2015年1月30日金曜日

唖娘スバーーラビンドラナート・タゴール(宮本百合子訳)

 スバーという娘は3人娘の末娘で、言葉が話せません。ですから人々は彼女に感情がないかのように考えており、平気で彼女の前で平気で先の行く末の話や彼女自身の論評をします。そして、彼女の母親もその例外ではなく、自分の身体についた汚点(しみ)のようにすら思っていました。
 しかし彼女は口が聞けない代わりに、整えられた容姿が与えられ、そしてその目にはあらゆる人の気持と、スバー自身の存在を語るかのような説得力を持っていました。それ故、他の子供達は誰も彼女と遊びはしません。
 またスバーの父は彼女を大切に思っているものの、親としての責任を果たすという理由から、彼女を他所の家に嫁がせようとしました。
 そして友人のプラクタは彼女がそれを嫌がっていたにも拘わらず、良きことだと考え祝福したのです。
 更に、彼女の婿はスバーが不具の者である事を知ると、次はものの云える妻と結婚したのでした。

 この作品では、〈唖故に、誰からもその気持を蔑ろにされ続けてきた、ある娘が描〉かれています。

 結局スバーの事を悪く思う人、スバーの事を良く思う人の両方共から、彼女は彼女自身の気持ちを理解される事はありませんでした。
 ですが、そのどちらからも理解されなかったからと言って、彼女自身の気持ちがなくなる訳ではありません。それは普段、自分をも含めて、自分が寝ている間に鼾を聞かれていない人がいるからと云って、鼾が存在しなかったことにならない事と同じです。彼女自身が傷ついた事実は確かに彼女の中に残ります。また、こうした文字に起こすことによって、そうした今にも消えかかりそうな人の気ち持があった事実は、私たちの胸を深く貫く事でしょう。やがて物語のように、声にならない声、あるかないか分からないような人の気持ちの存在が、自分たちの身の回りにも溢れているのではないか、という思いに駆られてくる人は少なからずいるのではないでしょうか。
 そして、そうした人々に知られていない感情の存在を描くことも、物語や小説のひとつの重大なテーマなのです。

2015年1月28日水曜日

カイロ団長ー宮沢賢治

 30疋の「あまがえる」達は他の虫達から仕事を頼まれ楽しくこなしていました。
 ある時、ウイスキイを飲ませてくれる「とのさまがえる」のお店に立ち寄ったところ、ガブガブと呑んでしまい、高額な料金を請求される羽目になってしまいます。そして「とのさまがえる」から、警察に突出されたくなければ家来になれ、と言われたのでしぶしぶ言うことを聞くことにしました。
 こうして彼らは「とのさまがえる」の「カイロ団長」率いるカイロ団に加わったのです。その後の「あまがえる」達の労働は過酷なもので、「とのさまがえる」から無理難題を押し付けられていきます。ですが「あまがえる」達は警察に突出されたくない一心で、懸命に云うことを聞こうとしました。
 ところがある時、石を1人900貫ずつ運んでこいと言われたのですが、人間でも持てない石の重さに、彼らは困り果ててしまったのです。
 ちょうどその時、かたつむりのメガホーンが周りに響き、王様の伝令が言い渡されました。要約すると、人に仕事を依頼する時にはその人の気持ちにならなければならず、依頼する前には実際に自分でもそれをやってみなければならない、というようなものだったのです。これを聞いた「あまがえる」達は早速、「とのさまがえる」に自分たちの仕事をさせてみました。「とのさまがえる」は石を動かそうとはしますがビクともせず、しまいには足がキクっと曲がってしまいます。その姿に「あまがえる」達は思わずどっと笑いましたが、後でなんとも云えない寂しい気持ちになっていきました。そんな時、再び王様の伝令が彼らの耳に聞こえます。
「王様の新らしいご命令。王様の新らしいご命令。すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん。以上。」
 そこで「あまがえる」達は「とのさまがえる」を助けて、「とのさまがえる」はホロホロ涙を流し反省しはじめました。彼はこれまでの事を詫びて仕立屋をやることを公言し、次の日から「あまがえる」達は再び楽しく仕事をはじめたのです。

 この作品では、〈支配者と非支配者の形勢が逆転した時にこそ、その人の人格が問われる〉ということが描かれています。

 支配者たる「とのさまがえる」が「あまがえる」達を支配し、云うことを聞かせていたにも拘わらず、王様の伝令が下ると、これが「あまがえる」達にとって有利に働き、多くの読者は痛快な気分になることでしょう。まさに「とのさまがえる」は自業自得な目に遭い、「あまがえる」達もどっと笑うのですが、彼らはここで寂しい気持ちになっていきます。と云いますのも、彼らは自分たちの立場を一歩引いたところから考えたのです。そしてその前後はどうであれ、大勢で立場が弱くなった「とのさまがえる」を働かせて笑いものにしているとはどういうことか、という生き物(人間)としての倫理観が働いていったのでした。
 その彼らの姿に、多くの読者は少なからず、「しまった」と思うことでしょう。「カチカチ山」や「桃太郎」のような昔話を呼んだ時、私達は鬼や猿が復讐される様を見て痛快に思った方も少なくはないはずです。またもっと身近な例で言えば、子供の頃、いじめっ子が別の、上級生のいじめっ子に苛められている様などは、自分が苛められておらずとも胸がスッとなるような思いがしたという方もいるかもしれません。
 そしてそういう方たちにこそ、こうした「あまがえる」の感情は胸を打つ事でしょう。酷いことをやっていた人が酷い目に合う姿や、誰かの復讐にあう様は面白いかも知れませんが、それはただ自分の感情が満たされているに過ぎないのです。そしてこうした観点から見た時には、両者は同じレベルでしかなく、尚更寂しい思いがする事でしょう。
 だからそこ物語の「あまがえる」達は、王様の最後のひと押しもあって、自分の感情を満たす為ではなく、生き物としてより良い解決の方法を模索しようとしたからこそ、「とのさまがえる」を助けたのです。

