、自室へと早々に戻っていく。「見るんじゃなかった。」という彼の気持ちは、電撃のように全身を駆け巡り、床についてからもおさまることはない。彼には最早、なんとしても死ぬ事以外に道は残されていない気がしてならなかった。


 来島が安田の前に再び姿を表したのは、安田が妻の部屋を除いた数日後のことである。月明かりの夜に再び登場した来島に対し、彼は哀願の表情で迎えた。
「来てくれたのか。」
「ええ、お約束でしたので。」
 その声は事務的ではあったが、表情はいつにも増して柔らかい印象を安田に与えた。
「では殺してくれるのだな?」
 逸る気持ちを最早抑えられなかった。しかしそうした安田を諭すように、来島は話した。
「その前に少し見ていただきたいものがあるのです。」
「見せたいもの?」
 安田が怪訝そうな顔を浮かべた。
「ええ、天国へゆくのはそれからでも遅くはありません。」
 少し躊躇はしたが、最後ぐらいこの男の言うことを聞いてやろうという気持ちになり、やや億劫ではあったが慣れた手つきでベッドから車椅子へと移った。

 来島が連れてきたところは、妻、奈保子の城である台所である。彼は一体何を見せようというのか。安田には不思議でならなかった。すると、そうした彼の様子を察したのか、来島が静かに口を開いた。
「机の上に数冊のノートがあるでしょう。是非中を覗いてみて下さい。」
 元来真面目な安田である。自分の妻とは言えど他人のノートを開く事に罪悪感を覚えずにはいられい。彼は来島の顔を見た。彼は自信たっぷりの様子で頷く。どうやら彼が見せたかったものというのはこれで間違いないらしい。安田は恐る恐る妻のノートを開いてみた。どうやら料理のレシピのようである。そうかと思えば、次の頁を開いてみると、癌に関する新聞の切り抜きが貼ってあった。
「これは一体……。」
 安田は不安げな表情を見せた。来島は柱に持たれ、腕を組みながら事務的に話す。しかしそれは何処か安田を責める風でもあった。
「貴方はどうやら、奥さんに苦労をかけたくなくて死にたいと仰っていたようですが、奥さんは果たしてそうだったのでしょうか。身を粉にしてでも貴方に生きて欲しいと思ったからこそ、そこまでしているのでは?」
 静かな言葉がかえって安田の心臓を鋭く貫いた。
(そうだ、そうであった。あの時の言葉を何故今更思い出すのか。)

ー私を1人にしないでね。ー

 それは隆之を亡くして葬儀を終えた後、ボソリと奈保子が口にした一言であった。当時、父親としての責任を果たせなかったという自身の思いを強く受け止めていた安田は、妻との離婚すら考えていたのである。しかしこの奈保子の一言によってそれは避けられた。
 そして今の今になってその一言が彼に重くのしかかった。一筋の涙が彼の頬を伝った。そしてそうした彼の表情を来島は盗み見るようにして捉えていた。
「さて、それでも貴方が死にたいと仰るのでしたら、いつでも迎えを用意しますよ。」
 彼はそう言うとくるりと向き直し、もときた道を戻りはじめた。その途中、あの不気味な、はじめて安田と会った時に見せた笑みを浮かべながら、ボソリと誰にも聞こえないような声で呟いた。
「これだから人間は……。」


 次の春。安田はこの世での生を全うした。彼は妻によく話し、よく笑った。妻もそれに応えるように話し笑った。また葬儀での彼の写真は、なんの未練も感じられぬほど満面の笑みを浮かべてあった。


※芥川龍之介ー『蜘蛛の糸』の引用。

2014年10月22日水曜日

鬼ー織田作之助

 著者の知り合いである「辻十吉」という男は、世間から卑しい金好きとして見られており、「あの男は十(じゅう)に辶(しんにゅう)をかけたような男だ」と極言されていました。
 ところがそれは世間の風評だけで、実際のところ、経済観念に非常に疎く年中物語の事を考えている、俗にいう「仕事人間」だったのです。それは、身内が危篤でも親戚だけにお家周りをさせて自分は仕事を優先させたり、小切手の受け取るにいく事を面倒くさがり無効になるまで放置したり、旧円を新円に変える事を億劫に思ったりと、すさまじいのでした。
 しかし、いざ小説の世界の話となると、登場人物の経済状況を事細かに設定する事が出来ます。一体何故辻は現実の世界でそれをやらず、物語の世界ではそれを積極的にやる事が出来るのでしょうか。