2015年1月25日日曜日

怒りの虫ー豊島与志雄

 「木山宇平」という男は、元来温厚な性格をしていましたが、それが自分の身体の不調を感じはじめた頃から一変し、癇癪持ちになってしまいました。やれ服にハンカチが入っていないだとか、やれ擦り切れた袖を気にするような男は気に食わないだとか、些細な事で怒りを露わにしていきます。
 この木山の変貌ぶりを見て、人々は「怒りの虫」に蝕まれているのだと云うのです。そしてそんな彼はと云いますと、自分の肉体の変化については原因も特定せぬ儘に、「肝臓がわるいのだ」と決め打ちをして一向に医者にかかろうとはしません。それどころか、肝臓が悪いと云っているにも拘わらず、なんとぐいぐいと酒を呑んでいるではありませんか。一体木山は身体の不調を感じているにも拘わらず、何故酒を呑むのでしょうか。何故こうも怒りっぽくなっていったのでしょうか。

 この作品では、〈原因不明の不調からくる不安を肝臓のせいにすることで、かえってより不安になっていった、ある男〉が描かれています。

 どうやら木山は自分の正体不明の不調について、肝臓のせいにする事で自分の不安を和らげようという腹があるようです。それは下記の箇所を見ても明らかです。

近頃彼は身体の違和を自覚しだしていた。殆んど毎夜のように寝汗をかいた。睡眠は浅く、熟睡の気持を味ったことがなかった。(中略)肝臓にでも異変があるのかも知れないぞ。こんな肉体はもうたく さんだ。

 ところがそうは思っているものの、彼は一向にお酒をやめようとはしません。それどころか、その勢いは衰えるところを知らないようです。
 と云いますのも、木山は幾ら肝臓のせいだと決め打ちしたところで、それらしい証拠や確証はありません。それどころか、「しかしもし自分の思い違いだったら……」と、かえって自分自身が不安になる材料を余計につくっているのです。ですから彼はお酒をぐいぐいと呑む事で、「ほらやっぱりな」という、彼なりの落とし所をつくろうとしているのでしょう。
 具体的に礼を持ち出すとするならば、下記のようなことになります。私達が試験勉強で勤しんでおり、幾ら勉強しても到底合格出来そうにない時、人によっては「どうせ勉強したところで不合格だろう」と、はじめから勉強しない者もいることでしょう。彼らはそうして、受からない要因を自らつくることで試験に落ちた時、「やっぱりな」という安心感を得るためにそうしているのです。
 そしてこの木山にも同じことが云えます。彼は肝臓を自ら刺激することで、身体の不調の要因を自らつくっているのです。
 しかし幾ら呑んでも呑んでも、彼の後ろ向きな努力とは裏腹に、その成果が出ることはなく、病気は悪化するばかり。だからこそ彼は気持ちが落ち着かず、焦り、やがて苛立ちとなっていき八つ当たりをする羽目になっていったのです。
 ですが、物語の終盤ではいよいよ痛みが深刻になったと見え、自分の身体と向き合う決意をしていきます。そしてその決意をした直後、彼はこの世を去っていったのです。

2015年1月23日金曜日

四季とその折々ー黒島伝治

 著者はここ2、3年のうちに、小豆島の四季の行事を徐々に楽しめるようになってきたのだといいます。と言いますのも、著者はそれまで山の小さい桐の木を誰かが一本伐ったぐらいで大問題にしたり、霜月の大師詣りを、大切な行かねばならぬことのようにして詣る様子を冷ややかな目で観察していたのです。しかしそれらは自身が年を重ねていくうちに、その楽しさ、重要性が分かってきたと言います。一体それはどのようなものなのでしょうか。

 この作品では、〈人は生活経験を重ねていくにつれて、自然の変化を大切にするようになっていくものである〉ということが描かれています。

 著者は若かりし頃、村の老人たちが桐の木を伐られて目くじらを立てたり、初詣に毎年熱心に通ったりする様を見て、「まるで子供のように」と非難していました。これにはあたかも子どもがおもちゃを取り上げられて憤慨したり、遊園地に連れて行かれ喜ぶ様に似ていた為に、こうした表現を用いたのでしょう。
 ですが彼らが村の木や行事にここまで自身の感情を揺さぶられるのは、そうした事とは似て非なるものでした。それは下記の箇所を見れば理解できることでしょう。

彼等は、樹が育って大きくなって行くのをたのしみとして見ているのである。麦播きがすむと、彼等はこんどは、枯野を歩いて寺や庵をめぐり、小春日和の一日をそれで過すのをたのしみとしているのだ。

 若いうちは受験や仕事、結婚や出産といったように、毎年毎年目まぐるしい変化や刺激が待ち構えており、とてもではありませんが、自然の変化に目を向ける暇もありません。それに何より、それらを捉える経験も視点も持ちあわせていないのです。
 しかし、その後は生活も落ち着き、毎日の変化は徐々に減っていき暮らしが平坦なものになっていくにつれて、人々は何処か生活における「張り」のようなものを年を重ねる事に失っていくことでしょう。
 ところがある時ふと自分の周りと見てみると、「自分たちが子どもの頃には、あれ程小さかった松の木が今では自分の身長を超える程立派に育っていった」、「昨年はこの川にはホタルが少なかったが、今年はやや増えている」などというように、長年のなんとなくの定点観測の末に、自然に興味を持ち、小さな変化にも気づけるようになっていくのです。
 ですから、村の老人たちが自然や行事に目くじらを立てるのは、自分たちが大切にしている事以上に、それらが自分たちと共に生きてきた歴史を指し示すものであり、人生の変化を指し示す指標だからに他ならないのです。彼らは毎年の季節や自然に触れることで、現在の自分の位置を確認し、その変化の足あとを楽しんでいたのでした。

2015年1月22日木曜日

襟ーオシップ・ディモフ(森鴎外訳)

※今回はあらすじのみの公開とさせて頂きます。

 ロシア人である「おれ」は自国を離れベルリンに来ており、新しい襟を買ったことをきっかけに、古い襟をホテルの窓から捨ててしまいます。ですが街の掃除人の妻に拾われて、それをホテルの門番に届けられてしまいます。また門番は彼を公爵だと勘違いしているようでもありました。
 しかし襟を捨てたい「おれ」としては、忘れ物として、わざと電車の中に置き忘れていきます。ですが、これも肥満の男が襟を持って走ってきて、丁寧に渡してくれたのです。また男は名刺を出して、彼に握手を求めていました。
 こうして、「おれ」は幾度か襟を捨てることに挑戦しますが、何度もベルリンの人々に拾われる羽目になるのです。またその度に人々は彼の事を公爵だと勘違いしているようなのでした。そして襟を捨てられず気が動転した「おれ」は、電車から襟を持ってきてくれた肥満の男とばったり会った事をきっかけに彼をナイフで刺してしまいます。
 こうして「おれ」は裁判にかけられたわけなのですが、彼が正直に自分の心情を話しても裁判官には伝わらず、「誰でも貴方の襟が落ちていたのであれば、拾うはずだ」と言われ、理解されるどころか裁判を嘲弄しているとみなされてしまいました。
 そして「おれ」の死刑は確定したのです。死刑が決まった彼は、「おれはヨオロッパのために死ぬる。ヨオロッパの平和のために死ぬる。国家の行政のために死ぬる。文化のために死ぬる。」と言って、自らの死を受け入れていくのでした。

あいびきーイワン・ツルゲーネフ

 夏の気配を残しながらも、秋が今にも深まっていこうとしている頃、「自分」は白樺林の自然を堪能しているとウトウトと眠りはじめてしまいます。
 やがて目が覚めると、近くに農夫の娘らしき人物が近くに座っていました。ですが、向こうは「自分」には気がついておらず、何やら不安な面持ちで誰かを待っている様子。すると茂みの方から、「ヴィクトル」と呼ばれる男がやってきます。どうやら話を聞く限り良い家柄の出身で、彼から「アクーリナ」と呼ばれている農家の娘は、彼を待っていたようなのです。ところが彼らは恋仲のようなのですが、「ヴィクトル」は明日この地を離れるのだと言います。そしてそれを聞いた「アクーリナ」は目に涙を溜めていきます。しかしそうした彼女とは対照的に、「ヴィクトル」は冷たく、彼女の行動に明らかな嫌悪感を感じていました。やがて「アクーリナ」に見かねた彼は、彼女の制止もきかず、その場を立ち去ってしまいます。
 その様子を文字通り、草葉の陰から見ていた「自分」は、見るに見かねて「アクーリナ」近づこうしました。ですが彼の存在に気がついた彼女は、慌ててその場を立ち去り、後には彼女が持っていた草花の束ねだけが残ったのです。そこで「自分」はそれを持ち帰り、現在でもからびたまま秘蔵してあるのだといいます。