 この作品では、〈小説を書いてお金を稼ごうとするが故に、かえって経済観念を失っていった、ある男〉が描かれています。

 この作品の面白さは無論、現実の世界では経済観念を発揮できない辻が、何故創作の世界だと金銭の勘定を細かく設定できるのだ、というところにあります。
 それを探る為に、まずは彼の創作活動が彼の生活とどのように関連しているのかを整理してみましょう。そもそも辻は、自身の生活を支える為、小説を書き、それを新聞社やラジオ局に寄越していました。つまり生活の面から見れば、彼は生計をたてる為に小説をかいているのです。
 ですが彼のいけないところは、その創作活動に熱中するあまりに、目的が消失してしまっているというところにあります。これはギャンブルにのめり込んでいる人達と似通っているところがあるのです。彼らも本来であるならば、少なからず自分の生活を豊かにしようという気持ちから、賭け事に興じている側面があります。ところが賭け事そのものの魅力にどっぷりと嵌り込み、かえって生活そのものが破綻するケースだって少なくはありません。
 そして辻もまた、自身の創作活動が直接的に彼自身の経済を支えているが故に、書かなければならないのは事実としてあります。ですが恐らく、仕事を熱心にすればする程、創作の事以外考えられなくなっていき、結果として、生活に支障が出てきてしまったのです。

※注釈
−――十人家族で、百円の現金もなくて、一家自殺をしようとしているところへ、千円分の証紙が廻ってくる。貼る金がないから、売るわけだね。百円紙幣の証紙 なら三十円の旧券で買う奴もあるだろう。(中略)普通十人家族で千二百円引き出せる勘 定だが、千円と前の三百円、合わせて千三百円、一家自殺を図った家庭が普通一般の家庭と変らぬことになる――」

2014年10月1日水曜日

タナトスの使者ー安田隆一の場合(上)


 肌を突き刺すような風がやわらぎ、桜の葉が優雅に空を舞う季節になった頃の事である。小鳥たちが生命の息吹を祝福し、人々が新しい生活に向けて清々しく太陽の下を歩いているにも拘らず、安田隆一だけはただ1人、薄暗い家の中で悶々としていた。彼は布団に潜り込み、自分はいつ死ねるのかという事ばかりを暗中模索しているのである。医者から癌という告発を受けて2度目の春になるが、彼の心中では既に遥か遠い昔の事のように思えた。それ程までに癌による痛みと苦痛は彼の心身を蝕んでいたのである。最早、生にすがる意欲を失い、死が甘美な囁きとなって彼を誘惑してくるのだ。いっそのこと手元にある薬を飲んで死んでしまおうとさえ考えた事もある。しかし、いざやろうと思っても妻の顔がちらつく。ただでさえ自身の看病で苦労をかけているのに、非常識な死に方をして最後まで困らせるような事は安田には到底出来なかった。
 何かうまい死に方はないものか。そうした事を考えていると、以前に自殺を専門に取り扱ってくれる団体に連絡をとったことをふと思い出した。誰から聞いたのかはもう忘れてしまった。が、そこに連絡すれば、死を望んでいる人間に対して、安らかな眠りをもたらしてくれるというのだ。はじめは安田自身、巷で下らない噂話が横行しているものだなという風にしか思っていなかったのである。しかし彼の死への羨望が徐々に膨らんでいくに連れて、そうした与太話を信じる気になっていった。ところが電話で連絡がとれ、死にたい旨を伝えたかと思えば、相手はそのまま受話器を切ってしまい、其の侭音沙汰はない。それから暫くの間、彼は自分の愚かさに羞恥した。が、電話が繋がった事は紛れもない事実として安田の脳裏に鮮明に焼き付いていた。もしかすると、という淡い思いは今でも彼の胸の内で燻っているのである。


 徒労とも思える思案に飽きてきた彼は、ふと虚ろな眼で窓をみた。辺りはすっかり暗くなり、月がぼんやりとした光を放っている。ここで彼はある異変に気がついた。窓からひんやりとした風が入ってきているのだ。普段であれば、妻が夕食を終えた後で閉めてくれるのだが、今日は忘れてしまったのかと安田は思った。しかし彼女が窓の傍に寄って閉めているところをしっかりとその目で見ていたことを思い出した。窓をじっと見ていると、更なる異変を感じる。開け放たれた窓の傍に、何者かが立っているのである。しかしこうした非常識な状況においても、生きることに興味を失った安田が冷静さを失うことはなかった。淡い月の光で何者なのかはよくわからない。が、どうやら長身の、恐らくその逞しい肩幅から察するに男である事はよく分かった。彼はゆっくりと無気力に尋ねる。
「誰だ、そこにいるは。」
 そう言うと男は一歩前へ出た。するとうまい具合に月の光が男を照らしだした。彼は女とも思える端正な顔立ちとツンと長い鼻をした青年である。
「申し遅れました、日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。」
 彼は事務的な口調と表情で話した。安田にはなんのことだかさっぱり分からない。そしてこうした怪訝そうな彼の表情を見て、来島と名乗る青年は続けた。
「以前に私たちの団体に電話をかけて下さいましたよね?」
 その刹那、安田の表情がはっとなった。薄暗く先の見えなかった心中に、一点の力強い光が差し込んでくれたような思いがした。彼は目に涙を溜めながら、眼前に現れた神からの使者を見つめた。
「やっと来てくれたか……。」
「ええ、お待たせして申し訳ありません。」
「構わん。で、いつ俺を殺してくれるのだ。」
 逸る気持ちを安田は抑えられなかった。しかしそうした彼とは対照的に、来島は落ち着き払っていた。
「そう慌てないで。まずは貴方を審査しないといけません。」
「何?審査だと!!」
 その言葉を聞いた瞬間、安田の表情は一気に曇った。何か人を小馬鹿にされたような心持ちになったのである。
「ええ、死は誰にでも与えられるものではありません。死を与えるに値する方と判断した場合のみ、処方して差し上げる事が出来るのです。」
 安田の表情はみるみる険しくなっていった。この若造はただ上からの使いでここにきたに過ぎず、自分の事などちっとも理解してくれていない。そう察したのである。
「お前には分からんかもしれんがなぁ、俺は待たされている間の数ヶ月、死にたくて死にたくて仕方がなったんだ!その上に審査だと!!」
 安田の剣幕には、今にも来島の胸ぐらを掴まんばかりのものがあった。しかしそうした勢いに対しても、彼は全く動じなかった。
「ええそうです。理解して頂けない場合、話はここで終わりです。」
「……むぅ。」
 こう言われてしまうと流石の安田も閉口せざるを得なかった。彼は口惜しげに唇を歪めていた。そうした安田を見かねて、来島は安田に問いはじめた。
「一体何故です。貴方は数年前から癌を患っているようですが、もう余命幾ばくとない命じゃないですか。何故私たちに拘るのですか。」
 すると安田の表情はみるみる苦しい者へと変わっていった。元来嘘がつけない安田としては、幾ら嫌悪を抱いている相手であっても表情を偽る事が出来ないのである。彼は俯き、頼りない声でボソッと呟いた。
「………妻だ。あいつにこれ以上迷惑をかけたくないんだよ。」
 その言葉には、安田とその妻奈保子との十数年の気まずい距離感がにじみ出ていた。