 この作品では、〈決して接点を持つことのなかった2人のうち片方が、鑑賞者としての視点を持ったが故に、その存在を認めていった〉ことが描かれています。

 この作品の面白みは、何も知らない「自分」が、農家の娘と上品な生まれの青年との「あいびき」の一場面を、まるでスクリーンのない映画でも鑑賞するかのように見守っているというところにあります。そして彼と2人の間には、接点が全くなく、「自分」から見れば2人は物語の登場人物なのであり、「自分」はただの鑑賞者にしか過ぎません。
 ですがこの場合と映画との違いは、幾ら鑑賞者とは言えでも、その気になれば舞台に上がれるということなのです。そして「自分」はそれをやってのけます。と言いますのも、「ヴィクトル」にあまりにも邪険にされ過ぎていた為、「アクーリナ」が不憫になり、何かしたい思いに駆られていったのです。
 しかし当の本人たちからすれば、当然「自分」という存在は全くなんの関係も縁のない存在であり、ただの他人と対面した「アクーリナ」は慌ててその場を去ってしまいます。
 ですがそこに残された草花の束ねは、確かに「アクーリナ」という娘が確かにそこにいた事を示す何よりの証拠であると同時に、「自分」と彼女とが、これからの人生で交わる事がないであろう2人が僅かながらの接点を持ち得た唯一のものでもあるのです。ですから彼は、花束をその場から持ち帰る気になったのでした。
 よって自分は鑑賞者としての視点を持っていた為に、本や映画の登場人物を見るかのように、一方的に「アクーリナ」へ感情移入しその思いをいつまでも大切にしていったのです。

2015年1月21日水曜日

砂糖泥棒ー黒島伝治

 与助は自分の子どもや妻を喜ばせたいという思いから、醤油屋の主人の砂糖倉からザラメ砂糖を盗んでしまいます。そしてその姿は主人の目にしっかりと見られており、早速主人は杜氏(職工長のような役職)に彼を暇に出すようにと命じました。
 その際主人は、与助に貯金させておいた、40円について考えを廻らていきます。と言いますのも、主人の家では労働者には毎月5円ずつ貯金をさせて預かっていたのです。そして主人は、与助が不義を働いた事をきっかけに、そのお金を自分のものにしようと企てていきます。
 その後杜氏は言われた通り、与助を呼び出し暇を出す旨を彼に告げました。しかし与助も与助で、貯金の40円の事が気になる様子で、杜氏から主人にお金はどうなるのか聞いて欲しいと言ってきました。ところが不正、不穏の行為を行った者に貯金はやれぬという理由から、没収される事になったのです。杜氏はこうして、些細な出来事から貯金を没収される様子を5,6度見てきました。そしてふとある不安を覚えます。彼もいつかは与助のような立場になるのではないのか、と考えたのです。ですがすぐに馬鹿馬鹿しいと忘れていきました。
 結局、与助は貯金を貰えない儘解雇され、2、3日後、若い労働者達が小麦俵を積み換えていると、俵の間から帆前垂にくるんだザラメが出てきました。与作の隠したザラメです。彼らは笑いながらその砂糖を分けてなめました。そして杜氏もその相伴にあずかり、汚れた前掛けは洗濯し、自ら身に付けることにしたのでした。

 この作品では、〈砂糖泥棒に暇を出す立場にありながらも、自身にもその兆しを見せる、ある杜氏の姿〉が描かれています。

 自分の家族のためとは言え泥棒を働いた与作は其の侭解雇され職を失い、お金にがめつい主人は彼に暇を与え、狡猾な杜氏は漁夫の利を得るという、一見するとなんとも平坦な作品に見えるかもしれません。ですが下記の箇所に注目して読むと、こうした事が与助を直接裁いた杜氏自身にも振りかかる予兆があることに気が付きます。

 杜氏は、こういう風にして、一寸した疵を 突きとめられ、二三年分の貯金を不有にして出て行った者を既に五六人も見ていた。そして、十三年も勤続している彼の身の上にもやがてこういうことがやって 来るのではないかと、一寸馬鹿らしい気がした。

 彼は自分が与助に暇を与えようという話をしている中で、ちらりとそうして誰かに解雇される自分の姿を彼を通して見てしまったのです。しかしすぐにもみ消して自分の役目に集中していくわけなのですが、物語の終盤で、杜氏にもそうした出来事が未来に十分起こり得る事が見て取れるでしょう。
 そもそも与助は主人の倉から勝手に砂糖を持ちだしたところを抜け目ない主人に見られたからこそ解雇されました。そして、杜氏は与助が解雇された後、たまたま若い労働者が見つけたザラメを分けてもらい、前掛けを自分のものにしていますが、その経緯は兎も角、与助と同じ行為をしています。
 これら2点から、杜氏の未来にも近い将来において暇を出される事が示唆されているのです。本人は上手く2人を出し抜いたつもりでしょうが、条件が整っているだけに、読者としては彼の未来を暗い気持ちで冷静に見つめずにはいられない事でしょう。