 もともと彼らは仲睦まじい夫婦であり、子宝にも恵まれた。名を隆之と言い、彼らは一人息子に溢れんばかりの愛情を注いだ。だが、隆之が小学校に入るか入らないかの年齢に達した頃、その日は強い雨風が吹いていた。妻が目を離した隙に外へ出ていき、川へと落ちてしまったのである。彼がいないことに気がついた妻は、すぐに出張中の夫に電話をした。ところが当時働き盛りであった安田は、出張を優先した。我が子を心配しない親などいるはずがない。しかし仕事に対する責任感が、彼を家には帰らせてはくれなかったのだ。その数日後、隆之は変わり果てた姿になって自分の家に帰ってきた。
 それ以来、夫婦の間には深い溝が出来てしまった。夫は滅多なことでは家によりつかなくなり、妻は妻でお茶の稽古や習字など習い事に専念するようになっていった。しかし、それでも妻は毎朝夫のポットに熱い緑茶を入れることを1日たりとも怠らなかった。家に帰ればいつでも手の込んだご飯が彼を待っていた。こうした彼女の気遣いは、かえって安田の心を痛めた。こうした気配りが、2人の間の歪を浮き彫りにされているような気がしてならなかったのである。
 ところが自分がいざ病気をすると、不思議と今度は妻との関係を何処かで取り戻せる気になってきた。安田は医者の引き止めるのを無視し、通院と入院を拒み、自宅療養を決めた。はじめはぎこちないながらも、妻に話しかけてみたり、彼女の体調を労ったりした。彼女のそれに応じて、慣れないような受け答えをしてみせた。
 だが、数十ヶ月前の事である。安田は自分の不注意で味噌汁のおわんを零してしまった。すかさず妻がそれを片付けている時、彼は見てはならぬものを見てしまったのである。妻の横顔を見た時、全身から冷や汗をかいた。まるで天国にも行けず地獄にも行けず、煉獄にずっと繋がれている亡者のような形相を浮かべていたのである。その顔を見た瞬間、今までの妻の笑みが偽りであったかのように思えた。今では自分が家にいることは妻をいたずらに疲れさせているだけのような気さえするのである。
 隆之が死んだあの日以来、安田は妻にとって邪魔なだけな存在になったことを確信したのである。


 安田は下を向いた儘、一向に来島の方を見ない。ただぼんやりと何処を見ているわけでもなく、空虚な考えに耽っているようにさえ見えた。そんな安田を見ていた来島は、一瞬冷たい視線で彼を見下し、唇に笑みを浮かべた。が、安田に悟られる前にすぐにもとに戻し、無表情の儘、矢張り事務的に話した。
「成る程、奥さんの負担を考えての上での判断という訳ですか。ですが審査はさせてもらいます。安心して下さい。近いうちに必ずきますよ、奥さんの為にも。」
 最後の言葉を聞いた瞬間、安田は漸く来島の方を哀願の表情で向き直した。来島は穏やかな笑みでそれに応じた。
「本当なのか、嘘じゃないだろうな?」
「ええ、近いうちにお会いしましょう。審査はすぐに終わりますよ。」
 そう述べると、来島は一歩下がり、出てきた窓を跨いで闇の中へと消えていった。残された安田は、まるで夢の中にでもいるような顔で、暫くその窓を眺めていた。