2015年1月17日土曜日

罪と覚悟ーオー・ヘンリー

 金庫破りである「ジミィ・ヴァレンタイン」は、4年の刑期を終えて再び娑婆に出てきたのですが、再び同じ過ちを犯してしまいます。
 しかし銀行のオーナーの娘である「アナベル・アダムス」嬢との出会いをきっかけに、彼は金庫破りとしての人生を捨てて、靴屋として真面目に働き、商売は繁盛、友人も多くつくり、やがては彼女との婚約まで果たしました。
 ところが事件はそんな幸せの最中に起こってしまいます。ある時、アダムス氏自慢の金庫室で遊んでいた2人の子供が遊んでいると、悪戯心でそのうちの1人である「アガサ」がその中に閉じ込められてしまったのです。金庫を開けるには特殊な技術者の手が必要で、呼びに行っている間に、アガサは金庫室の酸素が足りなくなり窒息することは目に見えていました。
 ですが1人だけ群衆の中にこの金庫を開けられる者がいたのです。ジミィでした。ところがジミィが金庫を開けることは、自分が金庫破りであった事を何も知らない街の人々に知られる危険性も伴っています。ですがそんなことには構いもせず、すぐさま金庫破りの時に使う、愛用のドリルで穴を開け、アサガを救ってみせました。
 そこに運の悪いことに、彼を長年追いかけていた刑事である「ベン」がやってきて彼に声をかけました。ジミィはたじろぐこともなく、「やぁ、ベン。ついにやってきたか。それじゃあ、行こう。何を今さら、って感じになるのは否めないけど。」と、自ら潔く連行されようとします。ところがベンは、
「何か誤解していらっしゃいませんか、スペンサーさん。わたしには、あなたが誰だったか、さっぱり。そうそう、馬車がずっとあなたのことをお待ちですよ。」
と言って、ゆっくりと通りの無効へ歩いていったのでした。

 この作品では、〈金庫破りだったという過去を大衆の前で認めたが故に、かえって自分をこれまで追っていた刑事を説得させた、ある男〉が描かれています。

 ベンはこれまでジミィ絡みと思われる事件を数多く調査しており、刑期を終えて行った犯行もすぐに見破ってしまいました。そんな彼は、一体何故これまで血眼になって追ってきた金庫破りをみすみす逃す気になったのでしょうか。
 それはジミィが自らの過去から逃れず、寧ろしっかりと対面して子どもを助けようとしたからに他なりません。ここでもしジミィが自身の保身に固執し、アガサを助けようとしなければ、彼は獄中に逆戻り、婚約も間違いなく破棄されていた事でしょう。そうではなく、自らの未来をも考えず、アサガを助けたからこそ、ベンは長年追いかけてきた金庫破りを逃し、馬車で送ることで彼の未来を祝福したのです。

氷点(上)ー三浦綾子p85・5

◯啓造は、人の心がいつも論理に従って動くもののように考えているらしかった。
ルリ子が死ぬ直接死の原因をつくったのは、夏枝と村井が不貞をはたらこうとしたからである。そしてこの場面では、それを知っている啓造が村井が病気になり洞爺で療養している事を、何も知らない自分の妻に告げてその反応を見ようとしているのだ。ところが夏枝は村井の話題には全く触れず、突然、
「あの、わたくし、女の子が欲しいと思っていましたの」
と突拍子もない事を言い出したのである。これが啓造には理解できなかった。彼は自分が現在村井の事を話しているのであり、村井と女の子が欲しいという妻の願いをどうにか結びつけようとしている。よって彼は、まさかとは思いつつも、夏枝は村井のいない寂しさを女の子を授かる事で紛らわそうしているのではないか、と疑ってしまったのだ。
ところが夏枝にとって、村井の事と女の子の事は全く別の話題なのである。彼女はルリ子のいない寂しさから純粋に自分の子どもを望んでいるのであり、その思いが募っていき、夫の話題を差し置いて自分の気持ちを話しただけなのだ。
結果として啓造は、その時たまたま妻が募りに募らせて言った一言に対して、勝手な「夏枝像」をつくり、自ら振り回されていったのである。

2015年1月16日金曜日

「紋」ー黒島伝治

 「おりくばあさん」の家で生まれて育った猫、「紋」は、近頃他家の台所で魚を盗んだり、お櫃(ひつ)を床に落として米を食べたりする事を覚えてしまった様子。おかげでおりくと「じいさん」は村中の人々から白い目で見られるようになっていきました。そこでおりくは泣く泣く幾度か猫を捨てようと試みたのです。
 ところが猫は何度おりくが捨てても、いつの間にか戻ってきてしまいます。そしておりくもおりくで、猫が戻ってくるとあたたかくご飯を出してあげるのでした。しかし、根本的な問題は解決せず、猫は魚や雛鳥を盗んで食べますし、その度に村の人々はこの老夫婦と猫にきつくあたっていきます。それがエスカレートしていき、やがて老夫婦の家には風呂がないことをいいことに、村の人々は誰も2人を風呂に入れようとはせず、猫は棒を持った人々に追いかけられていくようになっていきました。
 そして遂におりくは港から出る発動機船に猫を乗せて、本土へ送ることにしたのです。ですが猫は本土に降りると再び船に乗り込もうとするところを船方に発見され、水荷い棒で殴られ、海に沈んでしまいます。それを船方から聞いたおりくは、沈み込んでしまうのでした。


 この作品では、〈村という閉鎖的な結びつきが他人を攻撃する事もあれば、それがより強い結びつきをつくることもある〉という事が描かれています。

 この作品を読んでいく中で、読者は村人から見える猫と老夫婦、おりくから見える猫とを対比せずにはいられないのではないのでしょうか。何故ならそれらはどちらも閉鎖的な社会に属していながらも、対象の扱いに大きな開きがあるからに他なりません。と言いますのも、おりくは幾度も猫がしでかした盗みによって、村の人々から白い目で見られ、挙句の果ては風呂まで入らせてくれないようになっていきます。ですが、人々からどんな嫌がらせを受けようととも、おりくは捨てようとはするものの、決して邪険に扱ったり罵ったり、暴力を振るったりすることはなく、猫が帰ってくるといつもあたたかく迎えるのでした。
 一方、村の人々は猫が盗みを働くと、猫だけではなく、老夫婦をも攻撃します。そしてその人々というのは、何も実害を被った人々に限らず、地主の下男や子供達など、直接関係のない者達からも危害を加えられるのでした。
 この両者には一体どのような違いがあるのでしょうか。それは下記の一文に大きなヒントが隠されています。これはじいさんが村の人々からの冷たい視線に耐えかねて、「もうあんな奴は放ってしまえ。」と言った一言に対しておりくが反論したものです。

「捨てる云うたって、家に生まれて育った猫じゃのに可愛そうじゃの」

 おりくの言い分では、どのように悪事を働こうとも盗もうとも、同じ家で生まれ育ったからには、それなりの運命共同体としての蓄積があり、村の人々からちょっと冷たくされただけでは切り離すわけにはいかない、という「閉鎖的な社会でお互いに育ったからこそ」の、感情的な言い分が潜んでいます。
 対する村の人々の言い分も考えてみましょう。直接被害を被っていない、下男や子供達が猫や老夫婦を攻撃するあたりを察するに、こちらも「閉鎖的な社会でお互いに生きているからこそ」、いつまでも盗みを働く猫を飼われていては困る、という言い分が潜んでいるのです。田舎という資金がなく物資の限られている社会では、物資や資金を蝕む者の存在はその家の者だけの問題ではなく、時には村全体に関わる問題にだって発展しかねない事でしょう。ですからこちらは現実的な言い分を述べている事になります。
 そしておりくの側では、感情的な意見を述べる一方で村の人々の現実的な意見にも、一定の理解を示しています。ですから彼女は、猫を船に乗せて本土に送らねばならなかった自分の運命、そして村に帰ってきては困ると考えている船方に殺されどうすることも出来なかった猫に対し、ただただ気持ちを沈めていくしかなかったのです。

2015年1月15日木曜日

人を殺す犬ー小林多喜二

 太陽がギラギラと照る真夏の昼間の北海道十勝岳の高地で、土方である源吉は親方やその子分である棒頭からの支配と厳しい労働からの逃走を試みました。23歳にして身体を悪くしていた彼は、青森に残してきた母親を思い、もう一度会いたい一心で逃げたことでしょう。
 しかしそんな彼の思いは天には通じず、土方仲間の晒し者として、親方の指示で土佐犬に噛み殺されることとなりました。そんな彼の姿を仲間たちは哀れに思いながらも、ただその様子を見守るしかありませんでした。
 そしてその晩、棒頭と2人の土方とが彼の遺体を埋めに行った時、土方の1人が棒頭のいない間にもう方片へ「だが、俺ァなあキットいつかあの犬を殺してやるよ……。」とボソリと言ったのです。一体何故、親分や棒頭などではなく、犬を殺すと言ったのでしょうか。

 この作品は、〈強力な支配を受けているが故に、仲間が殺された時に直接支配層にその怒りの矛先を向けることが出来なかった、土方たちの定め〉が描かれています。

 あらすじの問題を解くために、一度登場人物たちの立場関係をまとめておきましょう。源吉達土方は、親方や棒頭の支配階級の人々に厳しい労働を強いられており、反抗したり逃亡するような者がいれば、捕まえて土佐犬に噛まれる運命にあります。ですから、源吉を殺そうとした意思というものは、当然犬にはなく、親方や棒頭の側にあるのです。
 ところが物語の最後で、土方の1人がその怒りを向けたのは彼らではなく、直接源吉に手を下した犬でした。一体どういう事でしょうか。結論から申しますと、土方たちは支配層からあまりにも強力な支配を受けている為に、その怒りの矛先を向ける気には慣れなかったのです。何故なら、舞台は土方たち以外誰もいなさそうな高地。そんな高地で支配層に歯向えばどのようになるのでしょうか。助けてくれるものは外部から来そうもなく、為す術もなく源吉のように処刑されます。ですから幾ら仲間を殺す場面を見たくなくても、幾ら仲間の躯を捨てることに抵抗しようとも、こうした閉鎖された特殊な社会で生きる限り、彼らは棒頭たちの支配を受けなければなりません。
 だからこそせめてもの反抗として、仲間を殺した支配層の道具である犬に対して怒りの矛先を向けてるしか出来なかったのです。

2015年1月14日水曜日

電報ー黒島伝治(修正版2)

 16歳で父親に死なれ、真面目に働いているにも拘わらず村の有力者よりも格段に低い賃金で生活している百姓、「源作」は息子に自分と同じ思いをさせまいと、市(まち)の中学校への受験を決意していきます。と言いますのも、村の有力者達は総じてそれなりの学校を出ているので、彼も息子を市の学校へやればそれなりの職業に就いてくれるはずであると考えたのです。
 しかし村の人々の反応は冷ややかで、「……まあ、お前んとこの子供はえらいせに、旦那さんにでもなるわいの、ひひひ……。」と嫌味を言うばかりでした。そしてその度に妻である「おきの」は動揺します。それに対し源作は強気に、「庄屋の旦那に銭を出して貰うんじゃなし、俺が、銭を出して、俺の子供を学校へやるのに、誰に気兼ねすることがあるかい。」と妻に反論し、自分たちがしている事への正当性を主張します。そしてこうした彼の言い分は、幾分か彼女を安心させる材料にもなったのでした。
 ところがそんな源作にも、自分の意見を変えなければならない事態が起きてしまいます。それは息子の受験が終わり、村の税金をたった一日滞納した時のことでした。そのことで彼は村の村会議員である「小川」に目をつけられ、「税金を期日までに納めんような者が、お前、息子を中学校へやるとは以ての外じゃ。子供を中学やかいへやるのは国の務めも、村の務めもちゃんと、一人前にすましてからやるもんじゃ。」と非難されたのです。その一言で源作は今一度考えなおし、受験の結果を聞かずして息子を家に返すことを決意していきます。
 一体彼は何故村会議員のたった一言で、息子の受験をやめてしまったのでしょうか。

 この作品では、〈息子を貧乏から救うべく教育を受けさせようとしたにも拘わらず、貧乏人故に、虐げられる道へと引き戻さなければならなかった村百姓の事情〉が描かれています。

 あらすじにある問題を解くにあたって、改めて彼がどういった経緯で息子の受験を決意したのか、というところから考えていきましょう。
 そもそも彼の人生というものは、自分がこれまで貧乏であった為に村の有力者に搾取され、言うことを聞かなればならないというようなものでした。その中で源作は、自分が貧乏であるからこのような目に合っている事を自覚すると同時に、もし自分が貧乏でなければこのように苦労することはなかったであろうという思いを育んでいったのでしょう。そして後者の思いは子どもが生まれ成長していく中でも消えることなく募っていきました。それが息子の市の学校への受験という形で表れているのです。
 ここで重要なのは、源作がこうした思いを育んでいった背景には、同時に貧乏人として虐げられ続けてきた、という背景があったことも忘れてはなりません。つまり、彼は誰よりも自分が貧乏人である事を自覚し、自分の気持ちを殺して聞きたくもない有力者の言うことを聞く習慣が身についてしまっているのです。言わば、息子を受験させる数十年の間に、彼は例え自分が嫌なことでも、有力者の言ううことを必ず聞くという心と身体を自らでつくりあげていってしまったのでした。ですから彼は、自分と同じ村の人間の言うことであれば兎も角、村会議員たる小川に指摘された際に、自分は何か悪いことをしているからこそこうも非難されているのではないか、という錯覚に陥っていったのでしょう。
 こうして彼の抱いていた夢は、彼の貧乏人としての気質によって自ら砕いていってしまったのです。また、この作品の最後の2行には、息子は中学の受験に通っていたにも拘わらず、現在醤油屋の小僧にやられている事が書かれてあり、そんな息子の悲劇が貧乏人としての変えられない悲しい運命としてあったことを私達読者は痛感せずにはいられません。

2015年1月12日月曜日

山男の四月ー宮沢賢治(修正版2)

 山男は、ある時山鳥を捕らえ、その嬉しさのあまり獲物を振り回して森から出ていきました。そして日当たりの良い枯れ芝に出た彼は横になり、いつの間にか夢の世界へと旅立っていきます。
 夢の中では、山男は木こりに化けて町を歩いていました。そして、彼はそこで「陳」と呼ばれる薬売りに出くわし、六神丸という奇妙な薬を飲まされてしまうのです。すると山男はたちまち小さくなり、薬箱の中へ閉じ込められてしまいました。これには山男も憤慨し、薬箱の中から大きな声を出していました。しかし陳の、「それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する、それ、あまり同情ない。」という言葉を聞くと、急に不憫に思い、彼にもう騒がないと約束をしたのです。
 ところが、山男と同じように騙され薬を飲んでしまった者達が薬箱の中にたくさんいて、そのうちの1人から、薬箱に入っている黒い丸薬を飲めばもとの姿に戻れるという事を聞くと、彼はすぐにそれを試して陳のもとから逃げようとします。しかし陳も黒い丸薬を飲んで大きくなり、山男を逃しまいと襲ってきました。
 ですが夢はそこで終わり、目が覚めた彼は、山鳥の羽を見たり六神丸の事を考えているうちに、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
と言ってあくびをするのでした。

 この作品では、〈食べられる者の気持ちを垣間見たにも拘わらず、それまでの生活を行う為に、それをかき消していった、山男〉が描かれています。

 この作品では、もともと生き物の世界において食べる側である山男が、薬になることで食べられる側の気持ちを知ったにも拘わらず、何故か再び食べる側の気持ちに立とうとしています。では、彼が薬となって夢から覚めるまで、彼の心情にどのような変化があったのかを見ていきましょう。
 山男が陳に騙されて薬になったことを知ると、彼は怒り出し、大きな声で外の人々に自分の存在を知らしめて陳を懲らしめてやろうと考えました。しかしあらすじにもある通り、陳の哀願を聞くと、彼はどういうわけか陳を哀れに思い、もう騒がない事を約束したのです。と言いますのも、彼の中にはこの時、2つの立場が存在していました。ひとつは勿論食べられる者の気持ちであり、もうひとつが食べる者の気持ちです。そしてその2間において、食べる側の気持ちから陳に同情し、食べられる者の立場を潔く受け入れていくことを決意していったのでした。つまりこの時の主体は、食べる側にあったのです。
 ところが黒い丸薬を飲んで元の姿に戻った時はどうだったでしょうか。この時山男は食べる側の気持ちから食べられる側の気持ちを見てはいません。自身の生命の危機に直面し、彼は身も心も完全に食べられる側のものになっていました。
 そして目が覚めた時には、彼は既に食べられる側の気持ちをある程度は理解しているはずなのです。しかしそうであるにも拘わらず、彼はええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と、これからも動物を食べる事を選んでいったのです。これはどういうことでしょうか。
 結論から申しますと、これは山男がはじめ食べる者の側の都合から食べられる者の気持ちを考えていたこととも関連していますが、彼は言わばそれまでの生活のあり方からそうした意思決定をしていったのです。
 例えば、私達はスーパーで売られている豚や牛の肉塊を見ても哀れには思いません。お皿に盛られた焼き魚を見ても同情するどころか、美味しそうという、食べる側の視点からそれを見ることでしょう。そう、私達はそれまでの生活のあり方から、動物がどんな残酷な形で調理されても、それまで食事として食べてきた積み重ねから、中々可哀想という感情がわきにくくなっています。言わば、食べ物の気持ちにはなりにくいのです。そしてもし、それらの気持ちに近づきすぎると、それまで積み重ねてきた生活を続けることが困難になっていきます。
 話を物語に戻すと、この山男も矢張りそうです。彼はそれまでの自分の生活を守るために、またそれまで積み重ねてきた自分と食べ物の関係に引きずられる形で、食べられる動物の側の気持ちを考える事をやめていってしまったのでした。山男にとって、食べられる者の気持ちを考えることは、自分の生活を変えることと同じ意味を持っていたのです。

2015年1月8日木曜日

未亡人ー豊島与志雄(修正版3)

 この作品は、生前は有力な政治家の妻であった「守山未亡人千賀子」宛の、差出人不明の3通の手紙から成り立っています。その3通はどれも未亡人たる千賀子の一挙一動を非難するものばかり。と言いますのも、未亡人となった彼女は、その性質を活用し、人々の同情の眼差しを集め政治家になろうとしたり、男を知った女特有の艶かしさで、年下の男の気持ちを弄んだりしていたのです。
 またその手紙には少し奇妙なところがあり、
 ーーいいえ、それはきまっていました。
 ーーわたしは人間ですもの。
 といったように、あたかも彼女の答えを想定しているかのように、彼女と会話しているかのように、千賀子の台詞らしきものが書かれています。
 そんな手紙の差出人ですが、唯一、彼女が選挙の出馬を決めた後に夫の墓参りをしている場面において、彼女自身が「白痴」のように何も考える事を持っていなかったところについては一定の評価をしているのです。
 一体差出人は、何を評価したのでしょうか。何故彼女の挙動のひとつひとつがそうも気に入らないのでしょうか。

 この作品では、〈ある政治家の妻が「未亡人」になってしまったが故に、世間に対して画策するつもりが寧ろその言葉に振り回されていく様〉が描かれています。

 上記の問題を解くにあたって、はじめにこの手紙の差出人は誰なのかを得敵せねばなりません。差出人は少なくとも千賀子の生活を事細かく知っており、また手紙の中で彼女と問答している事を考えると彼女自身についてもよく知っているようです。恐らくこの手紙の主は、守山千賀子の別の人格が彼女自身を非難しているのではないでしょうか。そのように考えると、この2つの疑問に対しても一応の説明はつきますので、そう仮定した上で話を進めていきたいと思います。
 差出人たる千賀子はあらすじにもある通り、どうやら自分が夫に先立たれ、哀れで妖艶な「未亡人」としての社会的な付加価値のようなものを利用し、選挙に出馬しようとしたり、年下の男で遊んだりしているところを不純なものとして強く非難しています。
 では、何故そんな彼女は、墓参りに行った時自分を評価したのでしょうか。それは、まるで「白痴」のように、そうした不純な考えを少しも持っていなかったというところにあります。恐らく、夫が行きている頃の千賀子は、現在のように身の回りにあるものを使って世間の人々に対して画策を企てるような人物ではなかったのでしょう。ところが「未亡人」なってしまってからは、彼女を見る世間の人々の目が急に変わったことを面白がり、自身の性質でいろいろと小賢しい事を考えるようになっていってしまったのです。
 以来、彼女の中には、「未亡人」としての魅力で世間を惹きつけたいという欲求と、「未亡人」などといういやらしいものに負けてそれまでの自分を見失いたくないという、2つの相反した感情が葛藤するようになっていったのでしょう。ですから墓参りを終えた後の彼女は、政治家としての華々しい人生を期待しながらも、心の内では「これで自分はいいのだろうか」という不安を抱いており、瞳を濁らせていたのです。